第24話 1944年11月24日  東京 駒込


突如、耳をつんざくように鳴り出した空襲警報に敦子とお里はソファから腰を浮かした。お里に至っては一瞬腰が抜けそうになったほどである。家にいるのはこの二人だけで、父親は大学に、母親は銀座で開かれている大日本婦人会の集まりに出ていた。

「どうしたのかしら?」

防空警報でなく空襲警報である。間違いではと一瞬思ったが、警報は止むことなくしつこく鳴り続けている。

「ともかく、逃げましょう」

お里が敦子の手を取った。

逃げると言っても防空壕ぼうくうごうが近くにあるわけではない。個人宅や共同防空壕が盛んに作られ始めるのはこの空襲の後のことになる。近くに陸軍の造兵廠ぞうへいしょうがあるから、そこまで行けば防空壕があるが場所を良く知らなかったし、たとえ行きついても入れて貰える保証はない。

「地下室へ参りましょう」

お里が叫んだ。牟田の家にはワインを入れるために小さな地下室があった。とっくにワインなどは手に入らなくなって空になった地下室には二人位なら十分入れる。

敦子は頷くと勝手口への方へと走った。半地下のワイン室に体をすくめたまま小一時間ほど窮屈な思いをして座っていた。しばらくして警報は止んだが、爆撃が近くであったような気配はなかった。

「出てみます、わたくし・・・何かの間違いかもしれませんし」

お里が小さな声で敦子の耳にささやき、敦子は頷いた。だが

「わたしも・・・」

と言った敦子に厳しい表情で、

「お嬢様は暫く、ここにおられませ」

そう言うと唇に人差し指をあててお里は出ていった。

一人きりになってよく考えてみると、どうしてひそひそ声で話したのだろう、別に強盗が押し入ったわけじゃあるまいし、爆弾に声の大きさは関係ないだろうと思い至り、お里が真剣な表情で唇に手を当てた仕草も思い出せば出すほどおかしくて敦子はこらえきれずにくすくすと笑い始めた。空襲があったかも知れないというのに不真面目だわと思えば思うほど笑いがこみあげてきて止まらない。

暫くして漸く笑いが止まって心が落ち着くと、今度は別の考えが浮かんできた。咄嗟とっさに地下室に潜り込んではみたものの、よくよく考えてみたらこんな浅いつくりの地下室では、爆撃があったら家の下敷きになるに違いあるまい。万一火事が起きたら逆に出るに出られず蒸し焼きになってしまうであろう。

暫くして外から戻ってきたお里にそう言うと、お里は、

「ほんとうにそうでございますねぇ」

と笑ってから、

「防空壕を掘っていただけるように旦那様にお願いいたしましょう」

とこれは真剣な表情で言った。

「外はどうでした?」

敦子が尋ねると、

「ここらあたりは被害がなかったようです。でも、人の話では西の方と南の方向に煙が上がっているのが見えたそうですよ。南の方はきっと品川のあたりに違いないと言っておりました」

「まあ・・・」

「どこから飛んできたのでしょうね」

「・・・」

「ラジオを聞いてみましょう」

お里がそう言うと、二人は居間に戻った。牟田の家には真空管のラジオがあるが、真空管が一つ切れてしまって音が出ず今や無用の長物のままレースを纏って飾られてある。今では真空管一つ、手配するのも難しい。あればあったでみな軍用に徴用されてしまうのである。

それでは不便だろうと、以前、学生の一人が鉱石ラジオを作って牟田に進呈したのだったが、そう言えばあれは居なくなった加藤が作った物で出来上がった時、得意げに鳴らして見せた加藤の顔が敦子の脳裏に鮮やかに蘇った。

お里はそんな敦子の想いも知らずにせっせとラジオをいじっている。暫くすると不明瞭ふめいりょうな音声が流れてきた。

「ピー・・・本日・・ウ三時三十分・・・敵機は・・・高射砲によって撃退・・・方面に逃走した模様・・・ピー・・り返します。本日・・・十三時・・・」

とぎれとぎれに聞こえてきたのは撃退、逃走と勝ち誇ったような言葉だったが、よく考えてみれば、それ以前に国土に敵機の侵入を許したわけである。その前に撃退してもらわねば困るではないか。敦子とお里は目を見合わせた。

お里が窓を開け不安げな様子で外の空を覗いたが、お陰で部屋の温度が五度も下がった気がした。

交通網を寸断すんだんというほどの被害はなかったが、暫く電車や市電は運転を控えた。そのため敦子の母親が帰宅したのは夜更け近くだった。その直前には父からは帰れそうにないから大学に泊まるという電話があった。

漸く帰ってきた母も、一緒について行ったもう一人の女中も疲れ切った表情で家に入ってくるなり玄関に倒れ込むように腰かけた。

話を聞けば電車が動かないので、銀座から歩き始めたのだが、上野まで歩き、動き始めた市電を何本か待ってようやく乗れたとの事である。

「とうとう、東京まで・・・」

母は暫くしてから玄関から立ち上がって、居間まで来ると古いソファに腰をゆっくり下ろしながらため息をつくと敦子に目を遣った。

「おまえ、やっぱり疎開をしたらどうなの?お父様も心配なさるに違いないわ。知り合いの方が一家で軽井沢に移ったのよ。そこなら一人くらい預かってもいいって言ってくださっているのよ」

だが、敦子はそんなこと、今はよろしいでしょう、と答えたのである。それを聞くなり、

「なぜ、いう事を聞かないの。みんなお前を心配しているのよ」

よほど空襲が衝撃だったのか、或いは疲れの為か、母はいつも以上に声をたかぶらせて敦子をなじると腰を下ろしたばかりのソファから立ち上がりハンカチを顔に当てながら、寝室へ行ってしまった。

「お嬢様、奥様のお気持ちも少し考えなさってくださいませ」

母の後姿が消えると、お里は敦子を諭した。

「お嬢さまのことを本当に心配しておられるのですよ」

「分かっているわ。お里」

敦子は静かに答えた。

「もし、お父様があの兵器に関わっていらっしゃらなかったら、わたしも疎開していたでしょう。でも・・・お里。その兵器に乗られる方は必ず死ぬことが分かっているのよ。そんな兵器に乗る軍人さんたちはどんなお気持ちでしょう。親御さんたちはそれを知ったらどんなに悲しまれるでしょう。それを考えるとわたしは自分のために疎開などする気など、とてもなれないのです。でもね、お里。このことはお父様にもお母様にも言わないで頂戴ね。私がそんなことを考えていると知ったらお父様が悲しむわ」

お里はつと、敦子の顔を覗いた。敦子の大きな瞳の縁に涙が溜って今にもこぼれ落ちそうだった。大急ぎでたもとからハンカチを取り出すとお里はその涙を拭きとって、そっと敦子の細い手に自分の手を置いた。そして

「お嬢様はお優しいのですね。世の中がお嬢様みたいな人ばかりだったら、きっと戦争など起こりませんでしょうにね」

敦子の形の良い柔らかな耳に囁いたのだった。

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