4 母の想い
「壱晴!そこの窓から早く!ゆび、指輪!これ、大事なものなの!だから!」
壱晴はハッとして扉を両手で押さえた。自分だけ逃げるなんて、そんなことできるはずがない。
彩葉は指輪を外そうとして、逃げようとしない壱晴に気づき「壱晴!」と呼んだ。それは叫び声に近く、息子を逃したいという母の気持ちに気づいていたが壱晴は必死に首を横に振る。
「何してるの!逃げなさい!このままじゃ二人とも」
「僕だけ逃げるなんてできないよ!」
「壱晴!お願いだから!」
ふわっと体が軽くなったかと思えば、背中と腕に激痛がはしった。扉が壱晴と彩葉のほうへ倒れてきたのだ。
咄嗟に彩葉を庇い、背中に扉が直撃した壱晴はすぐに起き上がることができなかった。けれど、何とかしなければ、と体を傾かせて男の顔を見ようとすると、男が外れた扉を掴んで勢いよく壁へ投げつけた。硝子の割れる音、壁が窪む音が耳を
「きゃああっ」
「母さん!大丈夫だから!」
その激しい音に彩葉は悲鳴をあげた。壱晴は自分の下にいる彩葉を体で庇い、必死で宥めたが、恐怖に思考がまわらず打開策は何も浮かんでこない。
絶望とは、こういうことなのか、と目の前が歪む。
ナイフを持った男は全く知らない中年の男だった。ただ、花の刺青がシャツからちらつき、ヤクザなのかもしれないと思った。どうしてそんな奴が家に入って来たのか、詩織にナイフを刺したのか、意味がわからなかった。
男の息遣いは荒く、顔は青ざめている。焦点が合わない目、乾いた唇には前歯が強く食い込み、血が滲んでいる。
それを見た瞬間、「逃げる」、ただそれだけが一筋の希望であると確信した。打開策は自分を犠牲にして母を逃すというもの。
二人で逃げるイメージが、全くできないんだ。
「母さん!早く逃げて!」
話が通じる奴じゃないと、緊張に体が震える。一刻も早く逃げなければ殺される、と疑う余地もなく本能で感じた。
絶望。自分はもう助からない。でも、母さんだけはきっと逃がせるはずだ。きっと。大丈夫だ。上手くやれる。母さんさえ生き残ってくれれば、それは絶望なんかじゃない。
壱晴は彩葉の顔の横に両手をついて守っていた。けれど痛みに体が上手く動かせない。でも男の気をそらせれば逃げる時間くらいは稼げるはずだ。
壱晴は彩葉の肩に触れて逃げるよう促した。それは、彩葉自ら出てくれないとどうにもならない状況だったからだ。この背中の痛みと、鎖骨の痛みではそもそも自分が窓まで行って逃げるなんて不可能なことだと壱晴はわかっていた。
「……壱晴」
彩葉はこんな状況にもかかわらず壱晴の頰に触れ、優しい目をして微笑む。
壱晴が、ぴくりと反応して。
動機に呼吸が浅くなっていく。
ああ、駄目だ、母さん。と、壱晴はこれから母が何をしようとしているのかわかってしまった。
涙が溢れ、それは彩葉の頰に落ちていき、静かに迸る。
「僕は、だって、すぐに動けないんだよ」
「大丈夫。母さんが絶対に、守るからね」
彩葉は一瞬で壱晴の下から抜けるとすぐに立ち上がり、
「壱晴には絶対触れさせない!」
男に向かって行った。
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