第6話 使徒


 まぼろしが掻き消える。

 小さな火を吹き消すより、あっけなく。


 母と弟妹のすがたが消えると同時に、彼女らが持っていた灯りも闇に呑まれた。どこまでも広がるくらやみの底で、リィリエはひそりとわらう。


(前に神父さまが話してくれた、おとぎ話みたい……貧しい少女がマッチを擦っているあいだだけ、やさしい夢が彼女をくるんでくれる……)


 彼女は濡れた頬をぬぐおうともせず、ただただそこに立ちつくす。

 あのおとぎ話は、どんな結末だっただろう。あたたかな火がぜるストーブ、かみさまの生誕祭の時に食べるごちそう、そういったものがマッチに火をともすたび現れて……そうだ、最後は彼女をかわいがってくれた祖母の幻影があらわれて、天国へ連れて行ってくれるのだ。


 ──〝救いを求めるな〟


 あの声が響いた。けれどリィリエはもう、声の主を探すようなことはしなかった。うつむいたまま、指先ひとつ動かそうとしない。


〝……おいで〟


 リィリエはゆっくりと顔を上げる。異質な声からはあいかわらず感情が読み取れないが、その質感がすこしやわらかくなった。


〝おいで〟


 二度そう呼ばれて、リィリエは呆けたまま、声のした方へ体を向けた。

 いつの間にか風鳴りがやんでいる。あたりは耳に痛いほどの無音だ。けれどそれに気づく心のゆとりはすでになく、彼女はただ無機質に、足を前へと動かした。


 やがて闇にほの明かりが差す。洞をかたち作る岩石のなかに、ちらちらと白い粒が混ざり、それがうっすらと明るんでいるのだ。歩くごとに白のめる割合は多くなり、やがて岩壁は水晶のまじったものへと変わった。灰白色かいはくしょくの砂をざりざりと踏むと、時々小さな星屑に似た粒が、瞬くように白んだ光をはね返す。


 狭い洞が終わり、開けた場所に出る。洞窟の最奥には地底湖が広がっていた。たっぷりと水を蓄えた湖は、蓄光石が沈んでいるのか、あるいは夜光虫の住処すみかなのか、ラピスラズリの──天上の青の色に染まっている。

 雲間から陽が差すように、天井から天使の梯子はしごが伸びており、ラピスラズリの湖に、まだらなセルリアンブルーの輝きを落としている。神秘的なふたつの青に吸い込まれ、道は砂浜となって終わっていた。

 リィリエは砂をさくさくと踏んで、湖のきわまで歩いて、立ち止まる。自分を呼ぶ声が、湖から聞こえてきたような気がして。


「……来たわ」


 かすれた声音を落とす。

 たぷん、と波打つ水がこたえて、水面が揺れた。


 波紋の輪のただなかに、白い蛇が半身をあらわした。蛇はリィリエのいる波打ち際へと近づいて、体をくねらせ身震いする。水の雫が波紋をつくり、小さな鱗が虹の遊色ゆうしょくを踊らせた。

 上半身の水気を切った蛇は、胴のあたりにたたんでいた純白の羽を開く。白い鳥のような、絵画に描かれる天使のような、翼。

 青い瞳がリィリエに向けられた。


〝よく耐え、ここまで辿り着いたな。人の子よ〟


 耳ではなく体の奥底で聞くような、あの異質な声が響く。

 その声を聞いて、リィリエはうつろだった目を見開いた。そうねぎらうということは、あのまぼろしはやはり──


「あ、あなたが……見せたの、あんな……ひどい……っ!」


 水面をばしゃんと叩く。泣きたくないのに、怒りのあまり涙がにじむ。

 こごっていた感情が体のなかを駆け巡って、おもわず白蛇に手を伸ばす。伸ばしても届かないと分かると、彼女は癇癪かんしゃくを起こして、激しい音を立てて湖のなかへ踏み込んだ。片手で白波を作り、白蛇の体をわしづかむ。


〝あれが定められた試練だ。我は感情を持たないが、激しい辛苦をともなうということは知っている……すまなかった〟


 白蛇は淡々と謝罪を述べた。

 動きを止めたリィリエの手のなかから、するりと白蛇はい出て、翼をはためかせて空に浮いた。

 ずぶ濡れになったリィリエは、腰のあたりまで水に浸かったまま、白蛇を見上げる。


「試練って……」


〝我は使徒。訪れた者が、ちからを持つにふさわしい者かを見定めるもの〟


 ──使徒。この目の前の生き物が。

 リィリエは怒りを忘れて白蛇を見た。白蛇は目を細めて彼女を見下ろす。


〝……面妖だな。肉体と魂の天秤が不均等だ〟


「え……?」


〝まぁ良い。判別に差し支えることではない〟


 疑問の声を上げたにも関わらず、白蛇はひとりでそう納得してしまう。リィリエは思わず眉根を寄せた。何を言っているのか分からなくて、問いただそうとしたその時、白蛇と視線が合った。


〝異なるものを恐れるな。たやすく信じるな。救いを求めるな。……お前は我の三度の試練に、すべて助言とは逆の道を選んだな〟


 指摘されて、言葉に詰まる。


「……わたし、駄目ですか。狩人サルタリスになれませんか」


 白蛇はその疑問に応えることなく、風切り羽で空を掻き、ひとひらの木の葉めいた舞いをみせながら、彼女のまわりを飛びまわった。


〝お前は幾度も裏切られた。目の前のものがまぼろしと気づいていたにも関わらず、お前は何度でも現れたものを信じた〟


 リィリエはうつむいて目を伏せた。

 だが、と白蛇は言葉を吐き、彼女の前に舞い降りる。


〝お前は恐怖と不信を植えつけられながら、それでも変わらず人としての心を持ち続けた。恐れながらも前に進み、人を信じ、故郷を想い、家族の愛とぬくもりを求めた。まぼろしから目をそむければ恐怖はなくなり、楽になれると知っていながら〟


「……え」


 思わず顔を上げると、また白蛇と視線が合った。小さくて丸いその有鱗目ゆうりんもくは、白い砂浜に輝く小粒なサファイヤを思わせる。深い、深い青色。


〝誰かを愛し、信じ続ける心は、人の至宝だ〟


 深い声が体の奥底に届き、波紋となって広がる。

 リィリエは唇を開き、何か言葉を生もうと試みたが、それは声にならなかった。感慨と驚嘆がないまぜになって、胸の奥でからまっている。


〝……我を欲するか〟


 白蛇の問いに、リィリエはすぐさま何度もうなずいた。


〝我を受け入れる覚悟はあるか〟


 再びうなずく。今度は深く、一度。

 リィリエを見つめる白蛇の目が、薄い膜に覆われ細められる。


〝良いだろう。お前に種子を与えよう。だが、ちからに酔い忘れることなかれ。今のお前の、限りなく純な心を。魔物というかなしい肉のうつわから、魂を救済する御手サルタリスとなれ〟


 そう告げるや否や、白蛇は再び羽をはためかせ、リィリエの右肩に舞い降りた。彼女が何か言うより先に、腕の切断面、やわらかな皮膚が張った傷口に這い寄り──皮膚を突き破り、肉のなかに潜り込む。


 リィリエが怖気おぞけに肌を粟立て、悲鳴を上げる。水を蹴り、体をよじって振りほどこうとするも、やがて彼女の頭はうすあまい疼痛とうつうを生み、蓮が花弁を閉じるように、知覚に薄い膜を張っていった。視界がにごり、意識が混濁し……リィリエはふつりと昏倒こんとうした。

 最後に水が割れる音と、銀の泡が立つ瑠璃の羊水を感じて。




   〇




 ──世界がつたない木炭画のように映る。

 黒く汚れた擦り硝子ガラスを通したような、曖昧な視界を動かす。


 誰かが笑っている。幸福そうに声を上げて……その声が身のうちから出ていることに一拍遅れて気づく。こんなに満ち足りた笑い声を上げるのは、いつぶりだろう。

 胸に込み上げる感慨に、ふくよかな息を吐くと──暗い視野に白い星がにじんだ。

 違う。それは星ではなかった。鉛に宿った薄明かり。樫の木と鉛でできたロザリオが、目の前でゆらゆらと揺れている。


 ──わたしに?


 自身がそうつぶやくのを聞く。ロザリオが近づき、かすかな金属の擦れあう音がする。首と心臓の上に、わずかな重みが加わった。


 ──ありがとう。


 やわらかな声音が唇からこぼれる。誰かの手が頬をなぞった。ぬくもりを感じて、胸の奥からよろこびがこんこんと、尽きることのない泉のように湧き上がる。


(……ああ。視野は暗くて、世界はおぼろなのに……わたしはどうしてこんなに、しあわせなんだろう)

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