第8話 1944年9月6日 東京 麹町 米内邸


やしきの主は、床に片手をつきのろのろと蚊帳かやくぐると、疲れた身をぐったりと布団に横たえた。身の衰えは隠せない。若い頃から酒を飲みすぎたせいであろう。その酒が戦況の悪化で手に入りにくくなったおかげでなんとかこの体は持っているのかもしれん、と考え男は苦笑した。

といっても断酒しているわけではなく、機会があれば芸妓げいぎのいる店にも行く。だが酒は浴びるほど飲むほどには用意されない。食べる米も事欠くというのに酒などに回す米はないのだ。あるのはこんなこともあろうと店が隠しておいた僅かな酒だけである。その貴重な酒をこの頃、男はちょびちょびと飲むことの楽しさを覚えた。なぜ今までかたきのように酒を飲んでいたのか、と思うと不思議である。敵として飲んでいたからこそ、身にも傷を負う。友として飲めば傷も負わぬ。その日の夜も副官たちとちょびちょびと酒と質素な肴を楽しみ、帰宅したのである。


足元の方を何気なく視線を遣ると、月明りの中、蚊遣りの細いけむりが白く揺らめいていた。蚊帳に蚊遣りか、ご丁寧なことだ、と手伝いの婆さんの顔を思い起こし、日本の国防もこのくらい厳重にできればよいのだが・・・と妙なたとえが脳裏に浮かんだ。


その日、帝国議会は陸海軍の予算増加を審議する秘密会を開いた。答弁で男は心身ともに疲れ切った。ストレスは過度の飲酒のせいでただでさえ肥大した心臓に負荷を与え続けている。そのストレスは議員の鋭い舌鋒に応えなければならないから発するわけではない。学芸会にした議会にもはや鋭い舌鋒など皆無である。ストレスが生まれるのは、秘め事があるからでその秘め事の行きつく先を思うからである。

昼食後、大蔵大臣、石渡荘太郎いしわたりそうたろうにより軍事費として二百億円の追加予算が必要だという概要説明がなされた。引き続き、まず陸軍大臣、杉山元すぎやまはじめ大将が、次いでこの男、海軍大臣米内光政が説明に立った。

先に登壇した杉田の演説を聞きながら陸軍は一歩踏み込んだ、と米内は思った。杉山は、政治家のいる場所で軍の指揮について滅多に話すような男ではない。以前、それで米内と喧嘩したことさえあるのだ。だが、

「これら新兵器は皇国独特の必殺戦法を敵に強要致しますものがその主なるものであります・・・これを駆って敵に肉迫攻撃をするものは至誠尽忠必勝必殺しせいちゅうじんひっしょうひっさつの信念に燃える精鋭でありまして」

と言った彼の言葉をそのまま取れば新兵器が必死の特攻兵器であると感づいても不思議ではない。皇国独特という言い回しは卓越しており、アメリカやイギリスにはとても考えられない攻撃である、ということを暗に示している。

米内自身はあっさりと「新攻撃兵器」としか言及しなかったが、陸海混然一体となって戦争を遂行すると陸海両大臣が揃って答弁で言ったのだから、陸軍が特攻兵器を作るなら海軍も同じと捉えられても仕方あるまい。

もっとも陸軍の大げさな言いようはかねてからのものであるから、議員たちが聞き流したとしても無理はない。それに、いざ新兵器は何かと議員に聞かれても具体的な話は一切機密であるとして答えないわけである。それでいて二百億円と言う金が動くのだから、もはや議会は機能を停止していると謗られても仕方あるまい。答弁できぬなら国民から集めている血税は出せぬ、などという腹の座った発言をする議員など、今となっては皆無である。


陸軍は新兵器の開発をよほど前のめりに進めているのだろう、と米内は推察した。

「来るべき決戦には航空作戦に付随致しまして、敵の心胆を寒からしむものありと期待しているものであります」

と大臣が言った以上、秘匿されている陸軍の新兵器はまず航空関係に違いない。このままでは・・・まずい。

航空関係に陸軍が手を出してきて碌なことはない。それも必死の攻撃となれば・・・それは陸の事ではなく海か空の事に違いあるまい。

枕の上で天井を見上げながら米内は深くため息をついた。

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