第4話 加護と試練


 狩人サルタリスになると決めたリィリエに、聖具がほどこされた。

 夜着の上からふわりと被せられたその聖具は、輝くような純白の外套だった。金糸でささやかな飾り縫いがしてある、豪奢すぎず質素すぎない、優美なつくりのものだ。

 裾をつまんでみると、羽根のように軽い。衣擦れするたび、清らな百合の香りが匂い立つ。


「聖水、乳香の精油、ナルドの香油。月桂樹の葉に溜まった朝露、白百合の花びら、さら蜜蝋みつろう……」


 ハイネがしゃがんで、リィリエの外套のボタンを留めながら、名前を挙げていく。


「それらを混ぜ合わせて煮詰めたものに、織布を浸して作った、魔除けの効果のある特殊な外套です。雨水を弾き、血や泥に汚れることもない」


 まとわせてもらった聖具は、産着のようにリィリエのはだにしっとりと馴染んだ。外套が外気をやわらかく閉じ込めて、護ってくれているような心地がする。


 今二人がいるのは、礼拝所の脇にある聖具室だ。外套を身に着けたリィリエを、ハイネは部屋の隅にある扉へと招いた。それは古びた木製扉で、そこに下がっていた錠に、ハイネは輪でまとめられた鍵のひとつを差し込んだ。


 長いあいだ閉じたままだったのだろう、扉の蝶番ちょうつがいは錆びた音をきしませて、暗闇へと降りる階段をあらわにした。下からぬるい風が吹き上げて、奇妙な空洞音が響く。その不気味さにリィリエは一瞬たじろいたが、ハイネが火が灯った燭台を片手に階段を降りていくと、彼女は固唾を飲み、後に続いた。

 靴の音が反響して、闇へと吸い込まれていく。石造りの壁に囲われた階段は螺旋らせん状になっており、地下の奥深くまで続いていた。


(教会に、こんな場所があったなんて……)


 階段を下りながら、リィリエは驚きの吐息を漏らす。


 どれくらい地下へと潜っただろうか。陽の光から遠のき、時間の感覚が狂いはじめたころ、階段は隧道ずいどうへと変わった。道なりにしばらく歩くと、こまやかな薄肉彫りが施された鉄扉に行き当たる。ハイネは立ち止まり、扉の横にそなえつけてあったカンテラを外して、オイル芯に燭台の火を分け与えた。


狩人サルタリスの資格を持たない私が案内できるのは、ここまでです」


 ハイネは振り返り、カンテラをリィリエに手渡した。


「この扉を開けた先に使徒がいると言われています。使徒に会い、認められ、種子の恵みを受ければ、あなたは狩人サルタリスになれる」


 また鍵束のなかから一本を選んで、ハイネは扉を開錠した。彼が扉を奥に押し開くと、低い音をとどろかせて、使徒への道が開ける。

 扉の先はまっくらで、二人の持つ小さな灯りだけが浮かんで見えた。

 こくり、とリィリエの喉が鳴る。暗闇に踏み出すことを躊躇ちゅうちょしていると、カンテラを持つ左手の甲に、やわらかな感触が落ちた。リィリエの小さな手に、ハイネの骨ばった手が重ねられたのだ。


「まっすぐでやさしい心を持つあなたなら、きっと使徒に認めてもらえます。大丈夫。私はここで、あなたの帰りを待っていますから」


 ぬくもりに満ちた笑顔を浮かべるハイネ。その表情に励まされ、リィリエは唇を噛みしめて、しっかりとうなずいた。

 リィリエは扉をくぐり、ハイネを振り返る。


「……いってきます」


「──気をつけて」


 ハイネの返答を最後に、扉が轟音と共に閉じられた。

 ひとりぼっちになったリィリエは、震える手で灯りをかかげた。そうして暗闇の奥へと、踏み込んでいく。




   〇




 洞窟に、人の手が入った痕跡は見あたらなかった。地下水が浸食してできたのだろうか。いびつなかたちの岩壁が、湿り気で濡れている。

 リィリエは迷わないよう、片側の壁に寄り添って歩いた。しかしいくらか進むうちに、洞窟は単純な一本道だと知れた。

 それでも先の見通せない道を歩くのは心ぼそい。洞に響く風鳴りが、いつしか獣のうめき声に聞こえてくる。不気味な音が頭のなかにこだまして、あの時の魔物の赤い目を思い出しそうになり、リィリエは慌ててかぶりを振った。


(だめ、今は先に進むことだけ考えないと)


 恐怖は自覚すると、際限なく広がってしまうものだから。


 彼女は意識を外ではなく、内へと集中させようと心がけた。自分の靴音、脈拍、呼吸──そういったものに耳を澄ませる。木綿の夜着の慣れた肌触り、それから聖具である外套のあたたかさ……。動くたびに、わずかに百合の香りが漂ってくる。リィリエを励ますかのように。


 彼女以外の命の気配は、この洞窟からは感じられなかった。リィリエはただ暗闇への恐怖にあらがい、歩く。先へと進む。それだけで良かった。

 ──彼女の耳が異質な音を捕らえるまでは。


「な、なに……」


 思わず漏れたつぶやきは、闇へと吸い込まれる。リィリエはカンテラを持つ手を伸ばして、道の先へと目をらした。

 ふいごを立て続けに鳴らすような、密な空気が連続して漏れる音。それがだんだんと近づいている。地を蹴る爪の音が加わるころには、リィリエの目には赤い光が映っていた。

 ──躍動する獣の、まなこの色。


 黒い毛並みの狼──ただし三つの頭を持つ異形──が、こちらに駆けている。狂ったように体をねじり、赤い舌を覗かせて、よだれを垂らしながら。なまぬるい風と共に、獣の匂いと殺気がリィリエに迫った。

 恐怖に棒立ちになっていた彼女が、殺気にあてられ、弾かれるように背を向けて走り出す。もつれる足を叱咤しったする余裕もなく、ただ、獣から逃げたいという一心で。


 しかし逃げ切ることはできなかった。飛びかかる獣に体をねじ伏せられる。叩きつけられた地面で強く頭を打つ。眩暈めまいを覚える暇すらなく、鋭く焼ける痛みが背を焦がした。


「いやあああぁぁっ!」


 リィリエは痛みと恐怖に絶叫した。鋭い爪で背をむしられて、水音と共に肉があばかれる。牙で背を食い荒らされ、臓物を引っ張られて、リィリエは裏返った悲鳴を上げてのたうちまわった。

 体から熱い血があふれ出る。

 失っていく。急速に──


 肉体と精神を繋ぐ糸の、最後の結び目がほどかれようとした、その時。唐突に突風が吹き渡ったかと思うと、すべての痛みが霧散した。それと同時に、獣の匂いが掻き消える。


 しばらく呼吸を乱していたリィリエは、おそるおそる半身を起こした。彼女の身じろぎに合わせて、引き裂かれたはずの背中はなめらかに動いた。血の一滴が落ちるどころか、傷のひとつすらついていない。

 立ち上がってあたりを見回す。

 洞は以前と同じように、ただ風鳴りを響かせているだけだ。


「……まぼろし……だったの……?」

 

 震える声がこぼれる。


 ──〝異なるものを恐れるな〟


「だ、だれ……っ!?」


 どこからか響いた異質な声に、リィリエはあたりを見回した。けれど声のした方に目を凝らしてみても、何かの姿かたちどころか、影のひとつも見あたらない。


「だれなの……?」


 リィリエの問いかけに答える声はなかった。


 よろめきながら、道端に打ち捨てられたカンテラを拾う。

 手を伸ばせる範囲しか照らせない、小さな小さなほの灯り。見通せない暗闇の奥に、ありとあらゆる恐ろしいものが潜んでいて、リィリエを狙っているような気がした。


「気を……しっかり持たないと……」


 リィリエは自らに言い聞かせるようにつぶやいて、また震える足を奥へと運んだ。

 いくら恐ろしくても、引き返すことはもう、許されない。

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