8 逃げる



 壱晴は口の中に溜まった唾液を飲み込もうとした。けれど、うまく飲み込めず、臓器が痙攣している感じがして。



次の瞬間、体がまるで自分のものではないように動いた。気づけば放心状態の女の子の膝裏と背中に手を回して抱き上げ、走り出していた。



唾をなんとか飲み込むと、今度は喉が痙攣をおこす。


生きている心地がしない。目がかすんで、息切れが酷い。


肺が膨れて空気を吸ったり吐いたりする音が激しく耳に届いて、不快感が駆け巡る。


名もなき男のあの微笑に頭の中が支配される。恐怖が色濃く、壱晴を嘲笑っている。



「お兄さん、おろして!過呼吸だよ!」


 女の子はひどい顔色で壱晴の頰を力なく叩いた。


壱晴はそう言われてやっと我に返り、人気のない駅の通路で足を止める。


体からフッと力が抜けてしまい半ば落としてしまう形で女の子を下ろした。女の子と一緒に壱晴も床に膝をついてしまう。



 女の子は「ゆっくり息を吐き出して」と壱晴の目を見ながら言った。


 壱晴は落ち着け、と何度も心の中で繰り返しながら胸を手で押さえて言われた通りゆっくりと息を吐き出す。


「……もっ、だい、じょうぶ、だから」


 壱晴はなんとか声を出して女の子に大丈夫だと示した。すると彼女は鼻筋にしわを寄せ、それから力を抜いて皺をなくしたかと思えば、また大粒の涙をこぼしてしまう。



「わた、私、あれ?どうして逃げたんだろう。どうして?それで何で、しら、知らない人の、過呼吸なんか、心配っ、して……。」



 顔を真っ赤にさせて嗚咽を零しながら、女の子は小さく震えていた。


まばたきをするたびに涙が落ちていく。


額にいくつかニキビがある、八重歯が特徴的な、二つ縛りの、普通の女の子が壱晴の目の前で絶望を背負っている。



母を助けられなかったという罪を呪いに変えて、自分にかけているんだ。




ただでさえ小さな女の子が、潰れてしまいそうなほどに大きな呪いを背負って、この先ずっと自分を責め続けようとしている。


壱晴にはそれが手に取るように分かった。自分が、そうだったからだ。



 ——壱晴!逃げて!早く!


 彷彿ほうふつする、あの時の母。



最後に笑った顔は凛として、それでいて柔らかいものだった。


母はあんなにも強い人だったのに、僕は、恐怖に負けてしまった。


壱晴は一人ぼっちになる辛さを知っている。それなのに。



大切な人がいない世界でただ一人。生きていくことに意味があるのか。



偶然、死ねたら。不慮の事故で死ねたら。


そう思って、人の盾になることをいとわなかった、はずだった。




 けれど鮮烈な死を目の前に感じてしまえば、こんなにも無様に生きようとするのかと、壱晴は心底信じられない気持ちでいっぱいになる。



ああ、自分が大っ嫌いだ。

こんな奴を母さんはどうして救ったんだ。



息子だからって、どうして無償の愛を注げるんだ。どうして。



どうして僕はいつも肝心なところで。僕は、僕が、大嫌いだ。



「君はここで待っていて!」


 来た道を全速力で戻った。肺も四肢もずっと震えていた。


心臓がずっと激しく、お腹の下あたりが凍てつく感じがするのに、体の外側は信じられないほどに熱く。




「暖!暖!!」



 姿が見えた。精一杯に暖の名前を呼ぶけれど声が掠れて通らない。


 暖は左腕を庇いながら女性と距離をとっていた。


女性は髪を前に垂らして俯きながら立っている。




「壱晴!?馬鹿!こっち来んな!」


 壱晴に気づいた暖と目が合ったその瞬間、暖が見えなくなった。


その代わりに見えたのは、女性のつり上がった唇の笑み。



「っ!?」



 左頬が衝撃とともに熱くなって視界がぐるりと回った。


体が床に叩きつけられ埃と砂の匂いが近くなる。



頰に固く冷たい感触——何故か床に頰がついていて、規則的なコツ、コツ、というヒールの音を耳が拾っている。



視界に入るのはストッキングが破れ足首から膝まで伝線している女性の足、黒いハイヒール。


足はこちらに向かっていた。近づいてくる。




 暖が壱晴を呼ぶ悲痛な声が構内に響いていた。


暖の荒い息、走る激しい足音、遠くの方で聞こえる傍観者たちの声。



 女性のその先、遠くの方に見える駅の外。大勢の人。視界がぼやける。



 ——ああ、誰だって、面倒なことには関わりたくないよね。



自分の領域を守りながら生きるので精一杯。他人を心配する余裕なんて、そんな労力なんて、あるもんか。



 でも、どうしてそこで見ているんだよ。


怖いか?何だよ、多少の誤差じゃないか。




僕は家族を殺された。


だから花咲きになった人間を辿って、少しでもあの男に近づこうと——。




もし、僕じゃなくてお前ら傍観者の、君の、家族が殺されていたら?



そんなの多少の、誤差じゃないか。


なあ、たまたま僕の家族が無作為に選ばれたんだ。不公平に。


君たちの家族が選ばれてしまう可能性だって大いにあっただろうに。




「やめろよ!てめぇ!壱晴に何してんだっ!」




 壱晴の体や顔を蹴り上げていた女性が振り返る。


寒気が這い上がってきて気持ち悪さに喉が焼ける。


少し動いただけで蹴られたところが刺すように痛んだ。



痛い、痛い、と思えば思うほどに暖と女性のヒステリックな声にフィルターがかかる。全てが遠くのどこかで起こっていることのようだった。



蹴られる衝撃が急に無くなり、体が重い怠さと熱を持ち始める。

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