第23話 1944年11月24日  東京 武蔵野


誰しもが忘れることができないという日がある。


晩秋ばんしゅうのその一日は朝から上空で強い風が吹いていた。空を見上げれば薄い雲が次々と千切れるように形を変えながら、寒々とした空を吹き飛んでいく様子がはっきりと見えた。地表ではそれほど風はなく本格的な寒さはまだだが、出勤の際にふとあたりを見回すとポケットに手を入れて歩く人が目立ってくる、そんな陽気だった。

昼頃には風がもたらした雲が空をおおい始めた。

高橋幸吉少年は三鷹にある大きな軍用工場の脇で、一人空を眺めていた。薄い雲厚い雲が折り重なるようにして空をはしり、時折陽が顔を覗かせる時にだけ微かな暖かさが感じられた。

青森から上京し、知り合いの伝手つてを頼って三鷹駅の近くの定食屋に少年が就職したのはつい去年の事である。三鷹には大きな軍需工場があり、その工場の職人目当ての定食屋だったが、どこから食材を調達して来るのか、潰れもせずにこぢんまりと店を開け続けていた。ただ食材は年を追うごとに貧相になり、値段は上がっていった。飯は、以前は白米だったのがやがて麦の茶色が混じり始め、年々その色は濃くなっていった。

それでも昼時になれば工場の職工たちで賑わった。

就職と言っても少年はまだ十を僅かに越えたばかりである。要は実家の口減らしという供給と、それまでの定食屋の雑用係が徴兵で取られた需要という二つの要素がたまたま重なっただけだった。

定食屋にとっては材料の余り物を食わせておけば捨てるよりはましという扱いで、決して待遇は良くはないが食いっぱぐれはない。食材の運搬や皿洗いは遊び盛りの少年には楽しくはなかったが故郷での農作業に比べればはるかに楽だった。

下北半島の付け根にある少年の生まれ故郷の冬は、雪はともかく雪の混じった嵐がつらい。そろそろ雪が降り始める頃だろう。そしてあと一月もすれば雪嵐が吹き始める。それに比べれば東京は十一月だというのに、ずっと暖かくて過ごしやすい。

だが、そんな暮らしは僅か一年で終わりを告げつつある。定食屋の主人が失火で店を焼き、火に巻かれて亡くなったのはつい三週間ほど前の十月の末であった。すぐに葬儀が手配され、近くの寺で葬儀が執り行われた。その末席に座らされ、斎場で焼かれた主人は一筋の煙となって青い空へ昇っていった。

その煙を見上げた時、棚引く一筋の雲の遥か彼方に一機の小さな機影に気付いて高橋少年は、

「あれ、あそこにひごぎが飛んでる・・・」

と指さした。隣にいた六つ年上の沢辺と言う調理人は高橋少年の指さした方を見たが、何度か目をすがめた後、

「うそこけ」

と言って軽くげんこつで少年の頭を叩いた。

うそでねぇ、と少年は口答えをしようとしたが、思い直して黙った。津軽弁がちっとも抜けないし、元来口下手なのである。話せば話すほどわかってもらえないし、強弁したらしたでからかいの種になる。

それにしてもあんなに高いところを飛ぶ飛行機など今まで見たことがない。なんだろう?

黙りこくった高橋少年が自分の拳骨に拗ねていると思ったのか、調理人は機嫌を取るように

「ところで高橋、お前これからどうするんだ?」

と尋ねてきた。少年には答えなどなかった。

「沢辺さんは・・・?」

問い返した少年に沢辺は鼻をふくらまして、

「俺は軍に志願するよ。どうせ徴兵されるんなら、志願の方が扱いだって良いに違いない。今まで徴兵されなかったのが俺の運だ」

と沢辺は偉そうに貧し気な運をひけらかした。

「そうけ・・・」

「お前、国へ帰るのか?」

少年は力なく首を振った。故郷へ帰っても両親は困ったような眼で自分を見るだけだろう。他の誰からかならともかく、親から厄介者を見るような目でみられるのは勘弁してほしかった。

「まあ、なぁ」

事情を察したのか沢辺は小さく首を振った。

店主の息子は兵隊に取られ、中支で戦死してしまっていた。料理人が沢辺一人ではどうにもならない。仕入れも主人が担当していたので主人の死と共に簡単に切られてしまった。

少年が働いていた定食屋は閉められ、少年の行き場を奥さんは探してくれていたが、料理の腕もない少年では行き先はなかなか見つからなかった。今のところ親切に置いてくれてはいるが、いつ追い出されるかもわからないと思うと少年は心細かった。

することがないまま家でぽつねんとしていた少年を見かねて、その日は奥さんが、どこか散歩に行っておいでと言って握り飯の入った小さな包みを手渡してくれたのである。

我慢して残しておいた包みの中にあった小さなおにぎりを手にぼんやりと、空の片隅を見遣った少年の目に、雲の隙間からあの葬儀の日見えたのと同じ機体が映ったように思えて、思わず少年は立ち上がった。一瞬見間違えかと思ったがそうではない。少年の目はあやまつことなく機影を捉えていた。

この間は一機だけだったが、今度は四機の編隊で白い煙を空に引いている。先だってより低空を飛んでいるのか機影はくっきりとしていた。

正確には先日彼が見たのはF13という飛行機で、今彼の上を飛んでいるのはB29である。しかし、F13はB29を偵察用に改造したもので機影は全く同じである。

その編隊から、青い空を過って何か黒いものが落ちてくるのを少年の眼ははっきりと捉えた。

あっと、声を上げる前に閃光せんこうが弾けた。体が浮き上がり、衝撃に骨がすべて砕けるような気がしたのが高橋少年の最期の記憶だった。爆音に驚いた無数の鳥たちが一斉に空に舞い上がった。

空襲警報が時をおかずに鳴り始めたが、少年の体の上には虚しく響いただけである。秋枯れのくさむらの根元に中身が何も入っていない小さな塩握りがぽっかりと割れて転がっていた。


この日始まった、日本への度重なる空襲はもはや空母を必要としなかった。

B29を開発し、マリアナ諸島を手に入れたアメリカ軍はいつでも日本本土襲撃が可能になっていたのである。

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