第25話 1944年11月25日 長崎 佐世保


「加藤、いるか?」

雑然と並んだ機器に占領されてただでさえ狭苦しい通信室に無遠慮な大きい声が響いた。

「ここです」

通信室の片隅でうずくまって作業をしていた加藤は左手を上げたが、そのまま作業を続けていた。

「どうだ、直りそうか」

大声は、今度は少し心配そうなトーンを帯びている。

「大丈夫です。断線しているだけですから。多分鼠がかじったんでしょう」

「そうか。殺鼠剤さっそざいを手配しなきゃな。ともかく早く直してくれ。交信ががたがたなんだ。長官がおかんむりらしい」

「分かっています。すぐ直りますよ」

略して佐鎮と呼ばれる佐世保鎮守府は九州・沖縄地方を統括する鎮守府で、次第に迫ってくる米軍の足音を最も間近に聞く海軍の橋頭保きょうとうほであった。

大学を辞め、すぐに応募してきた加藤の経歴に海軍人事課は、流体力学と共に加藤が専攻していた電気通信の経歴に目を止めた。すぐに帝大に問い合わせを入れ加藤の退学理由や思想背景について問い合わせを入れたのに対して牟田が

「本人の皇国への情、もだしがたく・・・」

本人が軍で働きたがっているのだと丁寧な回答を送ったことを加藤は知らない。それは最前線への転地を希望している加藤の言い分と矛盾していなかった。その上、牟田はさりげなく加藤が通信の知識が豊富であることを書き添えてあった。

戦闘員も必要だが、軍では通信系の人材も払底ふっていしていた。とりわけ大学出の知識豊富な技術者を喉から手が出るほど欲しがっていることを牟田は知っていたのである。

先々月、日吉にある慶応大学校舎内に新設された連合艦隊司令部に付属する通信本部の機材はかなり立派であるが、それ以外の基地の通信施設はどれも貧弱極まりないもので、命令連絡系統の不備は戦争の遂行に大きな影を落としている。

そんなこともあって海軍人事部は加藤を戦闘員としてではなく佐世保の施設部に配属することにしたのであった。最初のうちは戦闘地域への転出を望んでいた加藤だったが、上司になる技術大尉の「ここも立派な戦場だ」という言葉と丁寧な慰留に次第に応じるようになっていった。

「これで大丈夫でしょう」

加藤が服に付いた埃をはたきながら立ち上がった。

「うむ」

スイッチを入れると通信機は支障なく作動し始めた。

「相変わらず作業が早いな」

佐伯と言う通信隊の技術大尉は感心したように加藤の手元を見た。その指が油でべっとりと汚れているのに気づくと、

「これで拭けばよい」

古びてはいるが、きれいに洗われた布を差し出しながら佐伯は照れたように笑った。

「お前が来てくれて助かったよ」

施設部は目立たない部署である。施設部の下にある設営隊は前線基地の設備を担うため以前はフィリピンやマリアナに盛んに派遣されていたが戦局が悪化すると次第に逼塞ひっそくし、今や、派遣先は主に台湾・沖縄・南西諸島に限られている。戦局が悪化してからは派遣の途中で敵の艦隊や航空隊に見つけられ殉職じゅんしょくする者たちも少なくない。そうした者たちの多くは朝鮮や台湾から送られてきた徴用工ちょうようこうたちだった。

佐伯自身も何度か前線で基地の設営せつえいに従事したことがあるが、基地そのものにいる時だけでなく次第に往還おうかんも命からがらのようになってきた。生来、自分が臆病者だと自認している予備学生上りの佐伯には、内地の方がずっと安心していられる。銃を持たずとも、飛行機を操縦せずとも、設営隊の一員として俺は立派に国のお役に立っている、というのが彼の言い分である。

だがそうは言っても佐伯は通信機のプロではない。大学で勉強していたのは地質である。地質の事ならともかく電気のことは見様見真似でしか分からない。理科系と言うだけで通信に配属するとは随分といい加減だと思ったが、地質学者の卵の配属先など考えもつかないのだと妙に納得もした。飛行機や戦艦でどんぱちするよりましか、という気もする。そんな佐伯にとって、故障がおきるとその症状からたちまち故障個所を言い当てる加藤は貴重な人材であった。

「聞いたか?ついに東京に空襲があったそうだぞ」

遂に戦禍は内地にまで及んできている。帝都が爆撃されたというのは臆病を自認する佐伯にとっては一大事であった。

「ええ」

加藤の表情は陰った。

詳報しょうほうは聞いていませんが、どこに・・・」

「どうやら武蔵野と品川らしい。あそこらへんは工業地帯だからな」

「そうですか・・・」

「しかし、品川はともかく武蔵野に飛行機の製造工場があるなんてどうしてアメリカさんは知っているのかなぁ。やはりスパイがいるのだろうか?」

上司の問いに加藤は黙って首を振った。

「加藤は帝大に行っていたのだろう。どこに住んでいたのだ?」

「駒沢です」

その答えに佐伯はにっと笑った。

「そのあたりは大丈夫みたいだな」

「本郷や駒込のあたりは?」

「なんだ、大学の心配か。そっちも大丈夫だ」

少しほっとした。敦子の面影がふと過る。

「しかし、東京の心配ばかりもしておられん。こっちはこっちでそれどころじゃない」

「そうですね」

「噂で聞いたが、どうやら特殊兵器がついに使われることになったらしいぞ。必死の攻撃装置だそうだ」

「・・・。どんなものですか?」

「詳しくは知らんが、新しい航空部隊が九州に配備されるそうだ。それに、どうやら呉鎮の下で新魚雷の訓練が始まっているらしい」

佐伯は情報通である。どこからかそうした情報が集まってくるらしい。それは彼が通信と言う情報に近い場所にいることも関係しているのだろうと加藤は考えている。

呉鎮守府の新しい魚雷と言うのはきっと牟田教授が関わっていた人間魚雷の事だろう。

零戦による特攻の報が伝えられた時、周りの喧騒けんそうと興奮をよそに一人、粛然しゅくぜんとした加藤であった。爆装した零戦に乗ってった若人わこうどもまたあらがえない命令で自死をせざるを得なかったのだろう。

だが、それでもなお特攻兵器は別物だという気持ちは拭えなかった。特攻兵器は国家が組織的に自死を前提として製造するものである。兵隊にこれに乗って死んで来いと命令する兵器である。零戦はそうではない。零戦はそれだけでは醜悪しゅうあくではないが、特攻兵器はその存在自体が醜悪だ、と加藤は思っている。

いったい人々の命を犠牲にしてなお守るべきものは何なのだ、それが国家だとすれば、その国家は果たして正しいありようなのか?何よりもおぞましいのは国を守るべきと称して死を強要する人々は決して自分は死ぬ位置にいないことであり、反対を封殺しようと躍起やっきになっていることである。結局それは国家をたてに自分を守ろうとしているに過ぎない。加藤にはそうとしか思えなかったが、思ったことを正直に言いたてれば、自分は思想犯となる。

「そうですか・・・」

「ああ、だが他の奴らには云うな、機密だ」

配属された当初は明らかに学識が自分より上である加藤に戸惑とまどっていた佐伯だったが、加藤が素直に自分に従う様子を見てからは何かと加藤に良くしてくれるようになった。

設営隊の大半は土木工事の作業員だからここに配属される尉官たちは取り纏めるのに大変な苦労をする。大学出のぽっと出の若者がどんなに尉官風を吹かしてみても素直にいう事を聞かない。尉官でさえない加藤は相当苦労するだろうと佐伯は思っていた。

ところが不思議なことに配属されたその日から加藤は通信科の下士官や兵たちのみならず、設営隊の徴用工たちとまで打ち解けていた。

どうしてかと思って佐伯が加藤に尋ねると、

「うちの親父はもっこを担いでいましたから・・・血ですかね」

加藤は言葉少なく答えた。詳しく聞いて、厄介な徴用工との関係改善に役立てようと佐伯は大切に取り分けておいたウィスキーの瓶を持って加藤の宿舎を訪ね、酒盛りをした。

口の重い加藤から漸く聞き出したのは加藤の父親は小さな土建業の社長で、自らも現場へ足を運ぶ親方だったという事だった。加藤自身も小さな頃は現場へ良く連れていかれて、職人たちに可愛がられたらしい。

「目ですよ」

徴用工との関係改善をどうしたらできるだろうと問いかけた佐伯に加藤はしばらく考えてからそう答えた。

尊大そんだいな目や侮蔑ぶべつの目をしていたら、瞬時に彼らはそれを感じ取ります。かといっておもねるような目でも駄目です」

「そうか」

「親父はよく言っていましたよ。俺たちは野犬のようなものだからな、相手から軽く見られたらすぐになぶられてしまう。だから相手の眼を見て探るんだってね」

「なるほどな」

そう答えたものの、佐伯にはどうすればうまく打ち解けられるような目ができるのか見当がつかなかった。失望したようなため息を吐いた佐伯を見て加藤はくすりと笑った。

「佐伯さんって変わっていますね」

「そうか?」

「たいていの人はそんなこと下に任せて威張っているじゃないですか。いつまでも同じ隊にいるとは限らないし」

「うーむ」

「どうしてもって言うなら、みんなとうまくやろうとするよりも頭目とうもくと腹を割って話せるような関係を作ればいいんですよ。そうすれば下の者たちは自然とついてくる」

「そうか。それは現実的だな」

佐伯は感心したような眼で加藤を見た。

「このウィスキー、もういいですからそうした人たちと一緒に飲んでください」

そう言うと加藤はウィスキーのせんを閉めて佐伯に返した。うん、素直に頷いて受け取った佐伯に加藤は徴用工のグループごとに話すべき相手を教えた。もちろんリーダーたちが多かったが、佐伯も良く覚えていない名前の人間も何人か混じっている。

「表面上のリーダーだけじゃなくて、実質的にグループを取り仕切っている人たちもいますからね。軍隊で言えば古参の軍曹たちのような人です」

「なるほどね、参考になる」

借りた鉛筆で一所懸命にそうした者たちの名前を書きうつした佐伯に向かい、

「この戦争、どうなるんでしょうね」

加藤は急に話題を転じた。

「どうなるって・・・」

「本土決戦なんて本当にするんですかね」

「それは・・・・どうかね・・・」

本土決戦を主張するのは、陸軍と海軍の一部の跳ねっ返りである。しかし、気持ちはともかく現実に立ち戻れば、日本の本土で戦うというのは容易ではない。以前、ミンダナオで見た現地ゲリラのような戦闘を日本人は本気でする積りなのだろうかと考えると、佐伯も疑問に思わざるを得ない。

身を隠す、背より高く生い茂るあの粘っこい草木そうもくがあってこそのゲリラ戦である。亜熱帯の草木のようにフィリピンのゲリラたちはひどく粘り強かった。

「俺たち軍人は、それで良いかもしれませんが・・・俺たち、国と国民を守ろうとしているんですよね」

加藤の言葉に

「国体だ」

そう言い返した佐伯だったが、ただ、そう繰り返され教えられて反射的に出た言葉に過ぎない。国体というのは包摂ほうせつの広い言葉であった。佐伯にとっては、それは、小学校の時に朝、頭を下げてから仰ぐ天皇のご真影しんえいと故郷の田舎の田畑の風景であった。加藤も同じであろうか、いや・・・。

いったい加藤は何を言おうとしているのだろう?佐伯は不安げに加藤の顔をぬすみみた。

だが加藤は佐伯の言葉に抗いもせず、ただ遠くを見つめるような眼をして別の世界の何かを見つめていた。

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