30 本能



 壱晴は「何か」の黒目が、白目の部分でさえも侵していくのに気づいた。

本能が警告を鳴らす。体中がびりびりと不快感に痺れ、発破をかけたように自分の声が割れた。


「駄目だ!!!」


 ハッとする。何が駄目なんだ?こっちが優勢のはずなのに、何が?


「避けろ!」


京慈が叫ぶ。一瞬一瞬が、スローモーションのようだった。

イヌサフランの茎が「何か」の体の中から現れ、勢いよく優良と碧音を弾いた。二人とも受け身を取ったが、勢いを殺すことができず壁に打ちつけられてしまう。


 あんなものは今まで一度だって見たことがない。体の外に出て形を成すなんて。優良と碧音も予想外のことに対応が遅れたはずだ。


「うっ……。」


 優良と碧音の手の中から光が霧散する。

優良のお腹には血が滲み、シャツに赤がどんどん広がっていく。苦しそうに手で押さえ、呻き声を上げる優良を壱晴は見つめることしかできなかった。


……どうして、倒れているのか、頭が追いつかない。


「いち、だん……逃げ、て」


 ぼんやりとした焦点の合わない目で優良が微かに唇を開けた。今にも消えてしまいそうな声で壱晴と暖に訴える。壱晴は全身の力がストンと抜けてしまった。

 あんなものに敵うはずがない。あんな化け物に、弱い僕が、敵うわけ……。そもそも逃げ切れるかどうかだって……。


「壱晴!暖!とにかく逃げろ!俺はすぐ助けに入れる状況じゃない!」


 京慈の必死な声にハッとして顔を上げる。「何か」から茎がシュルシュルと伸びて京慈に攻撃を放っていた。その破壊力は凄まじく、茎が壁に当たると簡単に砕けてしまう。



「全滅すればそれこそ終わりだ!逃げろ!」


「暖!」



 壱晴は呆然と立ち尽くす暖の腕を強く引いた。京慈の言葉に音がクリアになり、目の前がぱちっと弾けた気がした。警察でも他の『焉』でもいい。誰かに助けを求めてそれで。


 僕はさっき、一体何を思った?あんなに必死に助けてくれたのに僕が生を諦めてしまうなんて。ああ、心が弱い。だめだ。考える暇があったら足を動かせ!

 ぐったりとしている優良。また目の前に絶望がちらついてしまう。また余計なこと考えてしまいそうになって。壱晴は首を振って払拭した。


「暖!行こう!」


「壱晴……。」


 苦しそうな顔をする暖の手を握った、その時だった。


「壱晴!避けろ!くそ、なんでそっちばかりに行くんだ!」


 重い気配がまた近くなる。振り返ると、後ろから「何か」が追いかけてきていた。京慈への興味はすでになく、壱晴と暖だけを見つめて。


「壱晴!」


 暖がグイッと強く壱晴の手を引いて走り出そうとした、刹那。


「うわあ!」


 ガンッと爪先に衝撃が走ったと思えば、顎を強く床へ激突させた。


つまずいた。こんな時に。爪先、顎が熱い。転んだ痛みよりも、ドクンドクンと大きな鼓動のほうが体に響いて、痛い。




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