第26話 1944年11月8日 広島 呉鎮守府
「皆も承知の通り、戦局には
おおっ、と気勢があがった。
藤島も
最前線で戦っている者たちに比べると、呉の基地で
死の足音が忍び寄って来ている感覚はある。
しかし比島のように鳥、蛙、蛇、草や挙句の果ては虫まで食用にして、餓えと病が敵艦・敵機より至近の戦闘対象となっている現地と違い、ここでは死はまだ美しく気高く
回天の推進者黒木中尉は殉職と言う形で自らの死を以って既に命を
壇上で演説をぶっている少佐の横に並んでいる回天の搭乗員、そしてその後ろで列を成している母艦の搭乗員の頬は戦意と緊張で朱く染まっていた。
「俺も、あっちに並んでいたのかもしれなかった」
と思いつつ、藤島は沸き上がってくるさまざまな感情を持て余していた。
回天の訓練は少ない練習機を回して実施されたこともあり、技量の習得の速いものと遅いものとの差がなかなか埋まらない。
なぜ選ばれなかったのか、と思う。
選ばれた者たちに海軍兵学校と予備士官たちが多いのも気になった。黒木と同じ機関学校を卒業した藤島にしてみれば、黒木こそ回天の生みの親である。その黒木の属した機関学校卒の者が僅か三人しか選ばれていないのは納得がいかない。
海軍には兵学校卒と予備の間の軋轢、士官と下士官の待遇差と共に、兵学校卒と機関学校卒の間にも厳然とした溝が存在していた。俗に
機関学校卒の者は兵学校卒の者がいる限り、
それがこの出撃隊員の選考にも微妙に影響しているのかもしれない。遠く日露戦争の旅順閉鎖にあたって機関学校卒の勇猛が喧伝されてからというもの、兵学校は機関学校に先を取らせまいとしてくるのが常であった。
しかし新たに加わった予備学生と兵学校卒の間の軋轢は、
一方で藤島は選ばれなかったことに
昨夜、呉の街で行われた激励会が
何も言わずに入ってきた藤島を見上げたお鶴は濡れた目で彼の顔を見上げた。仄かな灯りがその頬を染めている。
「選ばれんかった」
投げやりに言って腰を下ろした藤島の手に細いお鶴の指が重なった。無言でされるままになっていた藤島は、ふと重ねられた指の間から暖かいものが手の甲を湿らせたのに気づいてお鶴を抱き寄せた。
「お前、泣いているのか?」
お鶴は顔を隠すように俯いたままである。その頤に手を当てるとお鶴は素直に上を向いた。つっと、涙がその頬を伝わっていく。
「良かった」
恥ずかし気ではあるがどこか真剣な目で藤島を見るとお鶴は呟いた。
「何が良いもんか。次の出動が決まったら、またこんなことを繰り返すんじゃ」
照れを隠すように乱暴に言いつつ、藤島は
「何度、そういう事があっても良いですから。いつまでもそれでいいですから」
お鶴は答えた。確か来年の七夕の日に、二十歳になるんだったな、と藤島は思った。お鶴の誕生日まで俺はここに居られるんだろうか?
「私、あんまりお声が掛からないんです」
初めて抱いた日、藤島の胸に顔を埋めながらお鶴は呟くように言った。恥ずかしげでもあったし、その事にほっとしているようにも聞こえた。
いざ、出陣と言う前にはどんちゃん騒ぎをするのが軍人の常であり、そんな場にはそれに相応しい女というものがいる。陽気で軽妙で憂き世を浮世にさせてくれるような女たちである。
お鶴はどちらかというと周りをしんみりとさせる女でそういう席には相応しくないらしい。
藤島も堅物で通っていた。
機関学校を出たものは、まず船に乗り経験を積みやがて暫く陸上勤務を経て再び船に乗る。その繰り返しである。半年の航海を終えて陸上勤務に就いた者たちは堰を切ったように繁華街に繰り出して女と遊び、酒を飲む。
だが藤島は滅多にそうした遊びに付き合わなかった。
それより、宿舎で一人詩や小説を読むことを好んだ。筑摩書房から出版されたばかりの中島敦の小説や密かに隠し持っていたアルチュウル ラムボウの詩を繰り返し読んでいた。戦前戦中の書物の紙は粗雑で破れやすく、字も不鮮明である。大切に取り扱ってもところどころが破れ、虫も食っているが藤島には何よりも大切なものであった。
同僚の中には陸上勤務の内にと、親に急かされたのか結婚をする者たちも多かった。機関学校卒業間際に実家の火事で両親を失い、療養先にいたために
結婚を迫る両親はおらず、結婚をすれば自分の死を悲しむ女を一人作るだけだ、と考えて藤島は時折上司から出る結婚話も
珍しく繁華街に繰り出したその夜は機関学校で同期だった者たちが数人、金物4と称する別の特攻兵器の要員として去るという事があり繁華街で開かれた送別会に出たのである。
ご丁寧なことに幹事は一人一人に女を用意していた。上司からちゃっかり軍資金をせしめてあったのである。藤島は興味がなかったが、それなら女も一人あぶれている、せっかく前金を渡したのだからその女と話でもしていろ、と押し付けられたのがお鶴であった。
晩夏の夜だった。どういうわけか二人きりでいるうちに藤島は気持ちが変わりその女を抱いた。女も拒まなかった。事が終わり、消えかかっていた
「何を見ているんだ」
問いかけた藤島に、
「お星さま」
とお鶴は答えた。
「星なぞ、珍しいか」
そう言いつつ、藤島が身を起こしてお鶴の横に並んで星を見上げたのはお鶴の息遣いをもう少し近くで聞きたかったからである。
「珍しくなんてないです。でも可哀想だから」
「可哀想?」
変なことを言うもんだ、と藤島は思った。
「お星さまってね、天で輝いているお星さまのほとんどはお日さまみたいなものなんですって」
「うん」
「とっても熱くって誰も近寄れないほど熱くって、ずっとずっと燃え続けているんですってよ。でも、いつかは冷えていくんですって」
「そうなのか?お鶴さんは学があるんだな」
「お客さんに大学の先生が居て、そんな話をしてくれたんです」
へえ、といいながら藤島はちらりとその大学の先生とやらに嫉妬心が芽生えるのを感じた。女の記憶に残る話ができるという事が羨ましく思えた。機関の話などしても女は喜ばない。
「どこが可哀想なんだい?」
「お星さまはずっと、一人で冷たい
「そうなのか・・・」
「燃え尽きる前に、それまでよりもずっと赤く大きく輝くそうです、それがなんだかとっても悲しくて」
「ふぅむ」
「人なんて、せいぜい五十年か六十年か、一人でいれば済むのに・・・」
歌うように呟いたお鶴が急にいとおしくなって藤島は包み込むように抱きしめた。お鶴はされるがまま、それでもずっと星を見つめ続けていた。
次に来たのは一人でであった。海軍の規律は厳しく、
「どこの生まれだ?」
お鶴が注いだ酒を口元に運びつつ上目遣いにそう尋ねた藤島に
「新潟です」
とお鶴は短く答えた。
「新潟か。新潟のどこだ?」
「
「ほう、海の近くか。親御さんたちは?」
「父が漁師だったんです。漁に出て嵐にあって死んだと聞いてます。私がまだ赤ん坊だったころ・・・だから覚えていないんです。母は私が尋常小学校に上がったばかりの頃に病気で亡くなって」
「そうか・・・死んだ俺の親父も新潟だ」
「そうなんですか?」
お鶴は大きな目で藤島を見上げた。
「うれしい。ご縁があるみたい」
「なんだ。新潟の生まれなぞたくさんいるだろう」
「ええ、でもうれしい。今までそんなことで嬉しいなんて思ったことなかったんですけど」
そう言ってから、お鶴は自分が言ったことの意味に気付いたように
「そうか、嬉しいか」
「えぇ」
消え入るような声でお鶴は答えた。
黒木に誘われ特攻に参加することを決意した時、藤島には未練などなかった。唯一、この世と藤島を結ぶものがあるとしたらそれは病弱な兄だけで、その存在は却って自分が代わりにお国のために働かなくてはいけないと思わさせるものだった。
これからも決して未練など生まれはしないと思っていたのに・・・。
あの時、知らぬうちに石ころに
そして特攻に選ばれないと分かった日の夜、小さいと思ったその石ころが、存外に深く地中に埋まった
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます