7 イヌサフラン




二人は自販機の横に移動して人々の流れに目を凝らす。その間、言葉を交わすことはなかった。


 しばらくして外を見ると、空はすっかり暗くなり遠くにビルの赤い光が見えた。


看板のネオンが濃く浮かび上がる。白色光はくしょくこうの街頭は静かに道を照らしていた。


 壱晴がそれを見ていると暖の衣擦れの音がして、小さく息を吐き出したのがわかった。



「もう二時間は経ったよな。今日はここらへんで——」



 暖は襟足のあたりに片手で触れ、駅から出ようと体を壱晴へ向けた。固まった首を動かしながら言いかけて。



「暖!」


 壱晴は暖のその先の、異変に気がついた。それは暖も同じだったようで、勢いよく振り返る。



「お母さん!?お母さんってば!」



 改札に入る手前でスーツの女性が蹲っていた。背中を丸めて苦しそうにしている。


娘らしき制服を着た子が顔面蒼白になりながらも必死に呼びかけている。


そんな母娘の異変に数人が駆け寄り、駅員もすぐさま来て声をかけているが。




「暖……。嫌な、感じがする」


「俺も。……今すぐ周りの奴ら、引き剥がさねえと」



 胸のつっかえは大きく、じりじりと燃えるようだった。


嫌な感じが体の中を駆け巡る。皮膚の内側が波打って、鳥肌が立っていた。



「壱晴はここで待ってろ」



 暖は覚悟を決めたようにニッと笑って駆け出した。



「暖!どうするつもり!?」



 今までは対象者の腕を引いて人気の少ない場所まで移動していた。

対象者が動けて、しかも辛うじて意思疎通ができたからだ。


だけど今回は動けそうにもないじゃないか。



それに、今まで感じたことのない、この嫌な感じ。

こんなのは初めてで、それはきっと暖もわかっているはずなのに。



「っ、暖ってば!」



 声をかける壱晴のほうを全く振り返らず、まっすぐ走っていく暖。壱晴はどうしたらいいかわからず、けれど言われた通り待っているなんて嫌で、後から暖を追った。


もし、手に負えなかったら。嫌なイメージばかりが頭に浮かんでしまう。



 壱晴のシャツが揺れて、中がちらついた。

——その鎖骨には刺青の如く入れられた、白い一輪の鈴蘭すずらん




「ちょっと!お母さんに乱暴しないでよ!」


 女の子の泣き叫ぶ声が響き渡る。

暖は母と娘の間を割って入り、母のブラウスのボタンを引きちぎった。


それは通常なら背徳行為だが、今は正しい判断だと壱晴にはよくわかる。




「君!急に何を!」


「駅員!早く『えん』を呼べ!それで今すぐこの人をどこか隔離できるところに」


 駅員の大声を暖の余裕のない鋭い声がさえぎった。


いつも余裕で冷静な状況判断ができる暖があんなに焦っているところを壱晴は初めて見た。足を止めて、恐る恐る女性の鎖骨を見る、と。



「な、なんだ、これ……。暖、これって」


「これは俺たちの手に負えるもんじゃないかも」




 うつろな目をする母親を支えていた人たちが一斉に、どこから出しているのかわからない奇声のような悲鳴を上げて離れる。


「う、うわああっ」


ぐらついた女性の体を暖が咄嗟に支えた。



「わ、わかりました。すぐに!」



 駅員は悲鳴こそ上げなかったものの真っ青な顔をしていた。その女性の鎖骨に目が釘付けになりながらも返事をして事を為そうと走り出す。



「花咲きだ!みんな、逃げろ!殺される!!」



 さっきまで支えていた男が震えた声で叫んだ。


その瞬間、人々が悲鳴を上げて女性から距離をとろうと出口へ向かい始める。



泣き声や人がぶつかる音は「落ち着いて行動を」というアナウンスをかき消してしまっていた。



 壱晴は判断を間違えた、と思った。


グッと噛んでしまった唇には血が滲み、鉄の味がじわりと口の中に広がっていく。



大勢がパニックになったら怪我人も、最悪の場合、死者だって出てしまうかもしれない。もっと静かに行うべきだった。



「壱晴、イヌサフランが首から胸まで浸食してる。俺の浄化で対応できるか……。」



 暖の目は震えていた。


女性の鎖骨には、淡い桃と紫が混ざり合った色をし、花びらの先は尖っているような形をしている「イヌサフラン」という花が刺青の如く咲いていた。


大抵の人は鎖骨のあたりに一輪咲くものなのだが、女性のそれは二輪。


しかも二輪とも花が咲き、首や胸まで伸びていた。



「そ、それ……。」



 女の子が声を震わせながら指をさす。花が出現する時にはまだ蕾の状態で、花が開花したその時、人は錯乱すると言われていた。


女の子は母の鎖骨にイヌサフランがあったことをどうやら知らなかったようだった。余程ショックだったのか腰を抜かして目を見開いたまま、ぼろぼろと泣き出してしまう。



「……っ、娘を、どうか」


「……!動けますか?」



 女性は暖に縋り付いて顔を上げた。


汗で額に前髪が張り付き、肌は淀んでいる。焦点の合わない目で唇を震わせていた。


暖が呼びかけても「娘を」と譫言うわごとのように言うだけで再び苦しそうに俯いてしまう。


胸の浮き沈みが大きく激しい。呼吸が、おかしくなっていく。



「うっ、痛……壱晴!早くその子と離れろ!たがが外れる」



 暖の声はもはや叫びに近く、痛みに顔を歪め、壱晴を見る余裕もないようだった。


腕には女性の指先が食い込んで、パーカーの黒を更に濃く深い色に染めていく。


暖がびくりと体を揺らすと床に真っ赤な滴が落ちていった。


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