第18話 水島さんは宣言する。
「はぁ、はぁ、はぁっ……」
木村さんに背を向けて暴走機関車と化した私は、終点というか散々走り回って体力の限界を迎えた地点である中庭に面した外の渡り廊下にいた。
屋根のおかげで濡れることはないけれど、雨足は弱まることもなくザーザーッと中庭の芝生や花壇の花を濡らしていて、当分止むことはなさそうだった。
だけど、今は熱を帯びた頬をそっと冷やしてくれるような雨降りの空気がバクバクと早鐘を打つ私の心をちょっとずつ穏やかにしてくれるような感じがして心地が良かった。
黒く濁った雨雲から降り注いでくる雫の軌跡を何気なく眺めながら、渡り廊下に置かれた木製ベンチに腰を落とす。うー、ひんやりとしてる。
お尻に伝わってくるひゃーっていう感じの冷たさにひゃーってなりながら、雨の湿った匂いを含んだ空気をスーッと吸い込む。
慣れない全力疾走で息が切れて、肺が酸素を求めていた。
呼吸の度に冷却された空気が喉を通り過ぎていく。
だけど今はそれが丁度良い感じだった。このホカホカを通り過ぎてアッチッチッ状態になっている胸を鎮めるには。
息切れで荒れる呼吸を整えるように軽く深呼吸をする。
雨の降る日特有の湿った空気を吸い込み、渡り廊下の先にある文化棟の空き教室から聴こえてくる吹奏楽部の楽器の音色が雨音でどこかしっとりとした響きが耳にしっとりと染み込むように流れ込んでくる。
バクバクアツアツしている私のハートにはそれがどこか心地良くて、自然とベンチの背もたれに身を任せてみる。
湿気を含んだ木材のジメッとした冷たさを背中に感じながら、肺の中の空気の入れ替えを何度か繰り返していると、徐々にだけども苦しかった息苦しさが弱まってきて、呼吸のリズムもいつも通りに戻って来た。
久しぶりに廊下を全力疾走してしまった。
でもそうしないと頭の中があの人のことで一杯になってしまってどうにかなってしまいそうだった。
「木村さん……」
そう呟いた声は雨音に掻き消されて溶けていく。
雨が降りしきる校舎の片隅で、友達のおっぱいを揉み逃げした犯人である私はぼんやりと自分の両手の掌を見詰める。
私の周りは雨によって冷えてきていて、運動場にいた運動部の生徒達が「さみ~」「俺、ジャージ取って来るわ」等と言いながら、自分の教室や屋内でトレーニングが出来る場所を求めて移動する姿が、向かいの校舎の廊下を見ていると確認出来た。
だけど、じっとりとしたベンチに置いた私の手は熱を帯びていて、一向にこの熱は消えてくれない。
木村さん。
私の同級生。
大切な友達。
……私の好きな人。
その人の胸の温もりが私の手に焼き付いたように離れない。離れてくれない。離したくない。
ああ、重傷だ。
もう、本当に重症だ。
それを自分でも自覚してしまうから。
自覚できてしまうから始末が悪い。
自覚できるくらい大きくなっているからどうしようもない。
熱を帯びた掌を両頬にそっと当てる。掌と変わらないくらい熱かった。
「……私、木村さんのこと好きすぎでしょ」
それに尽きるのだ。
好きなんだ。
好きになってしまった。
出会ってからそれほど時間なんて経ってない。
時間のことを言うのなら倉橋さんの方がぶっちぎりだ。私に勝てる要素なんて皆無だ。
だけど、一緒に過ごした時間は倉橋さんに比べたら少ないけれど、木村さんのことを考えると私はこんな感じになってしまう。
アチアチで、アワアワで、ドキドキで、ポカポカで、ソワソワで。
私の感情はこんなにも色鮮やかに爆ぜるんだ。
折角落ち着いてきた胸の鼓動がまた跳ねてしまいそうになる。
その感覚に落ち着かないような気持ちになり、そしてそれをどこか嫌がっていない自分の心がやっぱり重症だと感じながらベンチから立ち上がり、気分転換代わりにジュースでも飲もうかと自販機の前まで足を動かす。
自販機の前に立ち、ポケットから財布を取り出して150円をとりあえず投入し、購入可能を示す赤いランプが灯るのを見ながら、どれを飲もうかとラインナップをチェックする。
「やっぱりちょっと冷えてきたからホットコーヒーとかホットココアとかにすべき?
それともなんかこう体に残っているこの熱を冷ます為に冷たい飲み物にした方が良い?」
どうしよう、どれにしたらいいか分からない。
う~ん、なんか自分が飲みたい物も選べないくらい自分が正常とは程遠い状態になっているのはよく理解出来た。
「こうなったら適当に目に付いた奴にしよう」
ザッと視線を飲み物達に向けて順繰りに眺めていく。
「オレンジジュース、ピーチジュース、コーラ、サイダー、ホットレモンティー、ホットココア、ホットミルクティー……ミルクかぁ」
ミルク。
牛乳。
……なんか木村さんのおっぱいのことが思い浮かんだ。
ポチッ。
なんか無意識にホットミルクティーのボタンを押していた。
「私は変態かぁぁぁああああああああああああああ!!」
自販機から取り出した温かなホットミルクティーの缶の温もりを感じながら、私はなんかもう罪悪感やらなんやらもう訳わかんねーよ!!という感情をぶちまけた。
ミルクという単語から大好きな人のおっぱいを思い浮かべてミルクティーを即座に購入した私はかなりヤベー女じゃないだろうか。※ヤベー女です。
「どうしようこれ!? いやミルクティーは飲むんだけど、私自身よ!! 流石に今のはヤバいでしょ!!」 ※ヤバいです。
言えない。
絶対に言えない。
木村さんには言えない。
絶対嫌われるに決まってる。
木村さんのことは好きだけど、私が木村さんなら絶対引く。
仮にシミュレーションしてみたとしても、
「ねえ木村さん、聞いて!! 私、貴女のおっぱいのことを想いながら、寸分の狂いもなくミルクティーの購入ボタンを押してたの!!」「もー、水島さんはエッチだなあ。……そういえばミルクティー最近飲んでないかも。私も飲もうかな~。一緒に自販機行こうよ。ホットミルクチー久しぶりに飲みたくなっちゃった」
……あれ? 嫌われないかも?
「いやいやこれは私の都合の良い展開に誤変換されてるからでしょ。いやでも、あの木村さんのことならあり得るかも……」
ホットミルクティーの缶を握り締めながら煩悶していると、なんかもう忘れかけていた木村さんのおっぱいの感触やら温もりやらも蘇ってきて頭がオーバーヒートしそうになってきて頭がクラクラしてきた。
ミルク。おっぱい。木村さんのおっぱい。エロい。超エロい。めっちゃエロい。
ひでー連想ゲームだった。
そして、なにやら頭の中が整理し切れないままポツリと煩悩が漏れた。
「……木村さんのおっぱい凄かった」
「確かにあのおっぱいは凄いよね」
「うん。めっちゃエロいよね」
「同性ながら、特に運動もしていないのに無駄な脂肪のないスリムな体型を維持したまま胸はすくすく育っていくんだから羨ましくなってくるよ」
「そうそう……んっ?」
――私は今、誰と話してる?
バッと横を振り向くと、いらっしゃった。
木村さんではない。
だけど木村さんと同じぐらいの有名人。
ボーイッシュな奮起を纏ったショートカットの女の子。
キリッとしたどこか鋭さを感じさせつつも、冷たい印象は与えない瞳。
スラリとした肢体で同性からも感嘆の溜め息が漏れる魅力的な体型。
170cmという女子にしては高い身長とそこそこの大きさを持つ胸、無駄な肉のない引き締まった脚線美を黒いタイツで包んでいて、一部の男子に「それが良い!!エロい!!」と大反響を巻き起こしているらしい女の子。
木村さんや倉橋さんと同じ美少女ランキングに名を連ねる1年生ながら既に陸上部のエース。
「あの子は中学の頃から発育超良かったから、私の中学の陸上部のメンバーの子達からも足の速さも含めて羨望の的だったよ」
霧崎結衣はニッコリと微笑みながら、そしてどこか懐かしさを滲ませた面持ちで私の横に立っていた。
突然すぎて、数秒程思考が停止した。
だけど次第に脳が状況に追いついてくると、学校でも屈指の美少女であり陸上部最速と名高い期待のエースの顔も持つ有名人の登場と、陸上部の美少女エースと木村さんの乳について無意識に話していたという事実にカーッと頬に朱が差したのが自分でも分かった。
咄嗟に視線を床に逸らして、霧崎さんの綺麗な顔から渡り廊下の無骨な床に視界を差し替えた。
うわぁー、何してんだー私!!
すげー恥ずかしかった。
超逃げたかった。
だけど、ここで脱走兵に転職しても次に合同授業や廊下で会った時に、(あっ、木村さんのおっぱい超エロいっ言ってた子だ)だと思われたままになる!!
それだけは阻止せねば!!
面舵一杯!! 全力ダッシュじゃ!!と叫ぶ脳内指揮官雫ちゃん(イメージ)の後頭部に銃口を突き付け、「大人しくしな、お嬢ちゃん」と逃げ出したいぜと叫ぶ気持ちを抑え込むと、木村さんのおっぱい……じゃないホットミルクティーをニギニギしながら心を鎮静化させ、そろそろと霧崎さんに向き直る。
落ち着くのよ水島雫。
ただ同級生の女の子に、クラスメイトのおっぱい超エロいなーと思っていることが知られただけよ。……結構な致命傷じゃない!?
冷静になろうとしたら深手を負った。やめときゃよかった。
だけど、ここで動揺して変な態度を取ってしまうのも愚策。
ここは落ち着いた態度で話しかけないと。
スーッと息を吸い込み吐き出す。
よし、イケる!!
「きききき、霧崎さん、っどどど、どうしてここに!?」
動揺してめっちゃテンパった声が出た。死にてー。
だけど霧崎さんは私の挙動不審な言動に眉を顰めることもなく、人当たりの良さそうな優しい笑みを向けて、
「ああ、この雨でしょ? 今日はグラウンドで短距離走のタイム測定だったんだけど、それも中止になっちゃって。今は文化棟の空き教室を幾つか借りて、各自屋内トレーニングしてたんだ。
顧問の先生が急な職員会議で部活も早上がりになったんだけど、持ってきてたスポーツドリンクも飲みきっちゃったから、部活終わりにここの自販機で飲み物買おうと思って。ここあまり人来ないから割と穴場なんだよね」
そう言って、自販機にお金を投入して水分補給用のスポーツドリンクを購入すると、その場でゴクゴクと喉を潤した。
運動して汗を滲んだ肌と、汗で頬に張り付いた黒髪がなんか妙に艶めかしくて健康的な筈なのにどこか色気があって、マジマジと見詰めるのが気恥ずかしくなってきた。
……なんだろう、私って欲求不満なのかな。自分のことだけど、自分のことがますます不安になってきた。
霧崎さんは私に、この人って不思議な色香があるよなー、なんてことを思われているとは露知らずに、あっという間に飲み干したスポーツドリンクのペットボトルを自販機横のゴミ箱に捨てると私にそっと向き直った。
「貴女、1組の水島さんでしょ?」
「えっ、私のこと知ってるの?」
「うん、だって凄い可愛い子がいるって男子達が騒いでたから」
「……可愛い子? ああ!! 木村さんのことか。確かに可愛いもんね。本人は無自覚だけど。取り柄のない私なんかよりよっぽど有名人だし」
「いや、確かに木村さんもなんだけど、貴女もかなり可愛い方だと思うんだけど……。これは気付いてないっぽいなあ」
「? どうしたの?」
小声で何かを呟く霧崎さんに対してキョトンと首を傾げる私を、霧崎さんは私をどこか困ったさんを見るような目で見ていたような気がしたけれど、気を取り直すようにかぶりを振ると、私に再度向き直った。
「いや、何でもない。それより、水島さんは木村さんと仲良いの?」
「まあそうかな。同じ図書委員会だし」
「へえ、図書委員会だったんだ。意外だな、あの子そんなに読書とか好きな子だったっけ?」
「結構好きみたいだよ。休み時間もたまにだけど文庫の小説読んでたりしてるし」
「そ、そうなんだ。私の中では木村さんって常に走ることに全力全開って感じの人ってイメージだから」
「へっ? 木村さんが?」
常に走ることに全力全開?
あの木村さんが?
美人だけど、気怠げで全力全開という言葉とは程遠いあの人が?
確かに体育のリレーの時に見せた他チームをごぼう抜きにしていくあの走りはとても凄かったけれど、木村さんには全力全開という言葉が当て嵌まるイメージがどうしても湧いてこなかった。
同じクラスで割といつも一緒にいる私ですらそんな印象なのだ。
他の同級生に関しても私と同じような印象を抱いていると思う。
だけど、どうしてこの人はそんなことを木村さんに対して思っているんだろう……?
そんな思いが顔に出ていた。
そして、それを霧崎さんは素早く察知した様子で、どこかばつの悪そうな表情になって、視線を下に落とした。
「……しまったな。あの話は一部の人しか知らなかった筈なのに、仲が良さそうだったから、もう知っているのかと思ってたけど……」
「ねえ、木村さんがどうしたの? 何か知ってるの霧崎さん?」
「いや、そのごめん、私の口から言っちゃうのは木村さんに悪い気がするから、聞かなかったことにしてくれない」
「そんな、でも……」
霧崎さんは明らかに困っていた。
何か木村さんのことに関する事で口を滑らせてしまったのだろう。
放課後、帰宅する途中でグラウンド横から時折見たことのある、練習中の陸上部の中で一際目立ったキレのある鋭い走ることだけを見据えた鋭い視線も切れ味が落ちていて、気まずそうに目も泳いでいた。
普段の私ならここで気を遣って大人しく引き下がった筈だ。
だけど、どうしても知りたかった。
霧崎さんが知っている、私が知らない木村さんのことを。
「霧崎さん、どうしても言えないなら言わなくていい」
「水島さん……」
「だけど、絶対に誰にも言わないって誓うから、木村さんに何かがあるのなら教えてほしいの」
「…‥‥木村さんがこれを貴女に教えていないのは貴女に嫌われたくないからかもしれないよ」
「嫌わない。嫌いになってならない」
「……本当に?」
「本当。そして、もし木村さんが何か秘密を隠していて、もしその秘密が木村さんを苦しませるようなものなら……」
「ものなら?」
私は霧崎さんの顔を、目を、しっかりと目を逸らさずに見る。
今は恥ずかしくなかった。
さっきまで私の胸と手を焦がしていた熱も感じなくなっていた。
今はそれよりも、この想いを、この気持ちを宣言することで自分で自分に覚悟を決めさせたかった。
さあ、腹をくくれ水島雫。
お前は木村楓が好きなんだろう。
だったら、もし大好きな人に嫌われたとしても自分の決めたことを貫き通せ。
私は宣言する。
だって、私は、
「木村さんは私の大切な人だから。一緒に苦しんで、一緒に悲しんで、そしてその後に、『よく頑張ったね』ってギュッと抱き締めてあげたいの!!」
その言葉に霧崎さんは大きく目を見開いた。
気持ち悪いと思われただろうか? 分からない。でも構わない。
自分でも重い女だと思う。客観的に見たら、面倒臭い女なんだと思う。
だけど、あの人のことで何か後悔することはしたくないから。
彼女が何か抱えているのなら、あの子ごと抱き締めて一緒に海の底だろうがどこだろうが沈んで行ってやる。
霧崎さんは自分から目を離そうとしない、話してくれるまで動きませんぜ旦那! 雰囲気をバリバリ放っている私に苦笑すると、はあぁっと吐息を漏らした。
「分かった、話すよ」
そこには逃げられそうにないなあという諦観じみた響きが配合されていたけれど、そうさせているのは私だったので素直に頭を下げた。
「ごめんなさい、私霧崎さんを困らせてる」
「いや、もとはと言えば私が木村さんが水島さんに伝えていなかった部分を口走ってしまったのが原因なんだから、悪いのはこっち」
右手を前後に振って気にしなくて良いと気遣ってくれた霧崎は、私に真っすぐに真摯に向き合ってくれていた。
雨足が徐々に強まり、強く吹き込んできた風に乗せられた雫が私達の頬を濡らした。
頬から伝うそれは、まるで霧崎さん自身が泣いているかのような錯覚を起こしそうなくらい冷たく目の前の少女の頬を冷たく濡らしていた。
「木村さんは中学の時、全国屈指の陸上ランナーだった。
だけど、ある日を境に部内の女子全員からいじめを受けて、夏の総体前のタイム測定走の最中にわざと足をひっかけられて派手に転んで足の骨を骨折した。
骨折自体は直ったけど、足には手術の痕も残ったし、走ると転ばされた時のこととかいじめられていた時の記憶がフラッシュバックして短い距離だけしか走れない体になったの。
……陸上選手としての木村楓は殺されて、そして今もずっと木村さんは殺されたままなんだ」
言葉が耳に流れ込んできた時は、その意味を理解するのに思考が停止した。
いや、脳が拒否した。
……木村楓は殺されていた。
私と一緒にいた時に見せてくれた笑顔が眩しくて、愛おしい木村さん。
図書室で一緒にトランプをしたり、一緒に下校して私のたわいのない話に楽しそうに笑ってくれた木村さん。
私が見ていた木村さんはいつも気怠げで、隙があれば私をからかって遊んでくるけど、私が本当に嫌がることだけは絶対にしない優しい人で。
一緒にいると本当に楽しかった。
一緒にいると本当に幸せだった。
一緒にいると本当にこのままずっと側にいたいと思った。
……本当に?
木村さんはどう思っていた?
心に深い傷を負ったままの彼女に私は何か傷付けるようなことは言わなかっただろうか?
何も知らずにヘラヘラと笑っている私を見て彼女はどう思っていたのだろう?
何も知らない癖に、と私のことを疎ましく感じたことはなかったのだろうか?
いつか私が自分のことを傷付けてくるんじゃないかと思ったことが一度でもなかったのだろうか?
そんなことはないと否定したかった。
だけど、それは私個人の気持ちだ。
木村さんがどう思っていたのかなんて、木村さんにしか分からない。
だけど、苦しかった。
喉が焼けそうだった。
何も知らずにのほほんと彼女の側で笑っていた自分が情けなく感じた。
だけど、それでも私は……。
ギュッと手の中に収まっているミルクティーの缶を握り込む。
すでにホットの頭文字はどこかに消えてしまったけれど、何か形のある物を掴んでいたかった。自分の中にあるこの気持ちまでどこかに消えてしまわないように。
心の中はぐちゃぐちゃできっと考えなくていいことまで考えている。
さっきまであった自信も勢いを削がれて萎んでしまった部分もある。
しかし、消えないものもある。
消してなるものかと言えるものがある。
だから、私はそれを伝える為に、口を開く。
私の我儘の為に、きっと大切に想っていただろう木村さんの伏せていた傷口を開いてくれた霧崎さんの為にも。
そして、自分自身がそうあると決めたことを告げる為にも。
正直言いたくない。だって超恥ずかしいし、笑われるかもしれないし。
だけど、今の話を聞いた上で私は決めたんだ。
腹を括るしかないんだ!
「私は……」
どこか緊張を孕んだ霧崎さんの整った顔を見詰めながら言葉を紡ぎ出した刹那、
「結衣!!」
ハッと私と霧崎さんは悲痛な叫び声を聞いた。
私達は声がした方に瞬時に身体の向きを変える。
そこに立っていたのは私達のよく知っている人だった。
だけど、今まで見たことのない弱弱しい顔をした人だった。
走れないのに。
走るのが怖くて仕方がない筈なのに。
怖くて怖くて苦しくて苦しくて、臆病になってしまうくらい打ちのめされた筈なのに。
校舎中を走り回っていたのだろう。
おっぱいを揉んで逃げ出したおかしな女を探して。
走ることをやめて体力も落ちている弊害で走ったせいで、肺が酸素を欲して喉が荒い呼吸を繰り返していて、苦しそうに胸元を押さえている。
痛いのだろうか。
辛い記憶を思い出して震えるのだろうか。
怖くて怖くて仕方がないのだろうか。
体力的に疲れたのとはどこか違う、別の何かを思い返してブルブルと震えている両足は今にも崩れ落ちそうなぐらい脆そうに見えた。
霧崎さんの話を聞いてしまったのだろうか。
自分の隠していた過去を暴かれて怯えているのだろうか。
いつもののんびりとしつつも、優しく私を見てくれていた目は恐怖に縛られていて、まるで親に置いて行かれた小さな子供ようだった。
激しくなってきた雨に全身に打たれびしゃびしゃに濡れた身体はガクガクと震えていて、あまりにも痛々しかった。
木村楓は、気怠げだけどとても優しい女の子だった。
そう、優しい普通の女の子だ。
傷付けられれば苦しいし、痛いんだ。
他人に傷付けられた傷に今も苦しみ続けている、ただの女の子なんだ。
雨に打ち付けられて綺麗な枝毛のない髪が重々しく肌に張り付いていて、悲壮さを色濃く醸し出している。
隠していたことを知られた。
嫌われたんじゃないか。
どうして秘密にしていたのと糾弾されるんじゃないか。
そんなことを言う人達じゃないことは分かっている。
だけど、壊れそうな心が悲鳴を上げていて、どうしてもそんな考えが壊れた蛇口のように無限に溢れ出し来る。
木村さんの青ざめた表情がそう物語っていた。
私と霧崎さんは、どんな言葉をかけるべきか分からなかった。
特に私に木村さんの辛い過去を話してくれた霧崎さんは血の気が引いていた。
秘密を勝手に知ろうとしたことを謝るべきか、彼女に大丈夫だよと安心させる言葉をかけるべきか決めあぐねていた。
互いにどうすればいいのか分からず顔を見合わせてしまう。
木村さんが私達を糾弾するのなら、それでもいい。受け入れる。
そうお互いに決めているのは、木村さんと同じぐらい辛そうに唇を噛んでいる霧崎さんを見れば簡単に読み取れた。
私達は最適な答えを出せずに喉が固まってしまっていた。
木村さんはそんな私達にビクビクとした眼差しを向けながら、天から降り注ぐ雫に目元を濡らしながら、
「ゆ、ゆ、ゆい。し、しず、しずく!!
おいてか、なぁい、で!! わ、わた、しのこと! 置いてかないでぇ!!」
大粒の涙をボロボロと流しながらそう叫んだ瞬間、
「「楓!!」」
私と結衣は楓の元へ一心不乱に走り出していた。
気付けば身体が勝手に動いていた。
普段から要領が悪くて優柔不断な私だけど。
今この瞬間に真っ先に飛び出したことだけは一生誇れると思った。
大切な友達が泣いていた。
それは自分が彼女が必死に蓋をしていた部分を傷付けてしまったからだ。
全力で謝る。許してもらえないかもしれないけれど、全身全霊で謝る。
だけど、その前に言っておかないと!
私と結衣は楓の冷たく冷え切った身体を躊躇なく抱き締めた。
ぐっしょりと濡れた制服の感触と、とめどなく降って来る雨が肌を叩く感触に包まれながら、私は校舎中に響く渡るくらい声を張り上げる。
他の生徒や先生に聞こえるかもしれない?
そんなこと知ったことか!!
「あの時側にいてあげられなくてごめん!! 別の中学にいた私が楓がそんなことになっていたと知ったのが遅すぎて、一番辛い時に何も出来なくてごめんね!
嫌いになんてならないから、楓さえ良ければ側にいさせて!!」
「ずっと側にいる!! 楓が苦しんでいるのなら一緒に苦しむ!!
楓が辛い気持ちに押し潰されそうになっているのなら、私が絶対にそれをぶっ壊すぐらい楽しい思い出で楓の心を塗り変えてみせる!!」
「ゆ、結衣。し、雫」
雨なのか涙なのか分からないぐらい濡れまくっている楓の表情はまだ恐々としていて、そんな彼女を安心させるように一層彼女を強く抱き締める。
そして、私は宣言する。
木村さんの過去を話してくれた霧崎さんに伝えるつもりだった超こっぱずかしい言葉を。
「私は!! 水島雫は!! 木村楓を超幸せにすることをここに誓います!!」
「ふぇええ!? し、雫何を!?」
腕の中に収めている楓が私の幸せにしてやんよ宣言に目を白黒させて動揺していた。よしよし、良い反応だ。このまま突き進んでやる!
「絶対に笑顔にしてみせる!! 林間学校も夏祭りも体育祭もクリスマスもバレンタインも色々なイベントや、普段一緒にいる時間を沢山思い出で彩って、楓をいじめた連中が羨むぐらい最高の学校生活を一緒に送る!!
倉橋さんも霧崎さんもずっと側にいる!!
だから!!」
私は楓の背中に回していた腕を解くと、冷えて冷たくなった楓の両頬を優しく両手の掌で包む。
そして、彼女の顔のめちゃくちゃ近く。
もう少し近づけばキスしちゃうんじゃないかってぐらい近く。
彼女に最も近い場所まで顔を寄せて宣戦布告する。
「覚悟してね、楓!! 私が絶対に楓を超幸せにしてみせる!! だから、絶対に私は離れてなんかやらないんだから!!」
楓は息を呑んで言葉をなくしていた。
霧崎さんは私のことを真っ赤な表情で見詰めていた。そそそんなに見ないで! こっちだって色々と切羽詰まってるんだから!
今更ながら、スゲーことを宣言してしまった感に苛まれて消し飛びそうになりそうなぐらい羞恥心に支配されてきた。
引かれた?
選択肢ミスった?
重い女すぎた?
気持ち悪かった?
うわぁぁぁああああ、もう何かヤバい!?
後悔しないと決めたのに、既になんかもう別の意味で後悔してきている自分がいることにおいおい私って馬鹿なんじゃないの?と自身に言いたくなってきていると、
「……ふふふふっ、超幸せか」
雨は降り続ける。
風もビュウビュウと吹き続ける。
だけど。
それでも。
「うん、覚悟する。幸せにしてね楓」
そう言って笑った私の大好きな人のその笑顔だけは、私は一生忘れないだろう。
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