第8話 最後の夜
草木も眠る夜半、リィリエはひっそりとまぶたを開けた。
寝具から体を起こし、ランプに火を入れる。彼女はそれを持ち、扉をきしませて寝室をあとにした。そのまま暗い廊下を渡る。
体を休めようと思っても、眠ることができなかった。明朝にはおそらく首都から使いがくるというのに。
──いや。だからこそ、かもしれない。
彼女は廊下でしばらく立ち止まり、迷ったすえに厨房へと足を向けた。
厨房の大きな窓から月明かりがこぼれている。近づくと、霧のわだかまった黒い森が浮かび上がって見えた。人里に立ち入れない
「……眠れませんか」
うしろから声がした。振り向くと、そこには白い月光に
小さくリィリエがうなずくと、ハイネは微笑んでかまどに近づき、銅の小鍋をかけた。手にした灯りの火をかまどに分け入れて、床下で冷やしていた山羊の乳を取り、鍋に注ぎ入れる。
「座ってください。あたたかい飲み物を入れましょう」
ハイネは湯気を立てる山羊の乳に蜂蜜を加え、ひとふさのラベンダーをひたした。安眠を誘う薬草である紫の小花から、心安らぐ香りが漂う。
リィリエは素直に食卓の椅子に腰掛けた。しばらくして目の前に差し出された器を、勧められるままに受け取り、口に含む。とろりとした熱さが喉をすべり、わずかな甘みが舌に響いた。
「あたたかい……」
そっと囁くと、ハイネが頬をゆるめた。彼もまたリィリエの向かいに座り、同じようにうつわを傾けた。
熱い飲み物に息を吹きかけて冷ましながら、リィリエはあらたまった気持ちでハイネを眺める。
清らな白雪色の長い髪に、薄紅色の瞳。そして誰よりも白い肌を持つ、美しい神父──彼は陽の光のもとにいられないのだと、幼い頃に聞いたことがある。彼は色素欠乏症、アルビノだからと。
アルビノは不具。それゆえに神に愛される、という言い伝えがある。神に愛されたから、彼は神父という仕事に就いたのだろうか。
じっと見ているうちに、ハイネと目が合った。リィリエはあわてて視線をそらす。
彼はそのままリィリエを見つめ続けて、そっと唇を動かした。
「……最後に、村をひと目見ようとは思わなかったのですか?」
リィリエの鼓動が跳ねる。厨房に来る前、廊下で迷っていたのを見透かされた気がして。おそるおそるハイネを見ると、彼は困ったように笑った。その笑みにうながされて、リィリエは思わずとつとつと本音をこぼす。
「……本当はすこし、迷ったんです。でも……未練が生まれる気がして」
村に帰れなくとも、教会から出て道を下り、家々の屋根を……ともる灯りの色を眺められたら。そう願ってしまった。せっかくこの数日で、
「あなたは本当に素直ですね。そして強い心を持っている」
ハイネはやわらかな声音でリィリエを讃えた。しばらくの沈黙ののち、彼は顔を上げて、
「……それでは、そんな良い子のあなたに、特別に」
神父は席を立ち、リィリエの右手をすくい上げた。誘われるままに椅子を立って、彼のあとに続く。
ハイネは厨房の扉を開け、廊下を渡り、階段を上った。ふたつの足音が、夜に響いて溶けていく。
階段を登りきった先にある木製扉を押し開くと、そこには小さな屋根裏部屋があった。ハイネの自室なのか、小さな家具が置かれており、突き当たりに両開きの窓がそなえつけられている。
ハイネはおもむろに窓を開け、リィリエを手招きした。彼女がきしむ床板を踏み、そっと部屋に入って、うながされるまま窓を覗くと……視界一面に、禁忌の森が広がった。
月と星々が瞬く空は群青、その下にわだかまっているのは、夜空よりもなお黒い糸杉の群れ。それらは遠目に、底の見えない崖の奈落にも、世界がそこで切り離された傷跡にも見えた。見渡しても森に果ては見えず、ただ白い霧が木々の隙間に薄くたゆたっていることだけが分かる。
風がリィリエの頬を撫でた。彼女は髪が躍るのもかまわず、景色に見入っている。
どこまでも続く、人が立ち入りを禁じられた、未開の森──
「禁忌の森は魔物の檻。四方の出口を四つの国に塞がれた、どの国にも所属しない異界です。
ハイネがリィリエの背後で、同じように森を見つめながらつぶやいた。
「けれど、
リィリエは黙って、森の木々のひとつひとつに目を凝らした。
今あの森のなかで、同じ夜空の下で、これから会う
──そして、リィリエを襲った魔物とも。
「森を見渡すことは、本来は森守りの聖職者にのみ許されることなのですが」
内緒ですよ、とハイネは片目をつむって、窓を閉めて日除け布を引いた。
窓から視線を外したリィリエの目が、ふと壁の一点に注がれる。彼女の視線を追いかけたハイネが、彼女と同じところを見て表情をやわらげた。
「……気になりますか?」
「あ……ご、ごめんなさい、じろじろ見てしまって……」
我に返ったリィリエが顔を赤くした。壁には、小さな肖像画が下がっていた。色褪せたその絵は、淡い白金の髪を持つ少女が描かれていて、こちらに微笑みかけている。
その笑顔と目が合った瞬間、リィリエは既視感を覚えたのだ。どこかで会ったことがあるような、見覚えがあるような……。
「あれは、私の幼なじみのドロテアです。ずいぶんと昔に……この肖像画が描かれて間もなく、亡くなりました」
淡々と語るハイネの言葉を聞いて、リィリエは息を飲んだ。
「あなたに少し似ています。ドロテアもまた、たおやかな見目と
ハイネの口調はどこまでもやさしくて、細めた目には、きっと彼女との思い出が映っているに違いなかった。掛ける言葉が見つからなくて、リィリエは黙りこむ。
「……あなたが魔物を倒して、すべてが終わった時。どうか、ここに帰ってきて下さい。人と違う時を生きる自分に、負い目を感じる必要はありません。私は
「……神父さま…………」
「無事に帰ってきて下さい。私はここでずっと、あなたの帰りを待っています」
目の奥が熱くなって、リィリエは唇を噛んだ。
もしかしたら……いや、きっとハイネは、リィリエにドロテアの面影を見ているのだろう。同じ白金の髪を持つ、気性がよく似た少女を、昔のように亡くしたくはないと。
それでも、リィリエは嬉しかった。
「はい……約束します……必ず帰ってきます、ハイネ神父さま」
彼女は微笑んで、誓いを立てた。
「わたしが帰ってくるまで、妹のアリスや弟のリデル……お父さんとお母さん、村のみんなのことを、見守っていて下さい」
リィリエの願いを、ハイネはそっとうなずいて受け入れた。
夜空には、道しるべとなる北極星が輝いている。
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