第9話 1944年10月19日 フィリピン マバラカット基地 Ⅰ

捷号作戦しょうごうさくせんとはミッドウェイの敗戦以来、マリアナ・サイパンを次々に陥落させられた日本軍の必殺・必滅の作戦として策定された。従来の絶対的国防圏を定義しなおし、フィリピン・台湾・本土への敵の侵攻が始まった際に自動的に発令される、猛獣に襲われた時のハリネズミのような作戦である。これ以降、日本軍の作戦は、能動的と言うより受動的な形の作戦に変質していくこととなる。

それと同時にこの作戦は対象外の地域、島嶼とうしょを見捨てることを意味していた。そうした地域に残った兵は補給もないまま自活し敵が攻めてくればただ防戦し、最後には玉砕するしかない。

運悪くそんな場所に残された兵たちはどう思ったのであろう?彼らは見捨てるとは言われず、自活せよという一見それらしい命令一本で実質的には放置されたに過ぎない。死ねともいわず、逃げろとも言わず、自活という無責任な言葉で飾られて彼らは戦局の埒外らちがいに置かれた。

だが、結果的にそうした地域にいた部隊ほど生き残る者が多かったのも事実である。日本が見捨てた地域に対して相手も多くの兵力を割くことはなかったのであった。


太平洋の広い戦線の中で日本軍は次第に北西の一角に押し込まれつつあった。その一角にあるフィリピン、ボルネオ、インドシナ半島一帯は石油・ゴム・ボーキサイトなどの産品と共に日本にとって戦略的に死活の地域である。

この年七月、マリアナ諸島が陥落した時点で、米軍の本土攻撃は目睫もくしょうの出来事となった。できればこれを取り戻したいし、天皇からも散々奪回を命じられてきたのだが、海軍軍令部は半ば諦めていた。

むしろこれ以上押し込まれ、戦争を継続するための石油、アルミ、ゴムなどの重要物資の補給線が完全に絶たれることを防がねばならない、というのが陸海問わず軍上層部の暗黙の了解になっていた。補給路が絶たれれば戦争の継続が不可能になる。以前は南方の石油を自分の手で管理することで海軍・民間を管理下に置こうと画策した陸軍も今となってはさすがにその思惑をよろいの下に隠して補給線の確保については海軍と協調行動を取っている。

捷号作戦はフィリピンを捷一号、台湾・沖縄を捷二号、本州近辺を捷三号、北海道を捷四号と定義していた。勝ちを意味する「捷」という符号とは裏腹にその目線はどんどん本土に近づきつつある。それほど戦局は悪化の一途を辿っているのが現実であった。

フィリピンはその最初の砦であり、戦争継続のために決して落とせない砦であった。


その日、海軍中将大西瀧次郎は副官の門司大尉とマバラカット基地へと向かう車の中にあった。マバラカットはルソン島南西部、広大なクラーク航空基地群の北西の一角を占める基地である。

日本では山に紅葉が映え初める時期だが、この地は朝晩こそいくらか過ごしやすくなったとはいえ、日中はまだうだるように暑い。

大西は無意識に軍服の袖で額の汗を拭った。窓の外に目を遣ると、日本兵たちがマニラ富士と名付けたアラヤット山のみねが見える。裾野の長い孤峰であることからの連想であろうが、大西の目には霊峰とその山の姿がどうにも重ならない。

兵たちが国を懐かしみしのぶよすがだと考えれば口には出せぬ。とはいえ、富士は峻厳に人を拒む峰であるのに、アラヤットにはそのおもむきは少しも感じられなかった。田畑の彼方にぽつんと人の好さげに立つ山である。

その山の向こうに黒い雲が浮かんでいる。一降りあるかもしれない・・・。峰から目を逸らすと、大西は自らの思いに沈んでいった。


一航艦の長に任じられ上海・台湾経由マニラに赴いた大西は予想していたものの、最前線の惨状に言葉を失った。

航空艦隊と名付けられているものの、航空隊とは名ばかり、保有していた飛行機のほとんどは失われていた。戦争の初めの頃は、現地にいるのと内地で聞く話はさほど差はなかったものである。しかし、戦局が悪化するほど、内地では現地の様子は分からなくなっていくものだ。国民をあざむいているうちに自らも欺いてしまっていることは、実際に前線に来るまで分からない。

一年前新たに基地航空隊として発足した一航艦は十三個航空隊を擁する一大部隊であり、最初の司令、角田覚治かくだかくじ中将にとって、フィリピンは輝くばかりの栄転の地であった。

しかし今、自らの麾下きかとなる部隊の現状は当時と比べるべくもない。角田中将もテニアンで自ら戦闘に参加し戦死した。よほど激しい戦闘に巻き込まれたのであろう、その遺骨さえ見つかっていない。

今となっては一航艦の司令というにんは地獄の一丁目に送り込まれたのとさして変わりはない。その上敗戦の後始末をつければいいという訳ではなく、残った僅かな戦力をもってフィリピンを守り切らねばならないという重すぎる使命を課せられている。

自らも飛行機乗りであった大西の目には飛行機が不足しているばかりではなく、隊の飛行士たちの技量の平均も著しく落ちているのが見て取れた。技量の高い者たちもいるにはいる。しかし、編隊を組むとどうしても技量の落ちるものが足を引っ張る。千時間の搭乗時間の者たちと百時間余りの者たちでは特に索敵・戦闘の折に技量の差が甚だしい。結果として技量の勝る者たちも巻き込まれて撃ち落されるケースも出てくる。

捷号作戦における一航艦の任務は明確である。大和・武蔵を含む日本海軍の生き残りを集めた艦隊をもってレイテを攻撃・奪還する際、その援護の主力となるのが一航艦である。

そのためには敵機の発進基地である基地・空母を叩くことが肝要である。台湾を拠点とする二航艦も戦闘には参加することになっており、二航艦の司令官である福留繁ふくとめしげるもマニラに到着していたが、あくまで先頭に立つべきは一航艦である。

それが、このざまか・・・。

大西は唇を噛み、眼を彷徨さまよわせた。


大西が軍需省航空兵器総局を離れ、一航艦の司令長官を任じられたのは前任の司令、寺岡謹平てらおかきんぺい中将の失策によるものだった。

失策と言うのは寺岡に酷な言い方かもしれぬ。 寺岡自身が失策を犯したわけではない。寺岡率いる現地では既に戦闘能力の相当部分が失われ、残存する航空兵力を捷号作戦に向けて可能な限り保持する必要があった。一航艦司令長官角田中将の死後、後を任された寺岡はそのための行動を進めた。航空機を分散し、空から隠していざと言う時のために取っておく方針を取ったのである。その消極的な方針を非難する声もあったが、寺岡は自重をげることはなかった。陛下からお預かりした航空機一機、いや弾丸一つといえどもおろそかに費消してはならぬ、費消する時は、航空機一機はせめて敵機一機、弾丸一つは敵兵一人に替えねば・・・、そう寺岡は考えた。

問題はその消極的な戦法が部隊にもたらした怯えであった。仕掛ける方に回れば勇敢な兵士も、守るとなると怯えに付き纏われる。そしてその怯えがミンダナオ島ダバオで打ち寄せる白波を敵襲と勘違いし、司令部がまるごと基地を捨てて逃げるという大失態を生じさせた。

敵がダバオに侵攻したという報で捷一号作戦は自動的に発令し、ダバオにあった司令部は本部を捨てミンタルへと退避した。その際、残った部隊は暗号を焼き、通信施設を破壊した。

その大混乱のさ中、一航艦、空一五三戦闘九〇一偵察夜戦隊飛行隊長の美濃部正みのべただし少佐は単機で哨戒しょうかいを行った。通常ならば攻撃地点に大量の艦砲射撃を行ったうえで悠然と上陸を開始する米軍のやり方と、今回の戦術があまりに違うのを疑問に思ったのである。

そして美濃部は敵襲が見誤りであることを確認した。

富士川で水鳥の音に怯え潰走した平維盛たいらのこれもりの故事にならい、ダバオ水鳥事件とも呼ばれることになった事件の責任を取らされ、寺岡は赴任後僅か二か月で司令長官を解任された。捷号作戦の発動は停止され、以前の状態に復したのだが、施設の破壊など大きな傷跡を残した。

一番の打撃は、捷一号発号と共にセブに集結させられた航空機が発見・狙い撃ちされ保有機の大多数である百二十機を一気に失ったことである。基地分散と樹木による隠蔽によって爆撃目標を見失っていた米軍にとっては、その出現は思わぬ儲けものであり、それまで隠忍自重していた寺岡の苦労は最悪の形で水泡と帰した。

その際司令部の移動と共に、自動的に北・中央フィリピンの司令官となった空二十六戦隊司令、有馬正文ありままさふみ少将は、航空機集結の指示を発出した責任を感じたのか、寺岡の消極的な戦法に憤激したのか、或いはその両方からか、自ら一式陸攻に乗り敵艦戦に体当たりを敢行したのである。

それはある意味では、個人的な特攻であった。その頃には戦局の悪化に伴い自決にも似た、自発的な特攻は陸海問わず、次第に増えていた。

ニューギニアのビアク島攻防での陸軍少佐、高田勝重たかだかつしげ率いる四機の屠龍とりゅうによる米艦隊への自爆攻撃、ビルマでの陸軍戦闘機隼によるB-29への体当たりなどがそれである。海軍特攻開始直前の十月十九日には朝鮮総督阿部信行の長男、陸軍中尉、阿部信弘あべのぶひろが二式戦闘機でカーコニバル諸島沖において英国艦隊に突入した。

彼我ひがの戦力の圧倒的な差がその背景にあることは疑いを入れない。戦力が拮抗きっこうしていたらよほどのことがない限りそのような形で決死の攻撃を行うものは出なかったであろう。


航空特攻の嚆矢こうしは開戦当初、パールハーバーにおいて飯田房太いいだふさた大尉による敵基地の格納庫目掛けての突入だが、その景色は終戦間際の特攻とは全く違うものであった。飯田大尉による突撃はあくまで被弾したための燃料切れで機が空母に帰りつけないことを悟ったうえでの決断である。戦闘行為の中での決死の攻撃は必ずしも日本だけが行ったわけではない。そして敵味方を問わずに勇敢な行為として称えられる素地を持っていた。

敗戦が濃厚になってきた時期における有馬少将の個人的な特攻はまだその系譜にあったのかもしれない。

だがやがて行われることになるシステム化された特攻は敵に勇敢な行為とは受け取られなかった。アメリカはそこに兵に死を促す命令系統を感じ取ったのである。それは邪悪なものだとされ、死を命令する者にも命令を受けて死ぬ者に対しても、恐怖と共に嫌悪を覚えたのである。

火を噴いた飛行機を操って味方の格納庫へ突っ込んだ飯田房太大尉を、カネオヘ基地に味方の戦死者と共に葬ったアメリカは、システム化した特攻の隊員たちについては麻薬を打たれたジャンキーだとしか考えなかった。

そう理解するしかなかったのである。アメリカでは個人のために国があり、日本では国の為に個人があった。


作戦としての特攻が大西の頭の中に形を取ったのはいつの頃であったろうか。おそらくは去年、劣勢が明確になりつつあった前線において彼我の航空機性能、物量の大きな差を目の当たりにした一部の将校から「この上は体当たりを基本とした隊を作るべき」との上申があった頃である。

無駄に撃ち落されるくらいなら決死の覚悟で敵に一撃を与えたいというその気持ちは分からないではない・・・。だがそれは本来手を付けてはならない最後の悪手であると、大西さえその時はそう考えた。後方で作戦を指揮する大方の見方も同じであり、上申は無かったことのように黙殺された。

しかし、真珠湾で敵艦隊に突っ込んで壮烈な死を遂げた甲標的の隊員たち、あの九軍神が陸海問わず、軍人の頭の片隅に常に住み着いていた。飯田房太の航空特攻もまた然りであった。そしてそれらがいかに国民の称賛を受けたかということはまた大西の頭の片隅にも強く刷り込まれていた。

元来、日本は己を犠牲にして人のため、国の為に尽くすことを称揚する文化があり、はかなく散ってくものを哀れと思う心情がある。今次の戦争においては、天皇と国のために身を捧げるというのが兵士の誇りであると教えられ、彼らはその誇りを持って戦地に赴いた。その心情がある以上、通常の戦闘と特攻の間には紙一重のへだてしかない。

人は自分のために生きるのではない、国や天皇のために生きているのだ、という考え方は兵士のみならず、国民の中にも浸透していた。そんな文化に育まれ、身をなげうってでも国に尽くして来いと国民から激励を受けて出征した兵士たちが、一艇・一機を以って敵の軍艦・空母を倒し数百人の敵将を屠ることができるなら・・・と夢想すること自体は悪ではない。

上申は無視されたが、やがて海軍のグループの中にもそれを良しとし、むしろそうあるべきだという考え方を持った人々が出始めた。特に軍令部である。伏見宮博恭ふしみのみやひろやすが初代総長となった軍令部は海軍省の力を削ぎ軍令に関する大幅な権限を得た。その軍令部は特攻に前のめりであった。

だが軍令部に押され気味となっても、海軍省や連合艦隊司令部はそれに組しなかった。無駄に死ぬくらいなら特攻させよ、というのも現場の声なら、特攻などを命じたら長期的には確実にモラールが下がる、というのも現場の声である。

個人として結果的に致し方のない特攻は認める、いや自己犠牲として崇敬に値する、しかし軍の命令としての特攻はだめだ。そうした思考様式に基づく伝統は海軍の上官によって守られてきた。大西でさえそれは誇りと考えてきたのだった。


だが・・・。

風向きは微妙に変わってきている。そして懇意こんいにしているある男からの話が一航艦の司令の辞令を受けたばかりの大西の心を大きく揺り動かした。

大西は良く言えば豪放磊落ごうほうらいらく、悪く言えば海軍の伝統を外れた暴れ者である。普通なら海軍の軍人が忌避する財界や右翼、黒幕と目される人間たちとも繫がりがある。

その一人が就任祝いに大西を訪ねてきたときに、その耳に

「さて、海軍はいつ特攻をするのですかな。このままでは陸軍に後れを取りますぞ」

と囁いたのである。どういうことかと目で尋ねた大西に、その男は

「陸軍は爆弾を固定した航空機を敵艦に突っ込ませるという案を決めております。もっともまだ、上で少し揉めているようですがね。ご存じないのですか?当然、耳に届いていると思ったが」

と続けた。たしかに軍需省にいた大西にもその噂は聞こえてきていた。嶋田が海軍大臣と軍令部総長を兼任してからというもの、海軍側も同じ動きをしていると察知している。しかし、陸軍のそれが決定事項になったとは聞いていなかった。いずれ尻すぼみになるであろうと考えたのはそれを天皇に奏上することなどできぬ、と考えたからである。

だが、そうではならしい。既に既定路線は決まっており奏上の是非と時期を巡って揉めているだけだと男は言った。それを聞いて大西は、陸軍は実行してから奏上する方を選択するだろうと確信した。既成事実を作ってから天皇や政治家に認めさせるというのは陸軍の伝統的なやり方である。

情報の出所を尋ねた大西に男は、大西のよく知っている陸軍の幹部の名前をそっと囁いた。

「すでに機体は準備されているようですよ。鉾田ほこたと浜松に準備させているらしい」

男はそう続けると、最後に

「私は海軍に期待しておるんですよ。だいたい航空機による艦隊特攻を陸軍が始めるなんて筋が違っている。その人もその点を気にしているようでしてね」

と言った。大西は微かに頷いた。情報源である陸軍の男の名は良く知っていた。いかにもそうした筋を気にしそうな男である。間違いはあるまい。あるいはこの男を通じて密かに大西にそれを伝えようとしたのかもしれぬ。

大西はすぐに軍令部に及川古志郎おいかわこしろう総長を訪ねた。次長の伊藤整一いとうせいいち以下数名もその席に加わった。伊藤は僅か2か月前に岡村基晴おかむらもとはる大佐から福留繁中将を経由して、桜花の提案を受け拒否した。大西もそれを承知している。

軍令部とて一枚岩という訳ではない。天皇から不興を買った伏見宮の勢力は衰え、以前ほど特攻を尖鋭的に主張してはいない。海軍省と軍令部の関係は一時ほど鋭く対立していないが、それは現海軍大臣の米内が軍令部の及川を抑えているからであった。だが及川と言え、伊藤と言え軍令部に巣食う特攻容認派を完全に抑えきれているわけではない。大西は及川に向かって

「赴任先でそれが有効と判断したら、戦闘機に爆弾をくくり付け敵艦に突入してもよろしいか」

と尋ねた。有効と判断したら、というのは大西の婉曲えんきょくな言い回しで、「それしかないとしたら」というのが真意である。

大西の質問に一瞬、棒を呑んだような顔つきになった及川はクルリと椅子を回し窓の外を見た。伊藤やその場に列した何人かの男たちから声はない。俯いた者もいれば、大西を凝視している眼もある。

「それは現場での判断という事かね」

及川は背を向けたまま慎重な声で尋ね返した。

「軍令部が命じたとか、そういう関りが生じるなら今の話は聞かなかったことにする」

「むろん、現場での判断です・・・いや、軍令部に命じられたという事にはしていただきたくない。それだと必要なくとも特攻せねばならなくなる。現場で判断させていただきたい」

「なるほど。いざそうした事態が起きればこちらでもできる限りのことはしよう。ただ、決して命じて下さるな。あくまで本人の意思に任せてください」

及川は背を向けたままそう答えた。有難うございます、と答えはしたが、帰途の車中では、何を言っていやがる、と大西は思っていた。

軍令部には依然、特攻を強硬に唱える者たちが残っている。第二部長の黒島亀人くろしまかめとなどはその先鋒である。及川や伊藤は推進者ではないものの、下からの突き上げに難儀をしている筈だ。これで大西が特攻を始めれば、渡りに船とでも思っているのかもしれない。

陸軍にしても海軍にしても特攻が天皇の上聞に至ればかせがかかるかもしれぬと考えていた。もし天皇が「ならぬ」と言えば、どうする?

対応を誤れば特攻は永久に許されなくなるおそれがあった。いや、天皇にそれを告げれば、ならぬと言われる可能性は限りなく高いと考えている。


大西は陸軍のやり口を真似ようと思ったわけではない。あくまで「現場の判断で必要なら」、というのが前提である。

いずれにしろ、軍令部には陸軍の動きまで話す必要はなかった。現場で特攻が始まってしまえばそれを何が何でも阻止しようとするわけではあるまい。

しかし、海軍大臣と会った時は軍令部で話さなかった陸軍の動きを打ち明けた。その方が良いというのが大西の直観である。

米内という人は大西にも良くわからなかった。だが、陸軍に対峙たいじする唯一の大きな壁であることは承知していた。

その米内に向かって陸軍の動きを告げた時、不意に眼前の人の目がすっと薄く半眼はんがんになったのを大西は覚えている。阿修羅あしゅらを彷彿とさせる目であった。

「そうですか・・・その手の話は僕の耳にも届いている。鉾田と浜松・・・なるほど、ね」

米内は暫く考えてから呟いた。

「わかった。そうせねばレイテで勝てぬという事であれば仕方あるまい。ただ無理強いはさせないでください。あくまで本人の意思によるものに限って欲しい。それでももし非難が起こるようでしたらその時はこちらで引き受けましょう」

そう言った米内に

「やるにしろやらぬにしろ、最後は現場の判断で行います。後ろから鉄砲を撃たれるようなことさえなければ結構です」

軍令部でしたのと同じように大西は答え、米内は頷いた。大西が去った後、その表情は阿修羅から茫洋と遠くを見るような顔つきへと変っていった。


その時点で大西が特攻を決心していたかと言うとまだそこまで腹が据わっていたわけではない。しかしレイテ戦を戦うための方策として特攻を選択肢に含めることができるというカードをもって戦場に臨めることは大事であった。使わねばそれに越したことはないが、いざと言う時のために準備はしておく必要がある。

東京を発した大西は敵戦闘機が現れ始めた沖縄上空を回避するため一旦、上海に迂回した。同じく米軍の機動部隊による沖縄襲撃を避けて豊田連合艦隊司令長官は台湾に留まっている。

大西はその台湾へと飛んだ。目的は連合隊長司令官に特攻をかけることを直接報告するためであるが、兵学校同期である第二航艦司令の福留繁に対し場合によっては特攻をすべき、と説くのがもう一つの目的であった。

二航艦は捷号作戦の発令と共にフィリピンに展開することになっている。共同作戦を取ることにせねば実効性は薄い。そう考えている大西は高雄かおしょんにつくなり、福留のいる長官室に赴いた。

そこで豊田が新竹しんじゅーにいると聞くと、フィリピンから迎えにやってきた副官に新竹へ飛ぶ用意を言いつけ、副官の姿が消えるとさっそく特攻の案を福留に話し始めた。一航艦が特攻を行うことについて福留は口を差し挟まなかった。かといって、止めるわけでもなかった。次いで大西は二航艦も同様に万一の時は特攻に参加するよう説いた。

だが福留は頷かなかった。

「そんなことをしたら操縦士の士気を挫く。我々がそんなことを考えているというのを知られてもいかん。俺は貴様の話を聞かなかったことにする」

そう言った福留に、大西はあくまで万一の時だと言って、説得を重ねた。

「だが、福留、そんなことは言っておれん。敵の機動隊を叩かねばレイテは守れない。士気というが今、海軍に残っている操縦士では効果的な爆撃などできるか分からんではないか」

「ノーだ。二航艦には修練は多少短いが優秀な操縦士が揃っておる。予定通り、T攻撃部隊を主力とした攻撃を行う。それで十分だ」

福留は言い返した。T攻撃部隊というのは悪天候、夜間に乗じて敵のレーダーを掻い潜って攻撃する部隊である。

以前、桜花の採用に当たって伊藤整一に口添えをすることで岡村基晴に力を貸した福留にしても、自らの部隊で特攻を採用する気はさらさらなかったのである。

福留の説得に失敗した大西は新竹に飛ぶと豊田と二人きりで会って、東京での話をした。軍令部の了解は得ていると聞いて豊田は頷いた。だが海軍大臣の了解を得ていると聞くと意外そうな表情をした。

そもそも米内の了承を取らねばならぬ話ではない。軍令部の了解があれば十分である。政治的には天皇の信頼の篤い米内の了承を取ることは好ましいが、事前に相談すれば米内が反対に回ることも十分に考えられた。特攻兵器の開発に了承を与えた米内ではあるが、実はそれにも相当迷っていたと聞いている。

本当か?と、その眼が尋ねた。無言で頷いた大西だが、豊田の瞳からは疑念の色が拭えていない。仕方なく大西が米内にしたように陸軍の動きを説明すると豊田は瞑目し、うむ、と頷いた。米内が許したわけがに落ちたのである。

了承した豊田に福留を説いてもらおうかと考えた大西であったが、にわかにそれどころでない事態が発生した。

連合艦隊司令長官が台湾にいると聞いたのは大西だけではない。米軍もまた暗号を解読し、その情報を得ていた。台湾は千機を超える米軍の空襲に見舞われた。豊田も大西も防空壕の中へ逃げ込んでまともに話ができる状況でなくなった。

米軍の攻撃は三日に及んだ。基地は見るも無残な状況になったが敵襲を縫うようにして高雄や新竹から日本軍の戦闘機が飛び立ち、九州からは主力の艦爆機が出撃した。

台湾沖海戦とよばれるものである。

悪天候や夜間に攻撃を行うという戦法は、勇敢ではあるが未熟な操縦士たちに結果的に過大な戦果を報告させることになった。だが空母十隻以上、計三十隻近くの敵艦を沈めたという誤った戦果報告は、未熟な操縦士たちの報告にのみ起因しているわけではない。大西に特攻を持ち掛けられた福留の心には、報告通りの戦果であってほしいという期待があり、大成果報告に疑念を抱く冷静さを失わせた。三日続いた米軍の空爆が四日目には止んだことも敵空母が大きな損害を受けたという傍証のように思われた。

豊田と大西は新竹を出、福留の居る高雄へと飛んだ。高雄はB29の爆撃を受け惨憺さんたんたる有様であったが、味方の戦果も大きいと、福留以下幹部の意気は衰えていなかった。

豊田、大西は共に作戦に加わった。捷号作戦の発動は目睫であり、一航艦と二航艦が共同作業を行う最初の機会であった。

三人になると大西は再び豊田の前で福留に特攻を説いたが、過大な戦果を信じたままの福留は応じなかった。二航艦による戦果の報告に満足した豊田もまた、特攻を福留に命じることはなかった。

その夜、福留と一緒の部屋で寝た時、大西はもう特攻を福留に持ちかけることはしなかった。


軍令部、海軍大臣が特攻を明白な形で命じなかったのには政治的な意味合いも多少は含まれていよう。しかし現実に戦闘を行う軍隊の長である連合艦隊司令長官が態度を明らかにしなかった事はやがて現場における意思の齟齬そごを招くことになる。

機動隊の小沢艦隊にもう少し飛行機があれば、一航艦と二航艦がもう少し協調して事に当たれば、台湾沖の海戦の戦果をもう少し冷静に分析すれば・・・


レイテの敗戦の前に既に敗戦に繋がる様々な要素が現れていた。もし二航艦がもう少し前に特攻に合意していたらならばレイテ沖海戦の景色も多少は変わったかもしれない。

歴史に「もし」を持ち込むことは危険であるが、「もし」を持ち込まなければ永遠に歴史から学ぶことはできない。

台湾沖海戦の過大な戦果は海軍にとどまらず、陸軍にも大きな影響を与えた。十四方面軍司令官山下奉文やましたともゆきはルソンでの決戦を望んでいたが、台湾沖での戦勝を信じた陸軍参謀本部はレイテでの決戦を命令した。台湾沖の戦果が過大な評価だったという事を察知してからも、なお海軍が陸軍にそれを伝えなかったという非難がある。レイテに兵員を集結させた陸軍は台湾沖で壊滅した筈の米機動隊が出現したことにさぞかし驚いたであろう。

しかし同様のことは陸・海軍が繰り返し行ってきたことであった。陸軍・海軍の兵士たちは将官たちの反目を忠実に反映し、互いに不信を抱いていた。そしてその反目こそが仲間の死を招くということより互いの悪口を言い合うことを選んでいることに気付かなかった・・・あるいは気付かぬふりをした。

致命的な判断ミスは海軍においては二航艦の特攻を遅らせ、栗田艦隊が敵空母から発進した爆撃機に矢衾やぶすまのようにされたことに繋がっていく。敵空母を叩くことができたなら連合艦隊はもう少し余力を残せたかもしれない。

台湾沖に関する大本営発表は結果的に、天皇より、国民よりいっそう大きく海軍自身を欺くものになった。のみならず、レイテ沖の海戦においても台湾沖と同じような情報の錯綜・混乱は繰り返さることになる。


福留の部屋で寝たその翌日、大西はフィリピンへと飛んだ。敵艦隊がレイテ湾に侵入し、上陸が確実になったとの報を受けてである。

その日のうちに捷一号作戦は再度発動された。


人を以って、確実に死に向かわせるのは人の仕業ではない、鬼の所業である、と大西は考えていた。

しかし一航艦司令の内示を受け取ってから、みるみるうちに俺の中の鬼は育ってしまったのだ。人である事を捨てねばならぬ、その覚悟を決めねばならぬときは迫っていた。

必死の者のみが死中活を見出す。肉を斬らせて骨を断つ。それは武士が一対一で戦う時の考え方である。それに倣わざるを得まい、と大西は思い詰めているが、とはいえそれはこのような戦争の時にも通用する考え方であろうか?との疑問を大西はまだ捨てきれていなかった。

取ることのできる多くの道は残されてはいないように思えるものの、戦いを続けるならば鵯越ひよどりごえや桶狭間のためしではなく、小田原攻めを探ることこそ戦争の常道ではないのかと理性は囁く。

だが、有馬正文少将の特攻の経緯を聞き、現地に残る貧弱な戦闘能力を自身の眼で視、そして台湾沖で殲滅した筈の敵機動隊の殆どが生き残っていると知った時、遂に大西のほぞは固まった。

固まるというより選択肢がなくなったのである。もうすぐ福留が率いる二航艦がこの地にやってくる。その前に一航艦としての覚悟を決めねばならなかった。


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