31 声の主



「暖!早く逃げて!」


 叫んだ。掠れた声で、壱晴は必死に。すぐ後ろにはあいつがいる。せめて暖だけでも。


靴の、踵を返す音がした。暖はひどく傷ついた顔をして体を前のめりにすると、感情が溢れ出るかのように、唇を開く。


「そんなことできるわけないだろ!」


 壱晴も同じように顔をくしゃっとした。


暖なら、きっとそうすると、本当はわかっていたんだ。わかっていて、僕は。もっと何か言葉を。運命も不幸も理不尽に降りかかる。待っていてほしくても、待ってはくれない。よく、わかってるよ。でも、それでも。


 暖は倒れている壱晴へ躊躇することなく近づいてくる。「何か」が、すぐ後ろまで迫ってきていた。


 無くす、失ってしまう直前の感覚が胸の奥底に、すとん、と落ちていく。母の最期に笑った顔が彷彿され、壱晴は縋るような目で暖を見つめた。



「暖!お願いだから!」



 壱晴は床に足の爪先を立て、力強く蹴り上げた。砂が舞う。最後の力を振り絞り、体を起こして暖に両手を突き出した。


「何か」の手が壱晴に触れようとしたその瞬間に、暖を突き飛ばした。


暖は、暖だけは、絶対に助ける。道連れになんてさせてたまるもんか!


「いちはっ」


 暖の目が見開かれる。


助けたい、犠牲になってほしくない、大事な人には笑っていてほしい。




 走馬灯が通り過ぎていく。それはきっと遠い記憶——。


 ——壱晴。と、母が目を細めて柔らかく笑っている。その隣には背の高い男性。壱晴は自然と口角が上がり、笑顔が零れそうになって、表情を止めた。

「父さん」と声をかけようとしたんだ。それなのに。


……母の隣にいるのは、誰?背格好も、雰囲気もなんだか違う。

顔が影に隠れて見えない。……誰?






「ねえ、口、開いてるよ」


 壱晴はハッとして、我に返った。


 挑発的で色っぽいその声は壱晴の記憶を突き破った。遠い記憶から一瞬で今に引き戻される。


 たんっと、軽い足取りで誰かが高く飛び跳ねた。壱晴に影が落ちてくる。顔を上げると、灰色の髪が揺れていた。


彼は長い脚で「何か」の顎を蹴り上げた。真っ黒な線は壱晴から逸れ、天井へ穴を空ける。



「……っと」


 声の主はそのまま綺麗に着地すると、小さく息を吐きながら腰に手を当て壱晴へ目を向けた。後ろでゆっくりと「何か」が倒れていく。ずどん、と最後まで倒れると砂や埃が舞った。



「……ごほっ、埃たてるなよ。愚鈍な鈍間のろまが」



 彼は足元に倒れた「何か」を蔑んでいる。顔を顰めて心底嫌そうに囁きながら、自分の綺麗な唇を親指で撫でた。



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