第一章 孵化

第1話 目覚め


 逃げて。逃げて。逃げて。

 どうか、無事でいて。かみさま、お願いです。

 わたしはどうなってもいいから──


「……っ!」


 胸が苦しくなり、少女は目覚めた。衝動的に跳ね起きたものの、体の平衡へいこうを崩して、再び敷寝にうずもれてしまう。


(夢……)


 横たわったまま息を吸い、胸を膨らませ、悪夢の残り香を逃そうと吐ききる。

 心臓が早鐘を打っている。少女はふと、その鼓動を耳にして眉根を寄せた。


(わたし……生きてる……?)


 死んだものと思っていたのに。

 ──いや、なぜそんなことを思ったのだろう。


 頭が霧がかっていて、目を覚ます前のことがあいまいだ。少女は必死に記憶をたぐり寄せた。気を失う前に、何があったのか……


(たしかわたしは……魔物に喰いつかれて、それで)


 そこまで思い出した時、ひやりと冷たい感覚が胸によぎった。ざわざわと胸騒ぎがして、焦燥がわだかまっていく。

 あの悪夢。あれは夢ではなかった。

 少女はあの時、死の淵に立ちながら、自分以外のものの無事を願っていた──


(わたしの家族は……シグリの村のみんなは無事なの? そう、あの魔物……あの魔物が村を襲ったかもしれない!)


 少女はたまらず体を起こした。しかし体がふらついて、また寝具に倒れてしまう。

 ──何かがおかしい。体の感覚が狂っている。

 そのことに気づいた少女は、自身の体にまなざしを向けた。華奢な足、白金の長い髪、薄灰色の夜着……しばらく視線でなぞっていたが、あるところに目を向けたとたん、少女は冷水を浴びせられたかのように絶句した。


 右腕が、なくなっている。


 少女の体が、がくがくと震え出す。わななく左の手で、そっと右肩の付け根をなぞる。痛みとともに、指先にやわらかな肉の弾力が伝わってくる。骨のおうとつでわずかに起伏した切断面には、新たなうすい皮膚が張っていた。


(わたしはどれくらい眠っていたの……それに、ここはどこ……?)


 少女はあたりを見回した。薄暗い部屋、無機質な白い土壁、砂色の日除け布からにじむ外の薄明り、粗末な寝具の上に転がった自分。夢現ゆめうつつが徐々に剥がれ落ちて、見知らぬ部屋にいるのだと、やっと気づく。


 部屋の隅に扉があることに気づいた少女は、体をねじって起き上がり、まろぶようにそこまで駆けて、取っ手をひねった。しかし返ってきたのは、硬い錠の手ごたえ。少女は唇を噛む。

 取っ手を動かそうと試みたが、びくともしない。たまらず少女は体をぶつけて、扉を破ろうとした。鈍い音が響いて骨が震えたが、扉はずいぶんと分厚いということが分かっただけだ。


「……っ」


 とうとう少女は扉にすがって崩れ落ち、涙をこぼした。湧き上がる嗚咽おえつにしゃくりあげるたびに喉が痛み、かぼそいかすれ声が漏れる。

 少女は左の拳を振り上げて、扉を叩いた。何度も、何度も……。


 扉の反対側から、カシャリと小さな金属音がした。

 少女が思わず振り向くと、部屋の角に置かれた小さな机、そこから落ちたのか、床に銀色に輝くものが転がっている。それは日除け布から漏れた光をはね返して、少女の双眸そうぼうを射った。

 少女ははっとして、夜着をたくし上げ、うようにそれに近づく。


「わたしのロザリオ……!」


 大小のたまが連なった首飾りのまんなかに、かしの木と鉛が組み合わさった十字架が下がる、粗末なロザリオ。少女はそれを左手ですくい上げ、掻きいだくように胸に寄せて、こうべを垂れた。左手で珠を繰り、口のなかで祈りの言葉をつぶやく。

 冷たい雪にさらされたあとに、あたたかな毛布でくるまれたように、こころよい安堵あんどが胸にみわたる。さきほどまで少女を苦しめていた不安や焦燥が、ゆっくりと溶けて消えていった。


 神に祈りを捧げることが、心の安寧あんねいにつながることを、少女は本能的に知っていた。けれど、このロザリオ。今の少女には、これにどういった思い入れがあるのか思い出せない。それでも幼子おさなごが長年親しんだ人形を求めるように、心がこのロザリオを求めている。片時も離したくないと願っている。心のままに強く握り込むと、つぼみがゆるんでほどけるように、胸のなかでぬくもりが花開いた。


 繰り返し祈るうちに、心にわずかばかりの平穏が戻ってくる。

 ──その時だ。扉の向こうから硬い靴音が近づいていることに、少女が気づいたのは。


 少女は顔を上げ、思わず身を硬くした。逃げ場はもちろん、隠れる場所もない。それでも彼女は後ずさって、扉から一番遠い壁に背をつけた。鍵が外れる音がする。

 いともたやすく扉が開け放たれた。少女が何か反応するよりも早く、扉を開けた人が──両のかいなで少女を抱きしめた。


「ああ、良かった……!」


 優しい声が少女の耳を打った。男の人の声だった。長い白雪色の綺麗な髪が、目の前の彼の背に打ち寄せるさまを、少女は彼の肩越しに見た。


「一時はもう目覚めないものかと……本当に良かった……」


 抱擁ほうようされたまま、そっと頭を撫でられる。その感触に、ひたすら琥珀のまなこをまたたかせていた少女は我に返った。あわてて距離をとろうと、彼の身の内でもがく。


「あ、あの……っ、誰、ですか」


「あ……そうですね、驚かせてしまってごめんなさい」


 体を離して、少女の顔を覗き込んだその人は、


「ハイネ神父さま……」


 学問と神の教えを、いつも村の子どもたちにほどこしてくれる、うら若く美しい神父だった。ほっそりとした体に、黒い祭服を規則正しく身にまとっている。その姿を少女が見上げると、薄紅色の瞳をやわくほそめて、ハイネが微笑んだ。慣れ親しんだ笑顔に、少女の肩の力が抜ける。

 しかしすぐに息を詰め、少女はハイネに詰め寄った。


「神父さま……! 村のみんなは、わたしの家族は無事なんですか? わたしを食べようとした、あの魔物はどこに──」


「目覚めたばかりの体にさわります、落ち着いて……シグリの村人たちと、あなたの家族なら、無事ですから」


 ハイネのやわらかな声音に、少女は安堵の息を吐いた。


 ひと心地ついた少女を、神父はやさしく寝具へと腰掛けさせる。彼女が握りしめていたロザリオを引き取り、少女の首にかけて留め金を閉じた。ちいさな鎖の音がして、かすかな重みをもって、少女の心臓の上にロザリオが重なる。


「……順を追って話しましょう。けれどまずは、何か口に入れなさい。あなたはずっと長いあいだ、眠っていたのですから」


 あわれみのこもったまなざしを向けられて、少女ははじめて自分の体がすっかりせ細ってしまっていることに気づいた。言われてみれば、体がふらつくのは長く飢餓きがの状態であったせいかもしれない。

 ハイネは少女から視線を外して、部屋を見渡す。


「普段まったく使わないので、あなたは知らないと思いますが、ここは教会の奥にある客間です。歩けるようなら、廊下を渡って厨房へ行きましょう。それから──」


 言葉を一度区切り、彼は少女を気遣うように、薄い笑みをく。


「……あなたはながく自失の状態でした。何度もうわごとを口にして……村のことや家族のこと、私のことは分かるようですが、自分自身のことは分かりますか?」


 恥ずかしさと申し訳なさに、少女の頬が赤く染まる。神父であり医療の心得のあるハイネが、ずっと自分を看病してくれていたのだと気づいたのだ。

 少女はまず、迷惑をかけたことを彼にあやまった。続けて、気を失う前の記憶が、ところどころあやふやであると伝える。


「わたしの名前は──リィリエです」


 最後に少女は名乗り上げた。

 ハイネは微笑み、うなずき返した。

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