第2話 糧と教誨


 シグリの村は雪深い土地にある。

 芋や甘藍かんらんといった農作物や小麦を育て、秋に収穫し、凍てつく季節が訪れる前に、それらで保存食を作る。秋の終わりに南へと下る遊牧民たちに家畜を託したのち、冬ごもりの際に、あらかじめ刈っておいた獣毛で毛織物をこしらえて、春にそなえる。雪解けの季節が来ると、戻ってきた家畜の世話をしながら麦や野菜の種をまき、毛織物を街に売りに行く。

 そうした一年を何度も繰り返して、シグリの村で生まれ育ったリィリエもよわいを重ねてきた。それも今年で十五回目、彼女はもうじき訪れる誕生月で成人となる。


 ハイネは今年収穫したばかりだという麦を、リィリエにふるまってくれた。


「……おいしい」


 さじを唇から離すと、あたたかな湯気と共に感嘆がこぼれた。

 食卓の椅子に腰かけたリィリエの目の前には、このあたりではカーシャと呼ばれる麦がゆが器に盛られている。山羊の乳とバターで麦を煮て、塩で味を整えた、簡素な料理。けれど今のリィリエには、慣れ親しんだこの味が嬉しかった。


「良かった。村のみなさんが、いつものように麦を分けて下さったんですよ」


 リィリエの向かいに座ったハイネが、そう教えてくれる。微笑んで彼にうなずき返す。懐かしいとすら思える味に、思わず目を閉じた。

 まなうらに、黄金の波となっておどる麦畑の風景がよみがえる。畑から村へと渡る涼やかな風、小麦の香りと濃い土の匂い、足もとでじゃれつく牧羊犬のふかふかとした毛なみ。長姉ちょうしであるリィリエを呼ぶ、幼い妹と弟の声。働き者の母親が優しげに目をほそめるさま、雪焼けしたたくましい腕を持つ父親の、屈託くったくのない笑顔──


「あっ」


 リィリエは思わず声を上げた。取り落とした匙が、床に当たって高い音を立てる。


「す、すみません……」


 あわてて匙を拾って、膝の上に置いていた布でぬぐい、左手のなかにおさめる。

 リィリエは小さく溜め息をついた。慣れない左手で摂る食事は難しい。気を抜くと、すぐに手もとが狂ってしまう。


(それでも、はやく左手だけの生活に慣れないと)


 そう思って気を取り直し、匙をかまえてみても、心にもやがわだかまる。

 ──右手が不自由になったリィリエを、村の人たちは、家族は必要としてくれるだろうか?

 やさしい彼らはリィリエの無事を喜んでくれるだろう。けれど子どもの世話も、水汲みや料理といった家事も、麦や野菜を育てることも、以前と同じようにできるとは思えない。役に立つどころか、重荷になってしまったら……そう考えると、胸に重い石がつかえるようだった。


 食事が終わり、ハイネが器を下げる。片づけを終えた彼は卓に戻り、リィリエの前に紅茶をそっと差し出した。飴色のそれは馥郁ふくいくとした香りを立ちのぼらせ、息を詰めたリィリエのもとに、あたたかな湯気を届ける。


「……そろそろ何があったのか、順を追って話しましょうか」


 同じお茶をたぐりながら、ハイネが向かいに腰掛ける。リィリエは拳を固め、固唾かたずを飲んでうなずいた。


「──あなたは村はずれにある、禁忌の森のことを覚えていますか?」


 ハイネの口から出た最初の一言は、予想していたものとはまったく違う問いかけだった。リィリエは戸惑いながらもうなずく。


「……はい。禁忌の森は魔物の棲み家。けっして立ち入ってはならないと、小さいころから教わってきました」


「その通りです。この教会が村から離れているのは、村人らがあやまって禁忌の森に足を踏み入れることがないよう、見守るためでもあるんですよ」


 ハイネの目が、リィリエの背後にそそがれる。彼の視線に誘われて振り向くと、窓越しに禁忌の森の入り口である木立が見えた。

 秋が深まった今、多くの樹木は落葉や紅葉をして、姿をせわしなく変えていく。しかしこの森は、常緑針葉樹である糸杉がそのほとんどを占めているため、季節が移ろっても青々とした葉が茂る。木々が密集しているからか、森の付近にはいつも濃く湿った霧が立ち込めていた。


 森を見ていたリィリエはあることに思い当たり、慌ててハイネに向きなおって腰を浮かせる。


「ま、まさか、わたし、禁を犯したんですか……」


「いいえ、あなたは森に立ち入っていません」


 彼の否定の言葉にほっと息を吐いたものの、そうなるとますます魔物に襲われた理由が不可思議で、リィリエは首をかしげた。


「あなたが疑問に感じるのも無理はありません。あなたはこれまで絵物語や伝承でしか、魔物という存在に触れたことがなかった。あなたのみならず、シグリの村に住む者たちのほとんどがそうでしょう。昔から、魔物と人は住処すみかを分かつことで接触を断ち、均衡きんこうたもってきたのですから」


 そこで神父は一度言葉を切ると、視線を手もとに落とす。


「魔物らの住む禁忌の森に立ち入りさえしなければ、災厄は避けられる……それは間違いありません。けれど魔物には〝飢餓期〟というものが存在します。いつも森の草花や木の実、魚や小動物を糧としている魔物が、どうしても人を食べたくなる……それが飢餓期。神にそむいた生き物の、あわれな呪いのかたちです」


 飢餓期は魔物の種類によってまちまちで、一番小さい魔物で約百年、大型のものだと三百年に一度訪れるのだという。リィリエは、魔物が人を襲う存在であることは知っていたけれど、飢餓期のことは初耳だった。


「飢餓期の魔物を恐れるあまり、森ににえを差し出すところもあります。死人を森の入り口に打ち捨てる風習のあるところも。けれど、この村は神の加護のおかげで、今までそういった因習からも、魔物からも遠かったのです──あなたが襲われるまでは」


 ハイネの最後の言葉にリィリエは体をこわばらせた。

 ──するとつまり、


「あなたは森の近くの川で水汲みをしているところを、飢餓期の魔物にさらわれたのです」


 ハイネの台詞を耳にして、リィリエの体の芯が冷え固まった。口を閉ざした彼女の脳裏に、記憶が波紋となって広がっていく。


 おぼろに浮かぶ銀の月、深い闇に沈んだ禁忌の森、血の気を失って動かない体、リィリエを宙吊りにしていた魔物──今際いまわに見た、呪われた赤い瞳。

 魔物に苦痛を終わりにしてと、わたしをたべてと懇願こんがんするほどに、辛くて、痛くて、苦しかった……。


「リィリエ、大丈夫ですか? 顔が真っ青ですよ」


 気遣わしげなハイネの声に、我に返る。リィリエは凍えた指先を握り込んで、きゅっと唇を噛んだ。


「……大丈夫です。話を、続けて下さい」


 硬い声音を耳にしたハイネは、まだ何か言いたげにしていたが、唇を潤わせてまた口を開いた。


「あなたを助けたのは、あなたの父親を含めた村の男たちです。あなたがいないことに気づいた村人たちは、討伐隊を組んで森のなかをさがし、わずかな武器で魔物を追い払いました」


 そのことが、いかに危険をともなうことか。ハイネは言い添えなかったが、リィリエはそれを感じ取る。


「あなたは右腕を喰いちぎられて、意識を失っていました。あなたを助け、私のところまで運んだのは、シグリの村の長老です。彼は私に言いました。どうかこの子を救ってほしいと。この子なら、狩人サルタリスになれるかもしれないと」


「……救いの御手サルタリス?」


 思わずハイネに聞き返す。聖書のなかでしか馴染みのない言葉を、いま目の前の神父は、リィリエに重ねなかったか。

 沈黙が流れる。ととのったかんばせに苦渋を覗かせたハイネが、白いまつげの下で薄紅色の瞳を惑わせる。


「……本当は十五のとしがきた日に……成人の祝いに語り継ぐべき話です」


 そこで言葉を切って、ハイネは顔を上げた。迷いを振り切るように、リィリエをまっすぐに見つめる。


「けれどリィリエ。あなたは当事者です。すべて知って、選ぶ権利があなたにはある」


「……神父さま。一体何の話ですか」


 尋ねる声が上擦うわずった。訳が分からないのに、心臓の鼓動がとくとくと早まる。

 予感がした。これは何も知らない少女のリィリエに、別れを告げる教誨きょうかいだと。


「リィリエ」


 ハイネが少女の名を呼ぶ。静かでありながら、力強い声の重みで。


「あなたはその身を犠牲にして、狩人サルタリスになる覚悟はありますか。──村を、救うために」

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