第9話 旅立ち


 夜空はあんなに澄んでいたのに、翌朝になると天は幾重にも連なった薄い雲に覆われて、教会の周りには白い濃霧がたちこめていた。

 湿り気をたっぷりと含んだ空気が、教会の庭を、あたりの草原くさはらを、森の木々を色濃く濡らす。朝露が木々の葉脈のあいだをすべり、土を黒く潤していく。


 朝食を済ませたリィリエは手早く身支度を整えて、教会堂の長椅子に座って、サリカからの使いを待っていた。ハイネがあつらえてくれた白い長衣と、聖具である純白の外套に身を包んで。

 やわらかな子羊の革でできた編み上げ靴と、そろいの腰帯。腰帯から下がる鞄には、保存食や薬草、傷薬や小間物が詰まっている。


 雲に隠れた太陽が昇りきるころ、教会堂の扉金具の輪が数度、鈍い音をたてて叩かれた。リィリエが立ち上がる。祭服に身を包んだハイネは穏やかに、来客をなかへといざなった。


「失礼します」


 朗々とした声が響いて、扉が押し開けられる。影はふたつ。黒い長衣の上に鎧をまとい、こちらにやってくるのは──リィリエよりわずかに年上の、青年の二人組だった。

 首都からの使いと聞いて、いかめしい戦士を思い描いていたリィリエは、声こそ発しなかったものの、思わず小さな口をあけて驚く。

 青年たちはハイネの前へと歩み出た。


「そちら、伝書をしたためたハイネ神父に違いないか」


 赤にも見紛う、短い栗毛を持つ青年が、勇ましい口調で聞く。


「いかにも。その通りです」


「良かった。我らはフォルモンド王国、首都サリカより派遣された使い、魔道騎士ホスティアのリヒトとルカ。このたびは、狩人サルタリスを禁忌の森のなかにある館へとお連れするにんになって、こちらに馳せ参じました」


 ハイネの言葉を受けて、うたうようになめらかな口調で返したのは、もうひとりの青年、すんなりとした黒髪を耳もとで切りそろえた、柔和な顔立ちの男だった。彼は名乗りながら手の動きで、自らをリヒト、勇ましい栗毛の青年をルカだと示す。

 リィリエとハイネも名乗り上げ、決まりきったかたちの引き合わせが終わる。


「……また子どもか。しかも女」


 ルカがリィリエを一瞥いちべつするなり、低い声でそう漏らした。


「ルカ。物言いに気をつけて。──ごめんね、これでも彼女は、女の子が狩人サルタリスになるのを心配してるんだ。根はいい子なんだよ」


「よせ。その〝いい子〟っていうのはやめろ」


 口を挟んだリヒトに、ルカが鋭い口調で言い放つ。

 リィリエは目を見ひらいて、何度もぱちぱちと瞬きを繰り返した。


(彼女……っていうことは、ルカさんは女の人なんだ)


 さすがに失礼なので声には出さなかったが、鋭い目つきと無造作に刈った髪からして、ルカは男と見紛みまごうばかりだ。どちらかというとリヒトの方が、柔和さも相まって中性的に見える。


「身支度は済んでるみたいだね。出立はできるだけ早い方がいい。君さえよければ、さっそく森へ向かうけど」


 リヒトがリィリエに屈託のない笑顔を向ける。リィリエはハイネに視線を向けて、彼がしっかりとうなずいたのを確認してから、二人の魔道騎士ホスティアの前に歩み出た。


「わたしはいつでも旅立てます。よろしくお願いします」


「良い返事だ。それじゃあ遅れないよう、ついてくるように」


 ルカが黒い外套をひるがえす。

 リヒトはハイネにうやうやしく腰を折り、彼女のあとを追った。リィリエもリヒトのうしろに続く。


「──あなた方に、神のご加護がありますように」


 ハイネの朗々とした声音は、教会堂のリブ・ヴォールト天井にこだまして、天へと吸い込まれていった。

 ルカが扉を開け放つ。薄暗かった堂内では、雲越しの光すらまばゆく感じた。


「……神父さまに何か言い残さなくて良かったのかい? もしかしたら、これが今生の別れかもしれないよ」


 扉をくぐる間際、リヒトは立ち止まって、隣にいるリィリエにそう囁いた。彼女は静かにかぶりを振る。


「お別れはきのう済ませました。それに──……」


 リィリエが教会の外へと足を踏み出す。生まれ育った村を、あたたかな家族を、兄のようにしたった神父を……そのすべてを背後に残して。

 彼女は未練を振り切るように、視線を上げた。


「必ず帰ってくると、約束しましたから」

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