第10話 1944年10月19日 フィリピン マバラカット基地 Ⅱ

「しようもない」

無意識に呟いた大西は、ふと視線を感じて横を見た。副官の門司もじが心配そうに、独り言を呟いた自分を覗き込んでいる。

「何でもない。戦局のことを考えていただけだ」

そう言って尻を動かし座わり直したが、何を思ったのか突如大西は副官に向き直ると

「おい。俺はこれから決死の攻撃を命ずるぞ」

と言った。心の中に住み着いた鬼のことは触れなかった。門司は、はぁ、と笑みを浮かべて答えた。沈黙を続けていた大西が言葉を発したのが嬉しいようだった。大西の言葉が特攻を指すのだとは、この時若い善良な元主計長は思ってもいない。

車は黄昏たそがれに染まる古い街道を大きく揺れながら進んでいく。

街道筋にある二階建て、石造りの西洋風の建物が一航艦所属201司令部の仮庁舎であった。衛兵を通して面会を申し込んだ大西たちを迎えたのは指宿いぶすきという名の大尉である。突然の一航艦の長官の訪問に驚き、

「司令はマニラに行っておるはずですが」

と首を傾げた。司令は長官に会いに行ったのだと聞いていたのである。

「そうか・・・。副司令はおられるか?」

大西は尋ねた。

「西飛行場に行っている筈ですが・・・」

「分かった。ではそこに行こう」

飛行場と言っても土地をならした滑走路以外は野原とさして変わりがあるわけではない。目印一つない道をひたすら車が走っていく。

「あ、行き過ぎた」

同乗していた指宿が失策に頭を抱えたが、大西は怒るわけでもなく車を戻すように命じた。道に迷いつつ、ようやく辿り着いた時には太陽は地平線の上に僅かに顔を残すだけであった。

その日一日中晴れたせいで土埃つちぼこりの舞い立つ飛行場で大西たちを迎えた玉井副司令は、うちうちで相談したい事があるという大西の言葉にふと嫌な予感を抱いた。

「少しお待ちください。まだ戻っていない飛行機がありますので」

大西は頷くと外に置いてあった椅子に腰を下ろした。閑散とした飛行場には飛行機の姿がない。降りてくればすぐに掩体壕えんたいごうに入れてしまうのも理由の一つだが、そもそも数がないのである。

やがて最後の飛行機が日の落ちる寸前に姿を現し、危なっかしい様子で着陸した。日が落ちれば目視で着陸は難しい。安全に着陸できるぎりぎりのタイミングであった。玉井は大西が操縦士の技量に何か小言をいうのではないかと不安げに上司の顔を覗き見たが大西は銅像のように身動みじろぎもせずに遠くを見つめていた。

その飛行機が掩体壕に入るのを見届けると飛行場に残っていた者たちは大西の車と部隊の車に分乗して仮庁舎に戻った。一台のおんぼろジープだけは操縦士を乗せるために残った。

玉井は大西の車に同乗した。車の中で大西は一言も発さず、腕を組んだまま目を閉じている。その横顔をいくら見ても玉井には大西の来訪理由が分からなかったが、長官の沈黙が次第に心にのしかかってきた。

宿舎に戻った玉井はひとあたり見回したが、長官と話をできるような空間は士官室を兼ねる食堂しか思い当たらなかった。閉鎖しても良いのだがどうしても人目がある。長官がわざわざやってきたのは機密の話であろう。だとすると思いもかけない事故が生じないとも限らない。

「ベランダにしよう」

二階のバルコニーには雨除あめよけもある。季節は晩秋だがこの地は夜でも寒いというほどでもない。何よりそこならば人目に付きにくく、声を多少あげても人に聴かれる心配がなかった。


ビールの小瓶に突っ込まれたマニラ麻の先に燈った灯がジジジと、時折音を立てては揺れていた。椰子油の甘ったるい芳香があたりに漂っている。バルコニーにはどんよりとした空気を揺らす風の一そよぎもない。


六人の男の顔がその揺れる灯に悪鬼のように浮かび上がっている。ぎょろりと大きな目玉をした一人の男が周りを見回した。男の左隣に座っているのは201空副長の玉井浅一たまいあさいち、右隣は参謀の猪口力平いのぐちりきへいである。向かいに背筋をぴんと伸ばして座っているのは飛行隊長の指宿、横山であった。二人の顔には緊張に加えて、深い困惑の色がある。

もう一人第二十六航空戦隊から呼ばれた吉岡忠一よしおかただかずは対照的に無表情に口を真一文字に引き結んだまま座っていた。吉岡は二十六航戦の首席参謀であり、有馬少将を失った戦隊で先任を務めている。

「どうだ?」

大西はもう一度、低い声で尋ねたが、やはり答えは返ってこなかった。仕方ない、というように大西はもう一度同じことを繰り返した。

「捷号作戦を成功させるには、敵空母を使えないようにしなければならん。そのためには戦闘機に250キロ爆弾を抱えさせて突っ込ませるしかない。そうは思わないかね?ほかに方法があるというならば聞かせて欲しい」

十月十七日、アメリカ軍のスルアン島への侵攻によって自動的に発動された捷号作戦に基づき、間もなく味方艦隊はレイテの沖に現れる。それは現地の司令部の者たちも身に染みて分かっている。それを守るのが自分たちの仕事であるという事も腹の底から理解している。そのためには死をして、という覚悟もできているつもりであった。

しかし・・・。目の前の大西は一航艦のパイロットたちの腕を見た上で特攻以外にないと判断したのだと言った。それも念のためとはいえ東京で軍令部の了解を取ってきたという。つまり大西の命令を止める者はない。死を賭してという覚悟と、死んで来いと言う命令はいま正に噛み合わんとしているのだ。


だが・・・それは特攻を、と現地の兵が自分たちで唱えていたのとは、おのずと意味が異なっている。

それは死への命令である。

同時に一同は新任の司令長官に叱責されているとも感じていた。君たちの戦力と部下の腕では通常の爆撃で味方艦隊を護衛するようなことはまずできまい、そう責められているような気がした。

「どうかね、二十五番で空母を沈められるかね」

沈黙に耐えかねて玉井が吉岡に尋ねた。201空の副長である玉井は、二十五番と呼ばれる250キロ爆弾で突っ込んだとしても空母を沈めることができないであろうことを当然承知している。二つ命中させても、屠ることが出来るのはせいぜい駆逐艦サイズであろう。

「沈めるのは無理でしょう。ですが艦上機の発着をできなくするのは可能ですな」

吉岡参謀は答えた。

玉井が求めた答えではない。できれば、戦闘機で海上にある艦に突入するのは難しい、慎重にした方が良い、という答えを聞きたかったのだ。心の裡で舌打ちをしたが、表情には出さずにあたりを見回すと玉井は最後に残されていた逃げを打った。

「マニラにおられる山本司令長のご意見もうかがいませんと」

絞り出すような声で発した玉井副長の言葉に覆いかぶせるように大西は、

「司令長の了解は事前に電話で得ている。司令長は、具体的なことを副長と詰めてくれと言っておった」

そう言うと玉井を仁王のような眼で睨みつけた。

山本栄201空司令長は大西に呼ばれマニラに向かったのだが出発が遅れたため、約束の時間に辿り着けなかった。業を煮やした大西は自分からクラーク基地へと向かったので行き違ってしまったのである。慌てて戻ろうとした山本は整備不良による飛行機の不時着に遭って足を骨折しマニラに足止めを食っていると無線で報告があった。同乗の中島飛行長も一緒である。

とはいえ司令長は201空の全てに断を下す人物で、飛行長はそれを具体的に補佐する人物である。そのどちらもが、今いないのだ。何もこんな時に、と玉井は思った。ここにいるのは本来そんな大事を決めるメンバーではないのだ。

それに・・・と、玉井は思っている。

作戦は参謀の立てるものである。大西は小田原参謀長らと語らって来たのであろうか?もしそうならば、一航艦の参謀が一人として一緒にやって来ていないのはなぜだ?

それに、もし司令長が了解している、あとは副指令である自分と相談せよというならこっちにも何らかの連絡があってもよい筈ではないか。考えれば考えるほど疑問はふつふつと沸き上がってくる。

もしかして自分が特攻論者と伝え聞いて、司令長ではなく自分に先に会いに来たのではないだろうかという疑念が玉井の心の中にきざしていた。

だが、自分は本気で特攻を唱えたわけではない。若い者たちの心の裡を忖度して勇ましいことを言っていただけである。特攻しかない、と主張する者たちの大半はそう言葉に出すことで自分の中にある情熱と勇気と、同じだけの量の怯えを吐き出しているのに違いあるまい。

本当に特攻をする気ならば黙って敵機、敵艦に飛び掛かっていくものだと玉井は信じていた。あの有馬少将と同じように・・・。お前たちにはその勇気はある、わしには分かっているよ、と隊員の気持ちを汲み取っていただけなのだ。そうしているのは何も自分だけではない。

だが、大西はそんな揺れる玉井の心を見透かしたかのように、

「決断の時は今しかないのだ。それとも何か?君らは帝国艦隊が敵空母から飛び立つ爆撃機に槍衾やりぶすまのようにされてよいと思っているのか?」

そう言うと再び一同を見渡した。その一言で玉井は腹を決めざるを得なかった。大西に

「すいません、決める前に少しこいつと話させてください」

そう言うと指宿を連れ出し自分の部屋へ籠った。

「どう思う?」

玉井は指宿に顔を近づけ小声で尋ねた。

「どうって・・・。あれは質問なのですかね・・・?」

「長官は決意されている。そう思ったか」

指宿は強く頷いた。

「そうだ・・よな」

となると手塩にかけてきた甲飛十期生たちを始め、虎の子の飛行科生を差し出さざるをえまい。指宿も同じ考えであった。

「とはいえ・・・。あいつら、勇ましいことを言っていますが、まだ子供に毛の生えたような奴らですからねぇ」

と指宿は呟いた。その通りだと玉井も思う。だが、無駄死にするくらいなら特攻をすべきだと儂が唱えたとき、彼らは熱い目で自分を見ていたではないか。彼らが儂の決定を拒否することはあるまい。そうも思えた。今となってはそちらに賭けるしかあるまい・・・。

「いいな」

念を押した玉井に指宿はゆっくりと頷いた。大西たちの待つ部屋に戻ると、玉井は腹の底から声をだした。

「わかりました。仰るようにいたします」

「良く覚悟された。私も賛成です」

猪口が呟き、吉岡は黙って頷いた。その瞬間、大西に向かい合っていた五人は今までと異なる世界へとするりと入り込んだ。

一度覚悟すると、そこに何かの境目があったことさえ分からなくなる。皇国の興廃という大事の中で、その境目は小川のように飛び越えられるものだった。その小川がどんなに深くあったとしても・・・である。

どうせ、死ぬのだ、と思う。ならば敵を屠ってから死なせてやりたい。それがせめてもの慰めになろう。死への命令はいつの間にか兵への思いやりにすり替わった。

議論を終えると六人はベランダを後にして食堂に降り、用意されたカレーを黙々と食べた。大西は食べ終えると

「人選は任せる。後で教えてくれ」

玉井の肩に軽く手を触れると大西は席を立った。その後ろ姿を見送った玉井は、太い息を一つすると

「おい、指宿、横山。ちょっと来てくれ」

と二人を手招いた。重い椅子が床にこすれる嫌な音がした。吉岡が驚いたように音のした方に目を向けたが玉井は気にも留めなかった。

三人は手分けをして飛行科生たちだけを呼びつけ、絶対に他に漏らすなと注意を与えると、浅井はおもむろに大西から提案された特攻の話を始めた。

話を聞き終えた若者たちは戸惑った表情をしたまま動かなかった。

だいたい長官と言われてもまだ一度も会ったこともない新任の長官である。前任の寺岡ならば、人当たりのいい好々爺こうこうやであることを知っている。むしろ、もし寺岡が特攻をせよと言ったというなら、そこまでこの人は追い詰められたのかと心で泣いて率先して手を上げる者もいたであろう。

しかし・・・若者たちは躊躇っていた。新任の長官はいったい何を考えているのだろう?着任するなり、俺たちに死んでこいと言うのは・・・それは軍指導部からの命令なのであろうか?

「どうだ、志願する者はおらんのか」

声を荒げた玉井に、思わず手を上げた者がいる。互いにさっと目を見交わし、全員が手を上げた。それは決断と言うより反射の動きであった。それを見て玉井は莞爾かんじと笑みを浮かべた。

手を上げざるを得ない状況を自分たちが作ったとは玉井は思っていない。だが大西が自分にやったのと同じことを、そのまま玉井は隊員たちに押し付けたのである。

しかし隊員たちには玉井たちと大きな違いがあった。手を上げた隊員たちは死への宣告書に自ら署名をしたのだ。追い詰められたとはいえ、玉井は死の署名をしたわけではない。

玉井たちが出ていくと全員が押し黙ったまま、手を上げた意味を心で反芻はんすうしながら立ち尽くしていた。

なぜ俺たちなのだろう?

司令は他に話すなと命令した。それは特攻と言う名誉を自分たちに与えてくれたという誇りであるような気もしたが、自分たちだけが死を与えられたではないかという疑いを抱かせるものでもあった。

ぼそりと

「どういう順番なのかな・・・」

一人が呟いた。その声に振り向いた者もいたが、すぐに無言で俯きながら足早に部屋から去っていった。ぽつりとつぶやいた男は最後まで部屋に残っていたが、皆が去った部屋をうすら寒そうに一度見回すと身を震わせ、そそくさと立ち去った。それがここにいた全員がまもなくこの世から消えるのだという情景を表しているように思えて、いたたまれなくなったのである。


猪口と吉岡は三人が帰ってくるのをずっと食堂で待っていた。

「特攻に赴く隊員が決まりました」

手にしたリストを机の上に投げ出すようにして椅子に倒れ込むと、玉井は付き従っている二人を振り向いた。喉がひどく乾いていた。

「茶をくれんかな」

掠れたその声に玉井の横に座ろうとしていた横山が、腰を浮かせ茶をれに立った。従兵は一人を残し既に寝かしつけて彼ら以外、誰も部屋にはいない。残った従兵は奥の部屋で控えているが呼ぶことはしなかった。

なるべくこの決定に近づくものは少ない方が良い・・・。玉井は横目で黙々と茶を淹れている横山を見ながらそう思った。おれは今、どんな顔をしているだろう?鬼か、悪魔か?


本土からしか補給されない緑茶は貴重品である。やがて茶碗が目の前に置かれた。横山の淹れたその茶を、音を立てて啜りながら玉井は集めた隊員の様子を思い起こしていた。最初の反応は想像よりはるかに鈍かった。他に漏らすな、と言った時には怪訝そうな顔をする者たちさえいた。

漏洩を注意したのは手塩にかけた飛行兵たちは制御できるだろうが、万一予備学生たちに話が漏れれば理屈屋の中に反対する者が出てくるかもしれないと恐れたからである。始める前に反対が出るのとそうでないのとでは士気・勢いがだいぶ違う。反対や疑問が出ぬに越したことはない。

そう思ったのは実は玉井自身にも201空の全員を納得させる自信がなかったからである。隊員の反応を見る限り、その判断は正しかった。もし、あそこに予備学生が混じっていたら一悶着ひともんちゃく起こったに違いあるまい。

出来上がったリストに猪口たちは目を通し、頷いた。

「これでいいでしょう。全員本人から申し出があったという事でよろしいですな」

猪口の言葉に玉井と指宿、横山は目を見合わせた。玉井が頷き、残りの二人も従った。

「予備はどうしますか?」

次の質問に玉井は凝った肩をごきりと音を立てて回した。

「予備はいずれ本人から申し出た者から、と考えます」

玉井の言葉に皆が頷いた。

「後は隊長ですな」

吉岡が言った。玉井は目を瞬かせて頷いた。濃い疲労の色がその眼に滲んでいる。

「それはお任せしましょう。そろそろ私は休ませてもらおう」

吉岡はそういうと席を立った。二十六航戦司令の役目としてはここまでで十分と思ったのだろう。猪口はねぎらいの言葉を吉岡の背中にかけ、茶碗の底に残った茶を名残惜しそうに飲み干すと立ち上がった。

「これから、隊長を決めてきますよ」

その言葉に再び立ち上がった部下二人と共に食堂を出ていく玉井に向かって、顔を動かさないまま猪口が声を掛けた。

「最初が肝心ですぞ。隊長には・・・必ず江田島・・・兵学校出を」

声に玉井は振り向き、目で頷いた。


兵学校とは広島県安芸郡江田島町にある海軍兵学校の事である。今は国立がん研究センターとなっている築地の旧跡地から移転してから五十六年を経た当時、移転先となった「江田島」と言えば誰にとっても即ち兵学校を意味していた。江田島は日本海軍の聖地であり心の拠り所でもある。

しかし兵学校の卒業生がそれを心の拠り所とするあまり、そこを卒業した者とそうでない者との軋轢あつれきが生みだされたのも事実である。

例えば飛行機乗りは海軍兵学校を卒業した者、飛行科生、及び任用試験に通った下士官が主だったが、戦局の悪化に伴い徴兵免除の資格を失った兵科予備学生、予備生徒の比率が急激に増えていた。

前者には飛行時間が千時間を遥かに超えるつわものもいる。それに反しそれまで大学に在籍していた兵科予備学生は、せいぜい百時間程度の飛行時間しか持たない促成栽培である。予備生徒は更に少ないのがふつうである。空母から飛び立つのがやっと、下りるのは基地へという者も少なくない。空母への着地ができないのである。貴重な飛行機を壊されるよりは、と上官もそうした行為も黙認せざるを得ない。

エリート意識の強い兵学校卒たちはそんな彼らを内心馬鹿にしていたばかりでなく、行動にもちょくちょく表した。

海軍では兵学校卒と下士官以下は全く違うという英国式の教育が浸透している。兵学校卒は国を守る選良であり、下士官以下はその仕組みに無条件に従うというシステムである。

差別と言えば差別であるが、その代わり英国式に選良は選良としての品位と能力を求められるのが前提である。下士官に対しては何とかそのシステムは機能した。下士官の方も納得ずくであったからである。

しかし予備学生に対してはそうではなかった。本来なら職業軍人でもないのに前線に配置される予備学生を馬鹿にすることなど許される筈もないのだが、血気盛んな若い兵学校卒にそこまでのおもんばかりはない。

大学上りがいきなり尉官になるというのに抵抗があった。ならば上位の佐官・将官が諫めねばならないのだが、彼らもシステムの外にいた予備学生をどう扱うべきか分からなかった。

それは確立したシステムの埒外にあった予備学生には納得しがたいものであった。彼らにしてみれば、望んでもいないのに戦場に引きずり出された上に馬鹿にされるのではたまったものでない。そもそもあんたたち職業軍人が戦争に負けているからだろうという反発心も心の底にないとは言えない。それを愛国心という言葉で懸命に隠しているのである。

だが、海軍兵学校、陸軍士官学校を問わず兵学校の卒業者たちは、本来学生は徴兵されるべきところを免除されただけなのだから、国の危機にあたって軍のシステムに組み込まれるのは当然だと考えている。

当然、自分たちの方が上であると思っているし、それが態度に出る。国の危難にあたって互いに皆が皆、強くそう主張するわけではないが、心情の底流に流れている思いの僅かな差は互いの行動に微妙に隙間を作っていく。その隙間を埋めるように「お国のため」という建前が姿を現すので一応纏まりはするのだが、隙間はより前線に近ければ近いほど顔を現した。

そしてそのギャップは、エリート意識の強い海軍兵学校出との間の方が陸軍士官学校出の者たちとの間より、より大きかったようである。

大西にしても玉井にしても猪口にしても海軍兵学校卒である。猪口が兵学校卒を選べと言い、玉井が頷いたのは特攻の採用に当たって兵学校卒が先陣を切るべきだという責任感と同時にエリート意識の裏返しでもあった。


大西たちが会議を開いたまさにその建物の二階でベッドに横たわっていた関行夫せきゆきおもその海軍兵学校の一人、七十期卒であった。

台湾からフィリピンに来て一月も立たぬうちにアメーバ赤痢にかかり二日間寝込んでいた関はちょうどその頃、階下から聞こえてくるざわめきに目を覚まし、なんだ?と呟いていた。消灯時間だというのに、何を騒いでやがる。やかましい・・・。

だが、病からえ切っていない男には床を離れるまでの気力は湧いてこなかった。虚ろに天井を眺めると、月明かりに照らされた天井の隅に蝟集いしゅうしたヤモリが五、六匹、奇妙な文様もんようを作っているように見えた。目を凝らすと髑髏どくろのような形にも見える。縁起の悪い模様に舌打ちすると、関は再び重たげにまぶたを閉じた。


「零戦ですよね」

関が再び眠りに落ちた部屋の真下では、玉井に向かって指宿が確かめていた。

「もちろんだ」

玉井は返事をした。戦闘機団である空二〇一に話がきた以上、使うべき機材が零戦であることは間違いない。

空二〇一が保有する僅か三十機余りの零戦以外には艦爆用の天山が十二機、あとは爆撃機の銀河と一式陸攻が数機あるのみであった。一航艦には、他に空七六一があった。この部隊はマリアナ・ペリリューの戦いで機体の殆どを損失したが、7月に加わった五〇一部隊の彗星・及びそれに付属する零戦があった。しかし大西が着任する寸前に再び全機喪失した。もし残っていたら彗星の方が選ばれたかもしれないが・・・と考え玉井は目を瞑った。


艦攻の天山は数が揃わないし、戦闘能力は低く脚も決して早い方ではない。銀河は新鋭の爆撃機だ。できるなら使いたくない。一式陸攻は被弾すると炎上しやすい構造でとても特攻機としては使えぬ。8人が搭乗できるこの飛行機は万一、この地から脱出せねばならぬときに取っておく必要がある。引き算で残るのは零戦しかない。

だが、指宿が改めて尋ねたのも所以ゆえんがないわけではない。

零戦は空中戦用戦闘機であって、急降下爆撃して艦船を仕留める艦爆機ではない。艦爆機と戦闘機では求められる性能が違うのだ。敵の新型戦闘機に対して相対的に性能が衰えた零戦を爆撃機として使うという考えはその前から既に存在していた。

反跳はんちょう爆撃という、爆弾を海面でスキップさせて戦艦の横腹を狙うものである。海面近くから爆弾を投下し急上昇をする飛び方は困難であるが、理にかなっている。零戦は戦闘機である以上、上昇性能は確保されている。それに船の横腹を狙えば沈没する可能性は高い。甲板より下は船の泣き所である。技能的には難しい攻撃法であるが、機の性能の観点からは合理的ではあった。

だが戦闘機で上方から艦船に突っ込む訓練などは誰もしたことがないし、そもそも訓練自体が無意味かつ無理である。

「艦爆の経験がない奴らが降下に耐えられますかね」

艦爆機と戦闘機は基本的に乗り手が違う。それまでしてきた訓練ももちろん違う。複数の飛行機を乗りこなすことができるものもいるにはいるが、職業軍人であっても数少ない。予備には一人としていない。

急降下に伴う重力は時に操縦士を失神させかねない。戦闘機の機首は艦爆機に比べるとどうしても浮き上がる。特攻を成功させるためには桿を必死に抑えこまなくてはならないだろう。

「まあ、敵さんもこちらが戦闘機である以上、空中戦だと思うだろう。それを爆装させて船に突っ込むわけだから成功確率は高いんじゃないか」

玉井の言葉に指宿も横山も頷いたが、玉井以外の二人は更に別のことを考えていた。

指宿も横山の戦闘機乗りである。特攻隊員に戦闘機乗りが指名される以上、自分たちのどちらか、あるいは両方に隊長となれと声がかかることも覚悟せざるを得ない。指名されれば部下の手前、逃げることはできないであろう。二人はどちらも海軍兵学校の卒業生である。猪口が放った、兵学校卒が良いなという言葉が二人の心に重くのしかかっていた。そしてこの攻撃は成功させることが必須である。自然と気持ちが重くなるのは仕方ない。

「菅野がおればなあ」

呟くように放った玉井の言葉はそこにいる誰もが思っていたことである。菅野直大尉は戦闘機をもって高度上空から急降下しながら敵の大型爆撃機を攻撃するという突拍子もない戦法を考えた男である。

急降下を伴うその戦法は特攻に通じるものがあった。

菅野はその技量をもって敵艦を確実に屠ることができる唯一の操縦士に思えたが、肝心のその男は群馬太田にある中島飛行機製作所に零戦を受け取りに行って留守であった。

「となると・・・関しかおらんな」

玉井が口にした、意外な名前に指宿と横山は思わず顔を見合わせた。関行夫大尉はまだ当地にやってきて一月足らず、隊員との意思疎通も途上である。それを隊長に据えて、特攻がうまくいくものだろうか・・・?

だが指宿も横山もその疑念を口にすることはなかった。その瞬間彼らは紙一重で見送る側に回ったのである。

よく考えれば関はそもそも艦爆をやってきた男である。戦闘機の操縦には不慣れとは言え、急降下には慣れているはずだ。艦爆の経験がある数少ない戦闘機乗りと言えないこともない。

特攻は必ず成功してもらわねばならぬ攻撃である。特に最初の一撃は外すわけにはいかない。先頭機の後を追えば後続機も突っ込むことができるだろう。その意味で艦爆の経験のある関が先頭に立つのは心強い。

関の他に平田分隊長を考えないでもなかったが、平田の飛行機はなぜか故障する。疑うわけではないが、特攻隊の隊長機が故障で戻ってくるというような無様なことはしたくない。

指宿と横山に関しては、玉井ははなから外して考えていた。特攻を命じる者もまた必要である。自分や中島飛行長が万一戦死するようなことがあったら特攻はこの二人に任せるしかあるまい。大西の激しい言葉を聞いたものでしか特攻を命じることはできぬであろう。


「関大尉、入ります」

ノックに続いた太い声に、関は、今度ははっきりと目を覚ました。階下のざわめきはまだ収まっていない。何が起こっているんだろう?

「入れ」

そう言ってベッドから半身を起こし扉が開くのを見ると、玉井中佐付きの従卒がしょくを手に廊下に立ったまま、

「中佐がお呼びです」

と告げた。

「なにごとだ」

不機嫌そうな関の呟きに答えはなかった。しかたなしに

「ちょっと待ってろ」

というと関はベッドの下に畳んで置いてある第三種軍装を身に着けた。素早く、と行きたいところだが二日間何も口にしていないので少し体がよろめいた。軍医が明日からは重湯おもゆを食べてください、と言っていたのが脳裏を過った。

従卒が薄暗い足元を照らす灯りに付いて降りていく階段にカレーの匂いが微かに漂っていた。先を歩く従卒が階下に降り立つと、ミシリと床の鳴る音がした。

関が姿を現した時、玉井と一緒に座っていたのは猪口、指宿、横山であった。強い目で自分を見つめてくる玉井・猪口と視線を向けてこない指宿・横山を見、妙な雰囲気だなと思いながら関は敬礼をした。玉井が指宿・横山に目で合図をすると二人は静かに出ていった。

「関大尉、かけたまえ」

最上長の猪口が玉井の横に空いている席を指さした。なんだか悪い予感がする、そう感じつつ関は命じられた通り玉井の隣に腰かけた。

「では中佐、話してくれたまえ」

猪口の言葉に玉井が一つ咳払いをすると、おもむろに口を開いた。

「本日、大西長官がこの基地を訪問された。そこで・・・」


話し終えた玉井は相手に答えを急かしはしなかった。長く起居を共にしてきた兵と違って、未だ気心も通じ合っているとはいえない男である。関の顔をじっと見守ったまま静かに答えを待っていた。

耳にじじじ、と音が響いた一瞬、関は忙しなく目を瞬かせた。その音がビール瓶製の椰子油ランプの炎が上げた音と知ると、関はそのまま両手で頭を抱え、机に肘をついた。

暫くその様子を見守っていたが、猪口が目で早くしろと合図してくるので玉井は仕方なく関の肩に手を置いて尋ねた。

「どうだね、引き受けてくれるか?」

声は優しく、少し涙ぐんでいるようであった。だが、その息から濃いカレーの匂いがした。

カレーを食っていたのはこいつらか?こいつらは・・・カレーを食いながら俺に決めたのか?肩に置かれた手を振り払いたい、と激発しかかった感情を関は懸命に堪えた。

「一晩・・・考えさせていただけますか」

くぐもるような声で答えた関に、玉井は猪口をちらりと見遣った。猪口は口をへの字に結び宙を見据えたままである。関の肩に手を置いたまま玉井は、

「そうか。だが一晩考えて嫌だという事になれば編成が遅れる。栗田中将の艦隊は もう眼前に迫っており、長官は明後日にはマニラに戻らねばならない。それまでにすべて決めねばならないんだ。分かるな?」

と話をつづけた。しばし沈黙が男たちの間を支配した。玉井は関を見つめ、猪口は宙を睨んだままである。

突然、関の肩がおこりのように震え、玉井は電撃をうけたように手を放した。

「承知しました」

歯ぎしりのように迸り出た関の言葉に、

「そうか。やってくれるか」

顔をあげた玉井の瞳に、満足そうに笑みを浮かた猪口の表情が映った。


気付かないうちに降り始めていた雨が強くなり、窓を激しく叩いていた。

どうして俺は承知したと答えたのだろう。そう思いつつ、その場で関は遺書を書き始めたが思えば思うほど考えがまとまらず、書きかけの遺書を手に自分の部屋に戻ろうとして立ち上がった。その後姿に猪口が声を掛けた。

「ところで、関はチョンガーだったな。親は・・・」

言い差した背後の猪口を振り向くと、関はきっぱりと

「いえ、四か月前に結婚しております」

と告げた。その関がゆらりと階段の闇の中に姿を消すと、玉井と猪口は思わず目を見合わせた。二人とも、てっきり関は未婚だと思っていたのである。

暫くしてから猪口がぼそりと呟いた。

「まあ、銃後に妻がいるからこそ、決死と言う・・・こともある」

言い訳めいたその言葉を玉井は呆然とした表情で聞いていた。


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