3 変わらないはずだった




「正隆、行ってらっしゃい。気をつけてね」


「ありがとう。詩織、壱晴、行ってくるな。二人とも気をつけて学校行くんだぞ」


食パンを食べながら慌ただしく玄関に向かう父に壱晴と詩織は笑って「行ってらっしゃい」と声をかける。


朝の光が窓から差し込み、リビングを明るく照らして、みんな笑っている。いつもと変わらない。テレビの中がどんなに怖くても残酷でも、自分の世界は何も変わらずそこにあるんだ。


壱晴はちらっとテレビの中に映し出されている名もなき男の写真を見た。


 正直、「少し怖いな」と、名もなき男のことを思っていたけれど。


母さんは男を懸念していないようだし詩織も面白いネタぐらいとしか捉えていないんだろうな。父さんも、母さんと同じで多分よくわかってなさそう。


怖がるだけ損だ。自分の世界は何も変わらないのだから。


壱晴はテレビから目を背け、椅子から立ち上がった。


「俺もそろそろ行こうかな」


「お兄ちゃん!私も、もう出なきゃ!」


壱晴が玄関へ向かうと詩織も慌ただしく立ち上がり、後を追った。



「行ってらっしゃーい!」


 彩葉も玄関まで行き、二人を見送る。笑顔で手を振る彩葉に詩織も「行ってきます」と手を振り返した。



「行ってきます」


壱晴は柔らかく笑って、扉を開けた。









 ——……そう。世界は何も、変わらないはずなんだ。それなのに。


「なんだ……これっ」


 大学が終わり、家の最寄駅で下車して帰路を歩いていると鎖骨が急に熱くなった。びりびりと痺れるような痛みとともに熱さもひどくなっていく。


「ぐ……っ」


 脂汗が噴き出してくる。

経験したことのない痛みに耐えられなくなり、閑静な住宅街の道端で壱晴はうずくまった。


シャツを伸ばして鎖骨を覗き、息が一瞬止まる。どくん、と心臓が大きく飛び跳ね、目の前がぐらついた。



鎖骨には細長い茎、蕾のついた花が浮かび上がっていた。アナウンサーが言っていた通り、それは刺青のようだった。


名もなき男の、不気味な微笑が彷彿される。




一刻も早く家に帰らないと。体が恐怖に震え始め、歯がカチカチと音をたてている。


……殺される。名もなき男に。


壱晴は今にも叫び声を上げてしまいそうだった。両手で口を押さえて、グッと堪える。



「殺される」そればかりが頭をぐるぐると回り、這い上がってくるおぞましい恐怖に支配される。


早く家に帰って、それで母さんに助けを。

家族の顔が浮かぶ。早く家に帰って、それで!



「母さん!」


鎖骨を押さえ痛みに耐えながら壱晴は家に駆け込んだ。真っ先に彩葉を呼ぶ。


熱さに心臓がどくどく波打っている。走ってきたせいで呼吸が荒く、胸の浮き沈みが激しい。


家の中は薄暗く、明かりがついていなかった。夕方のぼんやりとした光があたり、家の中に影を落としている。



「……はい、ええ。あっ、いち、はる」


リビングから声が聞こえてきて、息も整わないまま中へ入ると彩葉が家の電話でぼそぼそと話していた。


壱晴に気づいて相槌を止めた彩葉の目には涙が浮かんでいる。


「母、さん……?」


「ただい、」

と、玄関から聞こえる詩織の声。テレビを急に消した時と同じように言葉が切れた。



「詩織?」


「……っ、お、にいちゃっ」



鎖骨が、痛い。熱い。体の内側から支配されていくような。



壱晴が玄関に戻ると、詩織が靴も脱がずに玄関に立っていた。


助けを訴える目、か細い声。詩織の背後に揺らめく黒い影。



詩織はそのまま、うつ伏せに倒れた。真っ赤な血がどんどん広がっていく。

ポタッと、玄関と廊下の段差に雫が落ちていく音が鮮明に聞こえてくる。


「は?」


 黒ずくめの男の手には真っ赤に濡れたナイフが光っていた。


 壱晴は放心状態になり目の前の光景を受け止めきれずにいる。鎖骨の熱さも痛みも引かない。


ただ、その光景だけが目に焼き付いて。



「い、いちっ、壱晴!こっち!」


 彩葉の声が聞こえたかと思えば、腕を勢いよく引かれた。


彩葉はがたがたと震える唇を必死に動かして壱晴の名前を呼び、勢いよくリビングに入った。すぐさま扉を閉め、背中で押さえる。


『亡くなった正隆さんのご遺体ですが——』


 さっきまで話していた受話器が宙ぶらりんになっている。声は、父の名を口にした。


「父さん……?」


「さ、さっき交通事故でっ!いち、壱晴、早く逃げて!」


 彩葉は真っ青になりながら壱晴に訴える。男が扉を勢いよく蹴り、こじ開けようとしていた。



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