9 焉



「う……っ、やめっ」



暖の低い呻き声にフィルターが一瞬で、破れた。



女性の黒髪が乱雑に舞い、体が上下に激しく動いていた。暖の蹲る姿が視界に入る。


 目がかすんだ。


手を伸ばしているはずなのに、視界に自分の手が見えない。


体が、動いていないらしかった。声も、出しているはずなのに出ていないようで。


暖……!


心の中で何度も名前を呼ぶ。それなのに唇は動かない。



暖を傷つけないで。お願いだから、暖を——。



 暖の血が落ちて、女性のヒールがそれを床に掠めると赤が床に伸びてべったりとこびりついた。


涙が汚い床に、落ちていく。


どんなに辛くて叫んでも、どんなに痛くても、どんなに助けて欲しくても。

何も、届かないじゃ、ないか。


悔しさと弱い自分への許せなさ。



 怠い。体が熱い。


ああ、なんだ。と、壱晴は唐突に理解した。




結局僕は何の恩恵も与えられない、蹂躙される側の人間だったのだ、と。



——人を助けるのは、怖かったからだ。


もし僕が今の状況みたいに、誰かに助けてほしいと思った時、誰も助けてくれなかったらどうしよう、って想像すると気が気じゃなかった。



困った時に助けてくれる人間もいるって安心したかったんだ。


例えば僕が、横断歩道のあの不良だったら。

そう考えると僕は、不良の僕を見捨てられない。



見捨ててしまったら困った時、辛い時に少しの希望も見出みいだせなくなる。



それが、たまらなく怖かった。



 人は皆、弱くて困っている人間が誰かの大切な人であることを、忘れている。


その蹂躙じゅうりんされる側の人間になるのが、ただの誤差で、自分の大切な人が受けるものであるかもしれないことを、忘れている。





『壱晴、よく聞いて。母さんの指輪。これを肌身離さずつけておくの。わかった?本当に困ったら願って。きっと助けてくれるから』


 壱晴はふと、母の最期を思い出してしまった。


 最後の力を振り絞って、壱晴の母——彩葉は左手薬指に嵌めていた、床に転がってしまった指輪へ手を伸ばした。


ハッとして壱晴が指輪を拾い上げ手渡すと、彩葉は力なく微笑んで透明な石が真ん中につけられた指輪を壱晴に押しつけ、苦しそうに俯いた。


けれど再び顔を上げ、手を伸ばす。


壱晴の頰に触れた彩葉の指先はひんやりと冷たく、壱晴は込み上がってくるどうしようもない感情を涙にかえて、手を握った。



彩葉は息を吐き出すように目を細めて柔らかく笑い「壱晴」と唇を微かに動かして、静かに目を閉じた。



——その瞬間、彩葉の手が重くなって。






 壱晴はシャツの中からチェーンを引き出し、そこに通っている彩葉の指輪を強く握った。



 母さん——。



握っていた手の力を弱めて、グッと唇を閉じる。


「願う」という行為はそれこそ自分ではどうにもできないって認めたことと同じじゃないか。




「あっ!ごめん!外しちゃった」


「馬鹿。もう少し左だ」


突然聞こえた、焦る男の声と悠揚ゆうような男の声。顔を上げると、こちらに近づいてくる男性の足が見えた。


あれは、誰だ……?


 カツ、と女性の動きが止まる。


壱晴の頭上で粉雪のような白く輝く粒子がふわふわと舞い、それは床に落ちる直前で消えていった。


女性は彼らのほうへ体を向けると、暖を跨いで近づいていく。




「暖……。」





 暖を呼ぶ壱晴の声はひどく掠れていた。


体がいう事を聞いてくれない。動かない。なんて無力なんだ。ああ、どうしたら。




もう一度名前を呼ぶが暖はうつ伏せに倒れて、ぴくりとも動かない。


 どうして僕はこんなにも無力なんだ、いつも暖を頼ってばかり。



目が熱い。嗚咽が溢れる。情けない。

「壱晴」と名前を呼ぶ暖の笑った顔ばかりが浮かぶ。



「来るぞ、優良ゆら。ほら、避けろ」


「うわっ!碧音あおと、言うの遅いって!」


彼らの声に胸が苦しくなって、また後悔を重ねるのかと歯を食いしばった。床に手をついて重い体を起こそうとする。



あの人達も暖と同じ目に遭ってしまうかもしれない。


壱晴は心の中で何度も「立て!」と叫んだ。

願う前に、今できることをやってやる。


あの人達は誰も助けてくれないと諦めていた壱晴に希望を見せてくれた。だから。



「んー……?この人、二輪咲きだろ?なのに動き鈍くないか?」


「え?うーん、言われてみれば?」



 壱晴は何とか体を起こし、それから立とうとした。けれど体中が痛くて、できそうにもなかった。


蹴られたところが痛くて体を丸めてしまう。


こうしている間にもあの人達は殴られてしまうのに。そう思いながら顔を上げると。



「そこのお兄さん、この人に何かしました?」


 黒髪の男と目が合った。


えん……。」と、壱晴から零れる声。



男二人が羽織っている黒ジャケットは紛れもなく「焉」という組織を表すものだった。



ジャケットの左側には鈴蘭すずらんが銀色の糸で大きく刺繍されている。

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