第11話 1944年10月19日 フィリピン マバラカット基地 Ⅲ

神風特別攻撃隊と名付けられた特別飛行隊は、四つの隊から構成された。

関はその一つ、敷島隊しきしまたいの隊長であるとともに攻撃隊の総隊長に任命された。敷島隊の他に大和隊やまとたい朝日隊あさひたい山桜隊やまざくらたいの計四隊に所属となった十三名は翌日、朝、明けやらぬうちにマバラカット基地の指揮所前に隊ごとに別れ、整列をしていた。大西は玉井を伴い、大股で隊列の前に歩んできた。

関は緊張と言うより病後のやつれで蒼黒い顔をしているが、視線はまっすぐ前を見ていた。関の後ろに並んでいる者たちは皆まだ関よりも若い。彼らは普段通り凛々りりしい姿で立ち並んでいる。大西は彼らの顔を一瞥してから一歩前に進むと、話し始めた。

「・・・この国難を乗りきる為にはもはや諸子しょしたちに頼むしかない。諸子はすでに神である。国を救うのは大臣でも大将でもない。まして自分でもない。それは神の化身である諸子だ」

そう言うと、大西は息を継いだ。これから口に出す言葉はもはや人間としてのそれではない、と大西は思っている。自然、口調は激しくなった。

「残念ながら諸子は自らその攻撃の結果を知ることはできないであろう。しかし、必ずやそれを見届けて、上聞じょうぶんに達するようにする。安心して出撃してくれたまえ」

「敬礼」

玉井が命令すると、靴の発するザザッと言う擦過音さっかおんと共に一斉に皆が敬礼した。先ほどまで雲に隠れていた朝日が、その時雲の切れ目から姿を現し、日差しがそこに立つ人々の長い影を地面に描き出した。鳥たちが一斉に木々から力強くさえずりだすのを関はぼんやりと聞いていた。

なぜ、こいつらは嬉しそうにしていやがるんだ?

水筒で水杯を交わし、次々に握手を求められ、感極まって歌を歌う奴までいる。 皆、明日命を失うかもしれないとは思えないほど明るく爽やかである。隊長の自分一人がどこかに取り残されたようだ。条件反射のように敬礼し、求められた握手を返し、歌ってくださいと言われれば、おう、と応えて歌っている自分は自分であり、自分でない。

それに・・・「若鷲わかわし」は飛行予科の歌ではないか。悪い歌ではないが、俺はお前たちと違って予科出身じゃない。まあ、航空隊は一緒になっちまったけどなぁ、と呟く心の奥底で自分が軍隊という組織の中で身動きの取れなくなった機械仕掛けの人形になったような思いがしている。以前からそう感じてはいたが、いざ特攻隊隊長に任じられ死に向かって一直線に進まねばならなくなると、その思いはいっそう募った。

式典が終わると、大和隊はセブに移動することになった。飛行隊を一つの基地に集約するのが危険なのは、ダバオの事件でも明らかである。

飛行長の中島が率いて大和隊は式に呼ばれなかった一人の予備学生と共にセブへと飛び立って行った。その予備学生に見覚えがあるような気がしたが、関の気持ちはどこかにはじけ飛んでしまっていて、思い出そうにも思い出せなかった。それを見送り、どこか気が抜けたような表情で宿舎へ戻ろうとした関の後ろから肩を叩いたものがいる。振り返ると指宿と横山だった。

「関、大丈夫か。顔色が悪いぞ」

指宿が覗き込むような視線を送ってきた。後ろで横山がやはり心配げな顔で関を見ていた。二人とも関の先任で、指宿は五期、横山は三期早く兵学校を卒業している。

「まだ腹の調子が治らなくて」

ぼそぼそとした声で応えた関に、

「もし、飛べないようならおれが代わってもいいぞ。どうせいつかは死ぬ身だ」

と指宿は言った。

「ありがとうございます。ですが、自分もいずれ死ぬ身ですしここで恥をかくのは忍びないです。どうか放念ください。それに・・・どうせ特攻に行くなら一号で行きたいと思います」

嫌だ、死にたくない。俺は生きて満里子に会いたい。母に会いたい、なぜそう言えないのだ?だが、関は努めて明るい表情を作ると、

「お申し出には本当に感謝いたします。自分が暗い顔をしていることが分かりました。隊長として、努めて明るく隊を指揮します。修正有難うございます」

と敬礼をした。

指宿は、うんそうか、と少し妙な顔をした。修正と言うのは海軍では生意気な若輩を鉄拳制裁するときに使われる言葉である。

「じゃあ、よろしく頼む。俺たちも後に続くよ」

指宿と横山が時折後ろを振り返りながら去っていくのを見送りつつ関はその姿に頭を下げた。


その日、先行して出撃した偵察機は敵艦隊を発見することができなかった。出撃命令が下りないまま、関たちは一日中滑走路のすぐそばで待機していた。

空の一点を見つめながら待ち続けている時、心はなぜか落ち着いていた。だが、結局その日の出撃はないと告げられた時、おりのように溜まっていた疲れと感情が掻きまわされるように体の血を駆け巡った。隊員の一人が呻きのようなため息を吐いた。夕陽を背に宿舎に戻っていく隊員たちの背中は幽鬼ゆうきのように揺らめいていた、

その夜、関は自分の部屋で三度目の遺書の書き直しを行っていた。いくら書いてみても、読み直すとまだ書き足りないところがあるような気がしたのだ。

しかし、なんど書き直しても自分の気持ちを手紙の中に籠めるのは難しい。太い溜息を一つつくと、関はもどかしい気持ちのまま行李の中からロケットを取り出し、中に忍ばせてあった満里子の写真を眺めた。

鎌倉の写真館で撮った写真の満里子は妙に澄ました顔で関を見つめてくる。写真館の主人は出来栄えがさほどと思わなかったのか、撮り直しましょうか、と申し出たのだが関はその写真をなぜかひどく気に入った。斜めから関の心を探るかのように見つめて来る満里子の視線が関の感情を湧き立たせる。

その時、こつこつとドアを叩く音がした。

「誰だ?」

誰何すいかした関の耳に、

「小野田です」

と言う声が返ってきた。

「小野田?」

怪訝そうに聞き返した関だったがすぐにその名前に思い当たった。従軍の報道班員だ。特攻の記事を書くために俺の談話を取りにでも来たのだろう。遺書を机にしまうと

「入れ」

そう言って関が扉を開けた。扉の外で、実直そうな男がなんと話しかけたらいいのか分からぬような表情をして廊下にぽつねんと立っていた。

関が黙って頷くと小野田は足音を忍ばせるように関の部屋に入ってきた。部屋を珍しいものでも見るように一瞥いちべつすると机の上に残されていたロケットに、

「おや、どなたの写真ですか?」

と言いながら手を伸ばした。

「まがるなっ」

突然怒鳴り、腰にあった拳銃に手を当てた関の姿に小野田は硬直した。何を言われたかさえ分からない。

まがるなって、なんだ?

怯えた目で手をそろそろと挙げる。関は机の上からさっとロケットを取り軍服のポケットにしまうと銃を手にしたままもう一度小野田を睨んだ。

小野田の手はさっきよりもう少し上にあがって、まるで万歳をしているように見えた。そう思った刹那せつな、関は笑いがこみあげてきた。

報道班員を脅してどうなるというのだ。怒鳴ったとたんに向こうの世界に跳んだ自分がもう一度こちらの世界へ戻ってきたような気がした。

「悪い、触るなっていう事だ。小野田君、これは私的なものだ、触るのは勘弁してくれ」

銃に手を置いた手を下げると、関は静かに言った。

「座り給え。談話を取りに来たのだろう?」

銃を卓の上におくと椅子をすすめた関は思い直したかのように

「いや、外に出ようか。ここでは話しにくいこともある」

と小野田を促して部屋から出た。

二人が隣り合って座ったのは近くを流れるバンバン河のほとりにある壊れかけのデッキであった。虫の音があちらこちらから聞こえてくる。乾季が近くなったせいか、風が汗を吹き乾かし、涼しい。マラリアを運ぶ蚊も風に季節を知ったのか、それとも風そのものが嫌いなのかどこかへ姿を隠していた。

居心地の悪そうなまま、乏しい灯の下でペンを滑らす小野田の耳に、訥々とつとうと話す関の声は次第に薄暗い教会の中で一音一音、爪弾つまびくオルガンの響きのように聞こえた。

「報道班員。俺はね。何も特攻しなくても零戦でもって五十番を敵空母に叩きつけることなんてできる、そう思っているんだよ。甲板でも良いが、横腹にぶつければ沈めることだってできる。そのために跳弾ちょうだんも研究してきたんだ」

五十番とは500キロ爆弾の事である。本来戦闘機である零戦に爆弾は載せない。乗せても八十キロが限度でそれを越えれば空中戦を演じる戦闘機としての性能はでない。500キロだと飛び立てるかどうかも怪しいものだ、と小野田は思ったが関の言葉に素直に頷いた。

「どうかね、日本も・・・。もう戦争は。俺みたいな操縦士に爆弾を抱えて突っ込めなんて。もうしまいだよな」

ぽつりと静寂が訪れる。星が一つ流れる。小野田のペンが止まった。

「そんなの操縦じゃないよな。爆弾を突っ込ませるための目のようなもんだ。特攻の命令というのは、お前たちは人じゃなくて、目になれっていうことなんだよ」

また、静寂が落ちる。再びペンが止まる。暫くすると関は顔を空にあげ、突然口調を変えて勇むように話し出した。

「まあな、でもそう言っても簡単じゃないぞ。戦闘機ってもんはなかなか落ちないようにできているんだ。それを敵艦目掛けて落とすんだから・・・簡単じゃない。人だってそうだ。死ぬようにできているんじゃない。そう作られていないものを無理やりっていうのは・・・大変なことなんだよ」

関は空を見上げたままである。雨季の終わりを告げるような驟雨しゅううが三時間前ほどに降ったせいか空は澄んで、降るほどの星が見えた。

「でもな、報道班員。俺はやるよ。陛下のためとか国のためじゃない。副長に言われたからでもない。日本が負けたら向こうさんは日本を占領する。そうしたら結婚したばかりの俺のKAがひどい目に合う。KAだけじゃない。日本の女みんなだ。報道班員に妻や恋人はいるか?姉妹はいるか?」

小野田は頷いた。KAというのは海軍の隠語で妻のことである。

「だろう?万一敵が上陸するようなことがあれば、報道班員の大切な人だってどんな目にあうかわからないんだぞ。だから俺は行くって決めた・・・って言っても、命じられた時にそう思ったわけじゃないんだ。よくよく考えてそう思うことにしたんだよ」

関は再び暫く黙ったままでいたが、突如闇を切り裂くような声を上げた。

「だらい奴らじゃ」

その時小野田はそれが何のことか分からなかった。後で関が愛媛の西条さいじょう出身だと知り、そして「だらい」が「ずるい」という意味の方言だと知ってもそれが誰のどういう事を思って放った言葉なのかは永遠に分からなかった。

談話を取り終え、宿舎に戻ると関が振り向いて笑顔を作り、

「さっきは怒鳴って済まなかったな。ところで悪いが、明日、俺の写真を一枚撮ってくれないか。KAに送りたいんだ」

と小野田に頼んだ。写真は専門ではないですが、わかりました引き受けましょう、と答えた小野田の手を握ると、関は手を差し出したままくんくんと空気を嗅ぐ仕草をして、

「カレーの匂いがするよな」

と言った。小野田も鼻を動かしたがカレーの匂いは感じなかった。

「そうですか?」

「うん」

関は真面目な顔で答えた。そして窓の外を見て何やら目を細め、

「じゃあ、報道班員。ここで」

と言うと再び宿舎の扉を開き出ていった。その後ろ姿を一瞬追おうかと小野田は思ったが、死を目前にした関にこれ以上纏まとわりつくのもどうかと躊躇った。原稿を書かねばならない、そう自分に言い聞かせ小野田は部屋に戻っていった。


「何をしているんだ」

関の誰何に煙草の先の赤い火種が激しく動いた。

「あ、隊長であられますか」

答えたのは敷島隊最年少の山下だった。中野や谷と同じ甲飛十期生の中で一つだけ年が若い。捨てられた子犬のような眼をしていやがる、と関は思った。昼間は司令や副長を前にあんなに快活に振舞っていたくせに。司令がマニラに戻る時には確かもう一度握手を求め感激していたのだが・・・。

「みんなも一緒か?」

ふてくされた少年のように指揮官所の前の方を指さすと山下は黙り込んだ。

「どうして一緒にいないんだ」

「あいつら俺のことをからかいやがるんです。お前はまだ母親の乳が恋しいころなのに不憫ふびんだとか言いやがるから」

「そうか、そりゃあ、言ったやつの方がそうなんだ。きっと母ちゃんの乳が恋しいんだ」

関の答えに山下の目が瞬いた。

「ですか・・・ね」

「そうじゃなけりゃ、そんなからかいを思いつくわけはない。どうした、眠れないのか」

「はい。みんなもそうみたいで、なんだか集まっちゃって」

無駄死にするくらいなら特攻をやらせろと凄んでみせた者たちもいざ特攻をする瞬間のことを思い描けば気持ちがすくむ。そんなものだ、と関は思った。

「行ってみよう」

山下を背に関は大股で指揮官所の裏へ歩いて行った。煙草の火種が蛍のようにあちこちで小さな光を放ち、関たちの足音に慌てたように大きく揺れたが、近寄ってきたのが関だと知ると、ほっとしたようなため息がどこからか漏れた。

「隊長もですか?」

「ああ」

関は短く答えると尋ねてきた谷の隣にどっかりと腰を下ろした。山下も少し間をおいて関の隣に座った。

「みんないるのか?」

関の問いに谷は首を振った。

「いえ、一人、自分の寝所で休んでいます。よほど肝が据わった奴なんでしょう」

「そうか。陛下のため、国のためと意気込んでいたものな」

そういう奴もいるんだな、そう呟くと暗がりに慣れ始めた目で男たちの顔を確かめた。

「しかし、どうしてこんなところで?」

「士官にはこんなところ見られたくないですからね」

士官という言い方がどこか古めかしいしゃちほこ張った風に聞こえた。海軍では下士官以下の者が士官と呼ぶとき、そこに厳密な階級組織に対する反感がそこはかとなく漂う時がある。

「気にすることはないさ。どうせ特攻するんだ。後のことなんて考えなくてもいいだろう」

「そういうわけにはいきません」

谷は軽くため息をついた。関はその肩を軽く叩いた。

「なんだ。俺はみんなもう振り切ったのかと思っていたよ。長官が来た時にはやけに嬉しそうだったじゃないか」

「そりゃあ、長官が直々に会いに来て手を握ってくれるなんてことは滅多にありませんからね。素直に嬉しかったですよ。俺を含めて、ここにいるのはまだガキ見たいなもんですから」

煙草を地面に投げ、軍靴で踏み潰すと谷は夜空を見上げた。

「きれいですね。星が」

関も空を見上げた。無数の星が零れるように空に瞬いている。

「なんですかね。こんな星空を見上げると・・・自分の人生ってなんだったのか、なんて思っちまいます」

照れた顔でそう言った谷の顔を見遣ると、

「谷飛曹はロマンチストなのだな」

と関は微笑んだ。

「いえ、自分は住職の息子ですからロマンチストとかではないですが・・・でもまあ、毎晩こんな星の見えるところで眠るならそれもいいかなって、ね」

「そうか、な」

関は山下を見遣った。相も変わらず口を尖らしたままだ。

「山下飛曹には何か思い残すことはないのか?」

「ないです」

ぶっきらぼうに前を見たまま山下は答えた。またもや母親のことを言い出されるのを警戒しているような口ぶりだった。

「女は、抱いたか?」

関の問いに、声も出さずに山下は頷いた。頬が僅かに染まったのを関は見逃さなかった。初心な奴だ・・・。

「日本でか?」

「ええ」

唇を突き出すようにしてだが、今度は言葉が返ってきた。

「そうか、それは良かった」

抱いたにしても一人か二人か、それが商売の女だったとしても山下はその女たちのことを鮮明に覚えていて、その女たちのために死を賭す気持ちになっているのかもしれない。

いや、やはり母親か・・・まだ、少年っぽさが抜けない山下が顔を伏せがちに黙って座っているのを見て、関は年の離れた弟を見ているように思った。その山下に

「さっきはからかって悪かったな」

谷が優し気な声で語り掛けたが、山下は少し顔を上げただけでじっと前を見据えたままだった。谷は、山下から視線を関に戻すと、

「関さんにこんなことを言っちゃ、お気の毒かもしれませんが、俺たち関さんが隊長になってくれて良かったって思っているんですよ」

「なぜだ?」

関が尋ねると谷はもう一本煙草を引き抜いて火をつけて、

「いや・・・俺たち特攻をタマチョウから言い渡された時・・・、タマチョウっていうのは副司令のことですけどね、集められたのが飛行団上りだけだったんでがっかりしたんですよ。結局、俺たちはそんな扱いかってね。でも兵学校上りの関さんが隊長になってくれて・・・。そうじゃなかったんだって。まあ、俺たちの気持ちって・・・そんなもんですよ。選んで貰えたのは嬉しいような気がするけど、俺たちだけかよって気持ちもあって」

と、言った。その言葉に煙草の火が幾つか頷くように揺れた。

「おう、そんな事か。そんな風に思ってくれるなら俺もやりがいがあるというもんだ。いくらでも隊長を引き受けてやる」

死に行くことへのもう一つの理由が関には見つかったような気がした。

「さあ、眠れないのは分かるが、寝ないと明日からの飛行に響くぞ。どうせやるならきっちりとやりたいじゃないか。眠れるものは帰って休め」

そう言って関が立ち上がると何人かの男がつられるように立ち上がった。山下も立ち上がったが、谷は腰を下ろしたままだった。

「自分はもう少し、星を眺めていきまっさ」

そう言った谷に頷いて肩をポンと一つ叩くと関は宿舎の方へ向かった。その後ろを何人かの男たちが追った。

部屋に戻ると関は書き終えてある一通目の遺書をもう一度読んでみた。

「父上様、母上様。西条の母上には・・・」

と始まる遺書に目を通しながら関は西条の田舎に一人で住んでいる母の姿を思い浮かべた。母はひたすら耐え忍んで生きてきた。実の父が死んだときも、再婚相手に暴力を振るわれた時も、日照りで不作の時も、大水で田が流された時も、悲しみをたたえた目でずっと耐えてきた。きっとそれは俺のためだったんだろう。

その俺が特攻で死んだと聞いても母はきっと耐えるだろう。耐えることに慣れてしまっているのだ。

何のために耐えるのかさえ忘れてしまった、腰の曲がり始めた母の姿を思い浮かべ太い溜息をつくと、関は妻に向けた遺書をもう一度書き始めた。今度は何とか書き終えることができそうな気がした。ほんのわずかな間の妻との暮らし、そこで感じたことをそのまま相手に伝えるのはなんと難しいことなのだろう。

こいつあ、飛行機を船にぶち当てるより難しいぞ、そう思いつつ関はペンで一文字一文字を刻んでいった。


敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花

簡易ベッドに身を投げ出すように寝ころがると薄汚れた天井を見ながら男は呟いた。

本居宣長も、まさか自分の歌が百五十年も後に特攻隊の名前に使われるとは思ってもいなかっただろう。久納良孚くのうこうふ中尉は微かに笑った。

敷島隊、大和隊・・・。

ずいぶんと悲壮な名前だ。大げさで悲壮なことを考える時、人は大概行き詰っているものだ。法政大学専法に入学したての自由を謳歌していた頃ならこんな隊名を聞いたら笑い出していたかもしれない。

そこそこ頭は良かったのに趣味や遊びにかまけすぎたせいで二浪しなんとか滑り込んだ大学だったが、徴兵逃れのように言われて甚だ面白くなかった。

国を憂う気持ち半分と、大空を翔る憧れ半分とで在学中にも拘わらず海軍予備航空団に応募すると、生まれ育った朝鮮でのやんちゃな幼少時代に鍛えた体のお陰か合格することができた。

航空団自体はその後解散の憂き目を見たが、航空団に所属していた者たちは海軍予備学生に優先して採用された。

そして気付けばいつの間にか、自分はこんな南方の島で零戦乗りになっている。勉強をたいしてしなかったおかげ目も悪くならず、体力に優れていたので飛行機乗りになれた訳だが、人の定めとはあざなえる縄の如し、今となってはそれが良かったのか悪かったのかはよくわからない。長兄のように農学でも学んでおけば今頃は日本で稲の研究でもしていたかもしれないのだが・・・。

父が早く亡くなったので好孚は母親に甘やかされて育った。甘やかされすぎるとクラゲのように骨のない人間になっちまうぞ、と兄たちに注意されたこともある。その代わり快活で裏面のない人柄が皆に好かれた。

だが、奔流に流されるように辿り着いたこの地で確かに自分は変わってしまった。とりわけ一月前、ニコラス飛行場から小隊長として僚機三機と共に出撃し、自分を除く列機全てを失ってからというものの久納の気が晴れることは一度もなかった。 

そして五日前・・・二六航戦の司令官有馬正文少将が皆の制止を振り払って襟章をむしり取って敵機動隊爆撃に飛び立った時、久納は直掩隊長として同行したのだった。

敵機動隊発見の報に目を吊り上げ立ちあがった少将の姿を見た時、あ、これは、と久納は思った。司令官が許可もなく先頭に立って爆撃に加わるなど聞いたことがない。

死ぬ覚悟なのだ。

有馬が思いつめていたのは想像にかたくない。

ダバオ誤報事件の際、有馬は航空機を敵の陸襲から避けるため撤退させつつセブの一か所に集めたのである。それが仇となって逆に敵からの空爆を受けることになった。散々苦労して集めた飛行機は四分の一に減ってしまっていた。

敵艦目掛けて突っ込んでいった有馬の乗る一式陸攻が目の前でオレンジ色の炎に包まれていくのを見た時久納は自分の脳の中の全てが書き換えられてしまったような思いがした。呆然自失のまま基地に戻りつき、そこで有馬の最期を語った時、久納は直掩をしていた自分も一緒に突っ込むべきであったと口走った。

その時それを聞いていた痩せぎすの男が自分をじろりと睨んだのに気づいたが、オレンジ色の閃光が焼き付いた心はそれを気にするゆとりがなかった。

だが報告を終えて出た久納を追いかけてきた男がいる。先ほどじろりと睨みつけてきた男だった。

「貴様、どの分際であんなことを言った?」

その男は久納の肩をつかむとその男は思い切り久納の横顔をひっぱたいた。思いがけないことに久能は反撃もしないまま相手を見つめた。

直掩ちょくえんは直掩の仕事がある。ただただ目の前のできごとに気を取られて突っ込むなんていう馬鹿がいるか。半端者め。だから予備はだめだというんだ」

激した口調で詰め寄ったのは鋭い目をした見知らぬ男であった。関行夫である。久納は蒼ざめた顔で唇を拭った。唇の端が切れて血が滲んでいた。

「すみません」

関の襟にある大尉の徽章きしょうを見て、久納は素直に頭を下げた。

「気が立っているのは分かる。だからと言って何を言ってもいいという訳ではない。覚えておけ」

少し口調を和らげ、久納の襟元を掴んでいた左手を放すと、関はもう一度久納を睨んでから背を向けて歩き去っていった。あの関が特攻隊の隊長となったのだ。

関のことを良くいうものは周りにはいなかった。霞ヶ浦でやたら威張り散らしていたとか、狷介けんかいとはああ云う性格の男を言うのだとか、どちらかというと評判は悪い。

殴られた時はやはりそうだったのか、と思ったのだけど、自分たちがセブへ飛び立つと聞いて、体の不調を圧してわざわざ見送りに出た時の関の表情はそれまでとどこか違っていた。何か得体のしれない物を懸命にみつめようとしている関の思いつめたような視線の先に何があるのか、その時は分からなかった。

セブに移動する命令が下りた時、久納はまだ特攻隊が編成されたことを知らされてはいなかった。平素とどこか違う飛行兵たちのたかぶりに何かがあるのは察せられたが、それがいったい何なのかはわからないままであった。

そしてセブに到着してから飛行長の中島から特攻のことを告げられた時、なぜ自分たちには知らされなかったのか、と憤慨した。

やっぱり俺たち予備は信頼されていないのだ。

だがそれはこっちも同じことである。そう思い直して中島の部屋に行くと

「予備学生だと言って私を特攻隊から除外することはないでしょうね」

と尋ねた。中島は少し驚いた顔をしながら頷き、

「君の乗る機体はちゃんとマバラカットから運んできているよ」

と答えた。中島の顔が緩んだのは特攻に応募する最初の予備学生が現れたからである。久納をセブに行く隊員の中に入れたのは玉井の人選であるが、さすが玉井は良く人を見ていると中島は感心した。玉井が久納をセブ行きに選んだのは有馬少将の直掩を久納がしたのを承知していたからであろう。あの人はそういうところを細かく見ている。

さすがだな・・・中島は呟いた。


その夜、セブ基地の夕食は普段よりずっと静かだった。確実な死という冷たい手が、いつの間にかひっそりと官舎の中に忍び込んでいたかのようである。

夕食一人静かに食べ終えると久納は団欒室だんらんしつにあるピアノの前に座った。軍人にしては細い、だが強靭な指から三連符の旋律が流れ始めた。ひそひそ話をしていた者たちが口を噤んだ。Beethoven Sonata quasi una Fantasia Op27-2・・・。幻想曲風ソナタ27番。「月光」とも呼ばれる曲の音色が団欒室の隅々に沁み込むように響き渡っていった。

その標題である清かな月の光は窓の外に冴えわたっていて、まるで戦場とは無縁の場所のようだった。・・・どこか遠い見知らぬ国の墓場のような景色であった。

ピアノを弾き終え部屋に戻ると、ベッドに横たわり久納は本居宣長の歌から取った隊の名をもう一度思い浮かべた。自分の指揮する隊の名は大和隊である。そういえば・・・。

敷島、朝日、大和と言えば煙草の銘柄である。大和は一番安いやつじゃないか、と苦笑いをした。その苦笑いの向こう側に一月前死んでいった同僚の矢野川、八十川、街道の顔が見えた。皆、自分と共に訓練し、戦ってきた男たちである。そして有馬少将の決然とした顔、オレンジ色の閃光、操縦している自分の機体を襲った激しい爆風。

「俺もすぐにそっちに行くよ」

誰にともなく呟くと久納は床に就き、目を瞑った。ちょうどマバラカットで関が山下に話しかけていた時刻である。

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