第11話 罪を悔いること


 視線を感じる。そう意識した途端、リィリエのまわりにわだかまる闇、そのすべてが彼女を注視していると錯覚しそうになる。脂汗をにじませて、そっとリヒトとルカににじり寄り、二人を揺り起こす。

 狩人サルタリスと同じく魔導騎士ホスティアも、危険に対する感覚が鋭いらしい。彼らはすぐさま体を跳ね起こし、警戒態勢を取った。


「……数が多いね」


 リヒトが唇をわずかに動かす。視線がひとつではないと気づいたリィリエは、小さく喉を鳴らして同意した。いつしか視線は密な空気となり、じりじりと圧がかかる。三人は背を合わせ、前方をにらんだ。


 とつぜん闇のなかで一斉に、たくさんの赤い目玉がひらめいた。ぎょろりとした目の視線が集中し、不気味さにリィリエの胸が凍る。

 黒い塊が暗闇からおどり出る。頭のなかで警鐘が鳴り、彼女が固まった四肢を動かそうとしたその時、頬に生あたたかな粘液がかかった。

 血だ。あごからしたたった色を確かめると同時に、地面に何かが落ちる音がした。思わずそちらに視線をやると、真っ二つにされた異形の獣が、みじめに短い手足をばたつかせるさまが目に飛び込む。


「魔物の群れだ! ぼうっとするな!」


 リィリエの前に立ち、三日月斧バルディッシュに変わった右腕を振るうルカが叫ぶ。刃についた血を、焚き火がぬらぬらと黒く輝かせる。

 変わり果てた同胞の姿に、魔物の群れは一斉に奇声を上げた。金属が擦れあうような、甲高い声音で叫びながら、次々とこちらに飛び掛かってくる。

 ルカが白い弧のかたちに斧をふるう。リヒトは左腕を鎚矛メイスに変えて次々と魔物を叩き潰す。肉が裂ける音と、骨が砕ける音、ぼつぼつと死骸が地に埋もれる鈍い音が響く。


 リィリエの右腕も、危機を感じて短剣のかたちになっていた。けれど彼女はそれを振るうどころか、わななく左手でやいばを押さえ込んでいた。濃密な血の臭いを嗅いで、目の前の惨状に目を見開き、荒い息を吐いて。


(戦わなくちゃ……わたしは狩人サルタリスなんだから……戦わなくちゃ……!)


 そう言い聞かせても、身体はこごって動かない。

 次の瞬間リィリエは、邪悪な視線に射竦いすくめられた。ぞくりと背筋が震えると同時に、殺気が迫り──喉に衝撃を感じ、呼吸を奪われ、うしろへ弾き飛ばされる。


「リィリエ!」


 リヒトとルカの声が遠ざかり、木の幹に叩きつけられる。せたのも束の間、そのまま幹に縫い止められて、喉をぎりぎりと絞め上げられた。


「……っう」


 鬱血した頭が強く脈打って、思わず苦悶の声が漏れる。なんとか眼球だけを動かして下を見ると、手の長い狒々ひひに似た、毛まみれの魔物がリィリエの首をつかんでいた。大きく裂けた口が歪んで、黄ばんだ乱杭歯らんくいばが覗く。──笑っているのだ。爛々らんらんと光る血の色の瞳に怖気おぞけが走る。


 あの時の魔物と、同じ瞳の色。

 ──もう二度とあんな思いはしたくない……!


(かみさま……!)


 ずぶり、と右手に重い手応えがかかる。

 喉を絞めていた手が止まる。ぎゅっと目をつぶっていたリィリエが、おそるおそるまぶたを上げると、右手が……リィリエの武器が、魔物を貫いていた。


「あ……」


 どくり、どくりと魔物の身体が脈打つ振動が伝わり、ぬめった血液がしとどにリィリエの腕に伝う。思わず腕を引いて刃を抜き取ると、ぱっと血の華が咲いて、魔物はその場に崩れ落ちた。


 ほどなくして森は静寂を取り戻した。焚き火の側にはいくつもの魔物の死骸が転がっており、濡れた地面に長い影を作っている。濃霧にうっすらと血の臭いが混じるなか、リヒトとルカは魔物を屠った武器の血糊を、布きれでぬぐった。

 魔導騎士ホスティアの斧と鎚矛、狩人サルタリスの短剣は、それぞれなよやかな肉の腕に戻る。


「ごめん、君を守りきれなかった……大丈夫?」


 ルカと共に、リィリエのもとに駆けつけたリヒトが呼びかける。リィリエは木の根元にぺたんと座って放心していた。

 ルカはリィリエが刺した魔物に視線をやり、感嘆の声を上げる。


「この魔物、大きさからして群れをひきいていたおさに違いない。何の訓練も受けていないのに、武器を具現化させて魔物を屠るなんて……! よくやった、リィリエ!」


「わたしが殺した」


 リィリエが静かにつぶやいた。

 ゆっくりと顔を上げて、今度は苦し気に声を絞り出す。


「わたしが殺した……!」


 顔がくしゃりと歪んで、目から大粒の涙があふれた。

 両手で顔を覆って嗚咽を漏らす。血糊が右腕を、白い肌を染めている。


 頬を血で汚しながら泣きじゃくると、突然手を払われ、胸ぐらをつかまれて顔を上げさせられた。

 パン、と乾いた音がした。頬に衝撃が走る。じわじわと腫れるような熱に、リィリエは驚きのあまり息を止めた。

 目の前にあるのは、ルカの憤怒の表情だ。


「そうだ、お前が殺した。私たちと同じように。お前は魔物を殺す覚悟もできないまま、狩人サルタリスになったのか」


「……ルカ」


「リヒトは黙っていろ。いいかリィリエ、ここは禁忌の森だ。魔物の死をいたんだり、自分の罪に酔っているようでは、命がいくつあっても足りはしない。非情になれ。不幸を嘆くな。さもないと、死ぬぞ」


 ルカが冷えたまなざしを向ける。

 魔物の血で汚れた顔。リィリエと同じ……けれど彼女の表情はゆるぎないものだ。

 ルカをじっと見つめたリィリエは、力なく首を前に倒してうなずいた。


「よし」


 ルカが歯切れのよい声を上げる。それから彼女は手にしていた布で、涙と血で汚れたリィリエの顔を乱暴にぬぐった。


「あ……ルカ、さん……」


「ルカでいい。なんだ」


「……ルカの手が、汚れてしまう」


「いいんだ、私のことは。手は清めればいい。何度でも」


「………………ごめんなさい」


 リィリエは涙をこぼしながら、声を絞り出す。

 ──魔物殺しを後悔すれば、魔物殺しの魔導騎士ホスティアをも責めることになる。


 体を震わせるリィリエを目のあたりにして、ルカは気まずさを隠しきれず、彼女から視線を逸らした。自身の手を乱暴に布でぬぐったあと、ルカはリィリエの方へ腕を伸ばし、彼女の頭をぎこちなく撫でる。


「……こっちこそ頬を張って悪かった。私はお前みたいな優しい子に、簡単に死んでほしくないんだ」




   〇




 夜が明ける。禁忌の森にも朝が来て、木々を透かす太陽が、ぼんやりと浮かび上がる。

 濃い霧がたちこめる森のなかを、三人は葉導灯ようどうとうが示す方角へと歩き続けた。一晩経ってまぶたの腫れがおさまったリィリエは、この魔物が跋扈ばっこする森の空気に、少しずつなじみ始めたと気づく。それは環境に適応する人としての能力か、あるいは狩人サルタリスの持つ適性なのか、もしくは心のどこかに鍵がかかったのか──


 魔物の気配にさえ気をつけていれば、森はどこまでも深く、不思議な静けさに満ちていた。見たことのない灰色の下草や、墨のように黒い硬質な花。玉虫の瑠璃のいろに絶えず変色していく黒蜥蜴が、樹木の表皮に躍って、一瞬のうちに姿をくらませる。幻惑的なその風景はリィリエの目を奪い、不思議な忘我ぼうがの境地へといざなった。

 心はどんどん本能に忠実となり、よけいなことを考える時間が減っていく。森のなかでは幸と不幸の境目や、人間的な感情の価値は薄く、己もまた一匹の、ただの動物にすぎないのだと擦り込まれる。


 昼餉ひるげを取っていると、細い雨がそぼ降り始めた。糸杉の間をすべり落ち、深い木々の香を連れた雫は、冬の雨のように冷えている。

 三人は雨のなかを歩き続けたが、やがて濃霧で見通しがきかなくなり、岩山の隙間にある洞窟に逃げ込んだ。魔物に悟られないよう入り口を摘んだ下草で覆う。閉じた空間で火をおこす訳にもいかず、三人は互いの体温だけをよすがに暖をとり、眠りについた。


 禁忌の森に入って三日の朝を迎える。そろそろ携帯していた食料の底が見え始めた頃、葉導灯ようどうとうのなかの葉が、せわしなく左右に振れるようになった。


「アンゼルムの箱庭が近い証拠だよ。あと一息だ」


 励ましを口にしたリヒトに、リィリエは微笑み返す。


 陽が真上に昇りきる前に、小型の魔物三匹と遭遇し、三人はそれぞれ一匹ずつをしとめた。

 リィリエはもう、泣かなかった。

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