第7話 知れ、しかして備えよ


 目が開けると、天蓋から漏れる光が映った。地に手をついて、ゆっくりと体を起こす。しゃらしゃらと小さな音を立てて、服や外套に被さっていた白い砂が流れ落ちた。

 リィリエは地底湖の縁にいた。湖に浸かったせいで濡れそぼった、体や衣服はいつの間にか乾いている。青い水面に白蛇の姿はなく、どこまで見渡しても、自分以外の生き物はいない。


(──何か……しあわせな夢を見た気がする)


 まだ胸の奥がほんのりとあたたかい。どんな夢だったのかは、思い出せないけれど。

 リィリエは軽くかぶりを振る。そうして立ち上がろうとして──はたと気づく。

 地についた手。使い慣れた手。

 リィリエの……右手、、


「……っ!?」


 彼女はあわてて右の指先から肩口にかけてを撫でさすり、口を開け閉めした。左手に伝わる感触は、なめらかな肌をたどるものに間違いないのに、撫でられた方の右腕は、うすいろうの膜越しに触られたかのように、感覚が鈍い。


 ゆっくりと右手を握ってみる。足の指を曲げようとするのに似てうまくいかない。けれど、意識と体は間違いなく繋がっている。右腕がある、、、、、


「使徒の……種子のおかげ……?」


 それ以外に考えられない。するとリィリエは、狩人サルタリスになれたのか。

 右腕があることを差し引けば、急に何かが変わったようには感じられなかった。身のうちになんらかの力が宿った風でもなく、突然強くなったとも思えない。


 立ち上がって、砂浜に打ち捨てられたカンテラを拾う。一度消えたはずの炎は、なぜか煌々こうこうと灯っていた。とりあえずハイネのもとに帰って、使徒に会ったと伝えなければ──


 帰路をたどろうと地底湖に背を向けた時、湖から小さな物音がした。瞬間、考えるより先にリィリエは振り向いた。いや、振り向かされたのだ。熟練の者が反射的に身構える、本能にも似た動きで。

 物音の正体は、壁の石がなんらかの拍子で剥がれ落ちて、水面をたたいたものだと、波紋を見て知る。リィリエは体の緊張を解いて、無意識に前にかざしていた右腕を見た。


 ──そこに、銀の刃があった。

 白い光をうっすらと跳ね返す、抜き身の、磨き抜かれた剣が見える。果物の皮を剥く時にもちいるものより、やや長めの刃渡り。


(……なんでここに、短剣が?)


 彼女の疑問ももっともだった。この洞窟に入る時に刃はおろか、武器のひとつすら持ち入ってはいない。リィリエの疑問が解けたのは、右腕の付け根へと視線を動かした時だった。


 右腕が、刃に変わっていた。手があるべきところに硬質な銀の刃があって、刃へとつながる腕は、白い枝木のような骨へと変わっている。肩に収まるのは、上腕骨ともつれあう、同じく白んだ筋繊維。およそ人ではありえないかたちの変化に、リィリエの動きが止まる。


 ……普段の彼女ならば、驚き、嫌悪に泣き叫んでいただろう。

 けれどここにたどり着くまでに、リィリエはあまりに精神を摩耗まもうしていた。立て続けに起こる普通ではないできごとに、いつしか心が麻痺してしまったのか。彼女は声ひとつ立てない。

 そのかわり、彼女は甘い吐息を漏らす。


(あぁ……わたし、狩人サルタリスになれたんだ)


 物音に身構えた反射神経。ないはずの右手から生まれた武器。

 それはリィリエと使徒の契約の証だと、そう彼女は飲み込んだ。恐れよりも、恍惚こうこつが心に満ちていく。

 認められた。これでハイネのもとへ帰れる。これで村の暮らしを守れる。これで家族を魔物の手から遠ざけられる──


「……これで……魔物を殺せる」


 熱に浮かされた紅い唇から言葉が落ちると、呼応するように銀の刃は、もとの白魚しらうおの手へと変化した。リィリエは左手で右の手首を何度か動かす。もとあった右手と同じように、白い手のひらがやわらかくあおがれた。

 リィリエは納得したように、ひとつうなずいた。そして今度こそ洞窟から出るために、来た道を引き返す。




   〇




 神父に帰還のあいさつはできなかった。洞窟の入り口と通路の境目であった鉄扉を押し開けて、ハイネの顔を見た途端、心に張り詰めていた糸がふつりと切れて、彼女は倒れてしまったから。

 まる一日高熱にうなされて、翌日には嵐が過ぎ去ったかのように熱が引いた。前に目覚めた時と同じように、リィリエは客間の寝具の上で、澄んだ意識を取り戻す。ただ、ひとりぼっちで目を覚ましたあの時と違って、ハイネが側に寄り添って、手を握ってくれていた。


「……おかえりなさい。よく頑張りましたね」


 目覚めると同時に、心配そうにこちらを覗き込むハイネに声を掛けられて、思わず目じりが濡れる。けれどリィリエは涙をこぼさなかった。もう泣いてばかりの少女ではいられないから。リィリエは狩人サルタリスなのだから。


「ただいま帰りました……また迷惑をかけて、ごめんなさい」


 くぐもった小さな声音に、ハイネは目を伏せて首を横に振る。彼はリィリエの汗ばんだ額に張りついた白金の前髪を、そっといてくれた。


 リィリエは半身を起こし、洞窟に入ってからのできごとを、あますことなくハイネに伝えた。三つの試練、白蛇の使徒、それから……刃に変わる右腕の話。ハイネはリィリエの手を握ったまま、時に相槌あいづちを挟みながら、彼女の話にじっと耳を傾ける。話し終えると、彼はそのことについて触れず、ただリィリエに十分な休息と食事を摂るようにとうながした。


 厨房でカーシャを腹におさめたリィリエは、廊下を歩いていた時、一羽の鳥が空を渡っていくすがたを目にする。


「伝書鳩をサリカに飛ばしました。通達から派遣までにおそらく二日、人の足でこの教会まで三日……およそ五日後に、ここに使いがおとなうでしょう」


 翌朝の食事の席で、ハイネがリィリエにそう説明してくれた。

 シグリの村が帰属きぞくするフォルモンド王国、その首都サリカ。リィリエは名を知っているだけで、首都に行ったことはない。それでも王の住まう都に手紙を宛てたということが、この村でどれだけめずらしいかは知っている。

 ハイネは、首都から来るという使いについて、こう言った。


 森のなかにある狩人サルタリスたちの住む館、そこにたどりつくまでの護衛。

 ──すなわちそれは、狩人サルタリスにとって禁忌の森への旅立ちを意味する。


 朝食を終えると、ハイネはリィリエに分厚い数冊の本を手渡し、四日のあいだですべてに目を通すようにと言った。あまり書物になじみのないリィリエだったが、野草やきのこといった植物の、食べられるものと毒のあるものの見分け方がしるされた図鑑や、怪我の応急処置の方法や、火のおこしかたなどが書かれている本だと知ると、根気強くそれらを読んだ。書物には、彼女が森のなかで生き抜くために、必要な知識が詰まっている。


 読書と並行して、リィリエは右手の訓練も行った。食事の時にさじを握るのは右手、何度床に落とそうと、彼女は震える右手で匙を口に運び続けた。

 やがて軽いものならなんとか支えられるほどに、右手の機能は発達した。彼女の五指は洞窟から引き返した時以来、やわらかなままだったが、それはおそらくリィリエが危険を感じた時や、闘争の意思を見せた時だけ、武器のかたちをとるのだろうと、ハイネが教えてくれる。


 ハイネは薬草をより分け、保存食や包帯といったものをかばんに詰めて、リィリエの旅支度を整えてくれた。

 薄灰色の夜着に代わる、丈夫な白い長衣を彼女に着させ、余った袖を詰め、丈を合わせてくれる。彼の針仕事はそれにとどまらず、長衣の裾を飾る刺繍の側に、魔除けの縫い飾りをほどこしてくれた。


 陽は昇り、またかげる。

 二人は教会のなかで、またたく間に四日の時を過ごした。

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