第5話 まぼろし
歩いても歩いても、道の果てが見えない。
単純な一本道だからこそ、同じところを延々と歩いているような気がしてくる。
(そんなはずないわ。わたしはちゃんと前へ進んでる)
そう自分に言い聞かせて不安を打ち消しても、闇は黒い手を伸ばしてリィリエの心を絡め取ろうとする。緊張と不安のあまり呼吸は浅くなり、指先が冷たくこわばっていくのが分かった。
(……そうだ)
リィリエは道の隅へカンテラを向けて、地面に転がっている小石に目を向けた。そのなかから白い石灰質のものを探り当てて拾い、それを壁にこすりつける。
白い流星に似た目印がついた。
(これで同じところを歩いてないって証になる)
安心して、再び歩き始めてほどなく、張り詰めていた神経のひとつ──聴覚が、小さな調子を拾って震える。
(今度は何……?)
音は、もときた道から近づいているようだった。それは軽く、規則正しく地を鳴らす響き──誰かの靴音だ。灯りを掲げて、闇に目を凝らす。こちらに走り寄るその人影は、
「神父さま……?」
白く豊かな髪、黒い祭服、薄紅色の瞳。その人は、ハイネに違いなかった。
「リィリエ……!」
彼は呼吸を乱したまま、少女の手をとった。
まぼろしではない。さきほど手を重ねられた時と、同じぬくもりが伝わる。
「大変です、シグリの村に……魔物が……!」
リィリエはハイネの言葉に息を飲んだ。
「はやく村人たちを助けに行って、安全なところに避難させないと……あなたも手伝って下さい」
「……はい!」
すぐにうなずいて、腕を引かれるまま、もと来た道を走り出す。
踏みしめた地面が、突然ずぶりとぬかるんだ。あ、とリィリエは小さく声を上げる。それが悲鳴に変わるのを待たず、沼と化した地面はつま先を侵食し、一気に頭まで飲み込んだ。
ぬるりとした感触が全身を通り過ぎ、泥を突き抜けて
叫ぶどころか、風圧で息すらできない。なんとか視線を足へと向ける。
飛ぶ鳥の視界のような遠景が映った。リィリエが空を落下しているからだ。眼下に広がるのは、シグリの村の家々だった。
リィリエは目を見張る。さきほどから感じていた橙の光は、屋根の色でも、窓からこぼれるあたたかな灯りでもなかった。それは、あたり一面に逆巻く、紅蓮の炎だった。
村が燃えている。建物が崩れ、人々が逃げ惑っている。
黒い魔物の群れが人を襲う。血
壮絶な光景がリィリエの眼前に迫った。小さかった人影は落下するにつれ、すがたが分かるようになり、そのうちの一人がゆたかな白い髪を持っていることに気づいたリィリエは、風圧にあらがって、むりやり唇をこじ開けた。
「神父……さま……!」
悲鳴じみた呼びかけに、ハイネが頭上を振り仰ぐ。
「今あなたが村に帰って、なにができますか?」
ハイネの悲しげな声に、心が凍りつく。
「──あなたが魔物に襲われたばかりに……こんなことに」
その言葉を耳にしてまもなく、リィリエは地面に叩きつけられた。
〇
閉じていたまぶたをそっと開けると、
体を起こすと、橙の灯りが目に入る。地面に転がったカンテラの灯りだ。
ハイネの姿はどこにもない。
(前とおなじ……まぼろし……?)
──〝たやすく信じるな〟
「……っ!?」
また、あの声がした。リィリエは立ち上がり、あたりを見回す。けれどやはり誰の姿も見あたらない。
──これは、姿の見えない声の主のしわざだ。
そう気づいた途端、腹の底が熱くなった。こみ上げる
「なんで、こんなものを見せるの……っ」
問い掛けに答える声はない。小さく
──先へ進まなければ。
分かっていても足が重くて、ただの一歩が踏み出せない。
泣いてはいけない。涙をこぼしてしまったら、きっともう前に進めない。
リィリエはロザリオをぎゅっと握った。まぶたを下ろして、聖具である外套のあたたかさと、百合の匂いを感じ取る。心に自然と浮かんだのは、祈りだった。
(──かみさま、わたしに勇気を与えてください。
そうだ。さきほど見たものを現実にしないためにも、前へ進まなければ。使徒に会わなければ。
リィリエは再び歩き始めた。不格好な、壊れかけの人形に似た動きで。
〇
つたない足取りで歩いていたリィリエが立ち止まる。
岩壁に、白い流星の
「うそ……」
どうして、と続くはずだった声は、喉の奥で消えてしまった。壁にカンテラをかざして目を凝らしてみても、それはリィリエのつけた目印に違いなかった。
──同じところを歩いている。
それとも、この
カンテラの火が掻き消えた。リィリエの悲鳴が風にさらわれる。風のせいか、それとも油切れを起こしたのか……あるいは意図的に消されたのか。
何も分からない。確かなものが何もない。
──落ち着かないと。そう自らに言い聞かせても、心臓は早鐘を打った。時間を追うごとに圧倒的な質量の暗闇が、リィリエの上に重くのしかかる。
それは無。存在を奪い、何もかもを塗りつぶす闇。
何も見えない。体はここにあるのだろうか。ここに、ちゃんと存在しているのだろうか。
不気味な風鳴りが聞こえる。その音が洞に反響する。頭のなかにいつまでも響いて、震えて、頭が揺さぶられて──
絹を裂く悲鳴が喉を突いた。
リィリエはその場にうずくまり、頭を抱え、目をきつく閉じ、叫び続けた。
怖い。
──怖い!
「おねえちゃん?」
とつぜん響いた声に、リィリエは驚き目を開けた。
薄明かりに、見慣れた白金の巻き毛が浮かんでいる。愛嬌たっぷりにまたたく琥珀の瞳、そばかすの散ったまるい頬……リィリエの弟が、カンテラを片手に提げて、小首をかしげていた。
「…………リデル……?」
「あっ、おねえちゃん! どうしたの、こわいゆめでもみたの?」
リデルのうしろから飛び出して、愛らしい声音を響かせたのは、リィリエの妹だった。ふたつくくりの尾っぽのような髪を跳ねさせて、リィリエに駆け寄って、ぎゅっと手を握る。
「だいじょうぶだよ、アリスがついてる!」
「あ! なんだよアリスばっかり、ずるいぞ! おねえちゃんをさきにみつけたのは、ぼくだからな!」
リデルは頬を膨らませて、リィリエに飛びついた。
小さな手と小さな体。ふれあうところからあたたかさが伝わってくる。子犬のようにじゃれてくる二人のあいだに立ち、リィリエは戸惑い、声をなくした。
(これも……まぼろしなの……?)
弟と妹に何度も名前を呼ばれて、心配そうに顔を覗きこまれる。リィリエはぎゅっと目をつぶって、かぶりをふった。
「やめて」と口にして、二人を拒絶する。こんな地下の奥深くに、幼い弟と妹がいるはずがない。そう自分に言い聞かせる。本当は今すぐにでも手を握り返し、抱きしめたいという衝動に、必死に
もう何も信じられない。信じてはいけない──
「リィリエ」
そう思っていたのに。
リィリエはおもわずまぶたを持ち上げて、ぎこちなく首を動かした。
視線の先で、ぽつんと橙の灯りが揺れている。カンテラを提げて近づいてきた人の姿をとらえて、リィリエの瞳の膜がうらうらと揺れる。
「リィリエ、どうしたの? こんなところで。何かあったの?」
「……お母さん」
リィリエと同じ白金の髪をひとつにまとめ、不思議そうに微笑む目の前の女性を、リィリエはしゃがれた声で呼んだ。
その言葉を、いま一番会いたかった人の呼び名を口に出した瞬間、リィリエを支えていたものが砕け散った。
「お母さん……!」
リィリエは立ち上がり、母の胸へ飛び込んだ。やわらかな体にきつく腕を回して、白いエプロンドレスに顔を
何度も何度も母の名を呼ぶ。息がうまく吸えなくて、紅潮したリィリエのやわらかな頬に、まるい雫がいくつも伝って落ちる。
いかに意志を強く持とうとしても、彼女はまだ、十四歳の少女だった。
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