創作への目覚め

 空想への憧れ、というべきでしょうか? 子どもの頃から「物語」というものが好きでした。物語が描かれているものであれば、ゴジラの出てくる怪獣映画だろうと、説明不要のスーパーサイヤ人だろうと、どら焼き大好きなネコ型ロボットだろうと、とにかく夢中になって観ていました。彼らは空想でありながら、空想ではなかった。現実の世界では触れられなくても、僕の脳内ではいつもドンチャン騒ぎしていました。あるときには「かめはめ波」を撃ち、またあるときには、放射熱線で町の建物を焼きはらう。彼らはまだ幼かった僕に、たくさんの夢をあたえてくれました。その中には夢だけではなく、人間の悲しみ、憎しみ、怒りもありました。「人間には人をいつくしむ心もあれば、同時に恨む心もあるのだ」と。表面上では(あくまで)子ども向けをアピールする一方、その奥には深いメッセージを潜ませている作品もありました。僕はたぶん、そのメッセージを何となく感じとっていたのだと思います。今の自分にはかすんで見えているそれが、当時は鮮明に見えていた気もしました。


 人間の心には、闇がある。だから、その闇も知らなきゃならない。本当の光を知るためには、闇の底から光を見上げる必要がある……と思います。物語は、その手助けをしてくれる。僕が物語に魅せられている理由は、その単純原理からきているのかもしれません。その意味で、子どもの頃に作った作品は、文字通りの荒唐無稽でした。「まめまめ君」という豆をモチーフにしたキャラクターと、「三角君」という三角形のキャラクターを主役にして、その二人が世界を救う、しかも一週間に一度くらいの割合で崩壊レベルの危機が起こる世界を救うという、とんでもない話を考えていたのですから。いま思えば、失笑ものです。子どもの想像力は、おそろしい(笑) でも、それが本当に楽しかった。今では当たり前になっている自分オリジナルの最強主人公も、「究極戦士アルティメット・バトラーズ」とか勝手に作って、自分の知っているキャラクター達をバッタバッタと倒していました。原作の設定などガン無視です。その好き勝手ぶりといったら、「やれやれ」としかいえません。


 そんな日々を送っていた僕ですが、そこにある出来事が起こるんですね。その出来事が、僕に創作への意識を目覚めさせました。小学校で行われた宿泊学習、そこでの体験を書いた作文が、学校の文集(厳密には、体験記のようなものですが)に選ばれたのです。担任の先生に「◯◯(※僕の名前です)君の作文だけど、今度それに載ることになったから」と。これには、メチャクチャ驚きました。「そうなんだ」としか思えなかった。僕は自分の素直に書いた作文が、その文集らしきものに選ばれたこと、担任の先生から「◯◯君の書く文章は、おもしろいね」といわれたことに呆然としましたが……そこにイナズマが走っちゃったんですね。「ペンで食べていくのも悪くない」と、密かな野望を抱いてしまったのです。だから、文集に書いた将来の夢も作家。中学のときは、流石に現実志向ですが。創作への気持ちは、ほとんど変わらないままでした。「いつか、虚像を現実にしてやるぞ」って感じに。物書きを目指す途中で漫画描きになろうと脱線しかけたこともありましたが、「自分に絵の才能が無い」のが分かると、すぐに回れ右。また、物書きの修行道に戻りました。戻りましたが、こいつがとんでもなく厳しい。自分の一生だけでは、下手すると足りない。一生修行、一生暗中模索です。真っ新な紙にただひたすら問いかけている気分。


 

 そう、優しげに問いかけられている気分です。

 

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