第6話 使徒
まぼろしが掻き消える。
小さな火を吹き消すより、あっけなく。
母と弟妹のすがたが消えると同時に、彼女らが持っていた灯りも闇に呑まれた。どこまでも広がるくらやみの底で、リィリエはひそりと
(前に神父さまが話してくれた、おとぎ話みたい……貧しい少女がマッチを擦っているあいだだけ、やさしい夢が彼女をくるんでくれる……)
彼女は濡れた頬をぬぐおうともせず、ただただそこに立ちつくす。
あのおとぎ話は、どんな結末だっただろう。あたたかな火が
──〝救いを求めるな〟
あの声が響いた。けれどリィリエはもう、声の主を探すようなことはしなかった。うつむいたまま、指先ひとつ動かそうとしない。
〝……おいで〟
リィリエはゆっくりと顔を上げる。異質な声からはあいかわらず感情が読み取れないが、その質感がすこしやわらかくなった。
〝おいで〟
二度そう呼ばれて、リィリエは呆けたまま、声のした方へ体を向けた。
いつの間にか風鳴りがやんでいる。あたりは耳に痛いほどの無音だ。けれどそれに気づく心のゆとりはすでになく、彼女はただ無機質に、足を前へと動かした。
やがて闇に
狭い洞が終わり、開けた場所に出る。洞窟の最奥には地底湖が広がっていた。たっぷりと水を蓄えた湖は、蓄光石が沈んでいるのか、あるいは夜光虫の
雲間から陽が差すように、天井から天使の
リィリエは砂をさくさくと踏んで、湖の
「……来たわ」
かすれた声音を落とす。
たぷん、と波打つ水が
波紋の輪のただなかに、白い蛇が半身を
上半身の水気を切った蛇は、胴のあたりにたたんでいた純白の羽を開く。白い鳥のような、絵画に描かれる天使のような、翼。
青い瞳がリィリエに向けられた。
〝よく耐え、ここまで辿り着いたな。人の子よ〟
耳ではなく体の奥底で聞くような、あの異質な声が響く。
その声を聞いて、リィリエはうつろだった目を見開いた。そう
「あ、あなたが……見せたの、あんな……ひどい……っ!」
水面をばしゃんと叩く。泣きたくないのに、怒りのあまり涙がにじむ。
〝あれが定められた試練だ。我は感情を持たないが、激しい辛苦をともなうということは知っている……すまなかった〟
白蛇は淡々と謝罪を述べた。
動きを止めたリィリエの手のなかから、するりと白蛇は
ずぶ濡れになったリィリエは、腰のあたりまで水に浸かったまま、白蛇を見上げる。
「試練って……」
〝我は使徒。訪れた者が、ちからを持つにふさわしい者かを見定めるもの〟
──使徒。この目の前の生き物が。
リィリエは怒りを忘れて白蛇を見た。白蛇は目を細めて彼女を見下ろす。
〝……面妖だな。肉体と魂の天秤が不均等だ〟
「え……?」
〝まぁ良い。判別に差し支えることではない〟
疑問の声を上げたにも関わらず、白蛇はひとりでそう納得してしまう。リィリエは思わず眉根を寄せた。何を言っているのか分からなくて、問いただそうとしたその時、白蛇と視線が合った。
〝異なるものを恐れるな。たやすく信じるな。救いを求めるな。……お前は我の三度の試練に、すべて助言とは逆の道を選んだな〟
指摘されて、言葉に詰まる。
「……わたし、駄目ですか。
白蛇はその疑問に応えることなく、風切り羽で空を掻き、ひとひらの木の葉めいた舞いをみせながら、彼女のまわりを飛びまわった。
〝お前は幾度も裏切られた。目の前のものがまぼろしと気づいていたにも関わらず、お前は何度でも現れたものを信じた〟
リィリエはうつむいて目を伏せた。
だが、と白蛇は言葉を吐き、彼女の前に舞い降りる。
〝お前は恐怖と不信を植えつけられながら、それでも変わらず人としての心を持ち続けた。恐れながらも前に進み、人を信じ、故郷を想い、家族の愛とぬくもりを求めた。まぼろしから目を
「……え」
思わず顔を上げると、また白蛇と視線が合った。小さくて丸いその
〝誰かを愛し、信じ続ける心は、人の至宝だ〟
深い声が体の奥底に届き、波紋となって広がる。
リィリエは唇を開き、何か言葉を生もうと試みたが、それは声にならなかった。感慨と驚嘆がないまぜになって、胸の奥でからまっている。
〝……我を欲するか〟
白蛇の問いに、リィリエはすぐさま何度もうなずいた。
〝我を受け入れる覚悟はあるか〟
再びうなずく。今度は深く、一度。
リィリエを見つめる白蛇の目が、薄い膜に覆われ細められる。
〝良いだろう。お前に種子を与えよう。だが、ちからに酔い忘れることなかれ。今のお前の、限りなく純な心を。魔物という
そう告げるや否や、白蛇は再び羽をはためかせ、リィリエの右肩に舞い降りた。彼女が何か言うより先に、腕の切断面、やわらかな皮膚が張った傷口に這い寄り──皮膚を突き破り、肉のなかに潜り込む。
リィリエが
最後に水が割れる音と、銀の泡が立つ瑠璃の羊水を感じて。
〇
──世界がつたない木炭画のように映る。
黒く汚れた擦り
誰かが笑っている。幸福そうに声を上げて……その声が身のうちから出ていることに一拍遅れて気づく。こんなに満ち足りた笑い声を上げるのは、いつぶりだろう。
胸に込み上げる感慨に、ふくよかな息を吐くと──暗い視野に白い星がにじんだ。
違う。それは星ではなかった。鉛に宿った薄明かり。樫の木と鉛でできたロザリオが、目の前でゆらゆらと揺れている。
──わたしに?
自身がそうつぶやくのを聞く。ロザリオが近づき、かすかな金属の擦れあう音がする。首と心臓の上に、わずかな重みが加わった。
──ありがとう。
やわらかな声音が唇からこぼれる。誰かの手が頬をなぞった。ぬくもりを感じて、胸の奥からよろこびがこんこんと、尽きることのない泉のように湧き上がる。
(……ああ。視野は暗くて、世界は
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