第7話 1944年9月6日/7日 東京 駒込/広島 呉


その日は敦子の十七回目の誕生日であった。 乙女座生まれである事は、幼い日の敦子にとって密かな誇りであった。その通り、誕生日が来るごとに乙女の階段を昇っていくような思いがしたのである。

だが楽しみであった誕生日は年を追うごとに質素になっていった。ビーフシチューやオムレットに洋菓子を添え、学校の友人を誇らしげな気持ちと共に招待していたのは中学に上がる頃までだったろうか。

戦争が始まってからも父や母が色々手を回してくれて、せめて誕生日くらいは家族で盛大に祝ってくれようとしてはくれるのだが、食卓から洋風の物が少しずつ消えていき、色目が華やかさに欠けていくのは仕方のないことだった。

それでも、今年は羽田に住む父方の叔父が前日釣り上げたといって鯛を送ってくれた。それを刺身や兜煮かぶとにこしらえ、世田谷にいる母方の実家から分けてもらった貰った野菜をサラダに仕立て、それなりに豪華な料理が食卓に並んだ。家は十五年ほど前に建てられたこともあり、居間は当時流行であった洋風である。小さなシャンデリアも居間の真ん中からぶら下がっていて、フリンジとかフレコと呼ばれる房飾りが光を複雑に屈折させ、料理に色を添えている。

ちょうどその頃回天の仕事がひと段落付いたこともあり、その打ち上げも兼ねるのは嫌か、と牟田が尋ねると、そうした方が賑やかになると敦子は賛成したのである。仁科が(たぶん海軍の食糧庫に眠っていたのであろうが)贈ってくれたワイン二瓶も空けることにして、風間や加藤の他四・五人の学生を呼んでパーティーをすることになった。

敦子も母やお里を手伝って料理の用意を終え、あとは刺身を盛るばかりとなった頃に風間や加藤たちが到着し居間に招かれ酒盛りが始まった。

最後に呼ばれた敦子が僅かに手元に残しておいた鮮やかなレモンイエローのワンピースに身を装って居間に入ると、

「敦子さん、おめでとうございます」

風間が音頭を取ってハッピーバースディーの歌が始まった。敵性用語を使った歌は本来なら禁じられているが、父も母もにこにこしながら歌に和していた。

「ありがとうございます」

頬を染めて礼を言った敦子を座らせると、母やお里が出来上がった料理を次々に運んできた。話題は敦子の幼かった頃の思い出話から始まったが、やがてぽつぽつと戦局の話に移っていった。戦況についてちまたの人々はその全貌を知ることはなかったが、どうやらあまりうまくいってないというのは薄々感づいていた。

「少し軍は国民のことを考えすぎているのではないかね。もう少し国民に対しても正直に言って貰っても良いのではないか」

牟田の言葉はその頃の知識層が大本営からの発表に対して疑念を表すときの共通の言葉の使い方であった。料理や酒が進むにつれて各々の口が少しずつほぐれていったが、突然片隅で風間の叱咤する強い声がした。

「馬鹿なことを言うな」

声を上げた風間とにらみ合っているのは加藤だった。

「僕は研究者の良心のことを言っているのです」

加藤は風間に負けぬきっぱりとした声で応えた。その顔は久しぶりにアルコールを飲んだせいか蒼白く眼は炯々けいけいと輝いていた。

「どうかしたのかね」

牟田が穏やかな声で尋ねると

「いや、何でもないです。今日は敦子さんのめでたい誕生日祝いだぞ。おい、少し外にでよう」

と風間が加藤の肩に手を掛けた。加藤は風間を睨みつけると

「僕らはいくら国のためとはいえ、十死零生の兵器など作ることに協力すべきでないと申しているのです」

と言い放った。その言葉で場は一瞬で凍り付いた。敦子の母は、きょとんとした目で牟田を振り向き、お里は盆を手にしたまま立ち竦んでいた。加藤以外の学生たちは思い当たることがあったらしく、ある者は小さく頷き、別の者は目を逸らした。

「どういうことですの?」

敦子は風間と加藤を交互に見ながら、静かな声で尋ねた。

「なに、つまらんことですよ。貴様、馬鹿なことを言うもんじゃない。自分が何を言っているのかわかっているのか?」

襟首をつかもうとした風間の手を加藤が振り払った、

「人の生死がつまらんことですか?」

「風間さん、落ち着いて。加藤さんから手を御放しなさいな」

毅然とした敦子の口調に、風間は渋々と加藤の肩から手を放した。それを見届けると敦子は父を振り向き、静かな口調で尋ねた。

「お父様、それはお父様の研究の事ですの?」

「いや、研究という訳ではない。軍から頼まれたことに助言をしているだけだ」

牟田は敦子を見遣った。

「ですが、教授。あれは明らかに人間が乗るための魚雷ではありませんか」

加藤が突き刺すように言葉を放った。

「人間が乗る・・・魚雷?」

二つの言葉のイメージがうまく頭の中でつながらない、という風に敦子は呟いた。

「では・・・乗っている方はどうなるのです?」

誰も答えるものはいなかった。

「でも兵隊の方々は、そうまでしてお国を守ってくださろうとしているのですから・・・」

母が呟くようにそう言った。

「魚雷と共に亡くなる、そういう事ですか?」

敦子は牟田を見た。

「そういう事だろうな」

諦めたような口調で牟田は答えた。

「しかし、最初に頼まれた時はそうではなかった。言い訳するわけではないが、時間と性能の制約でそうせざるを得ない、と後になって言ってきたのだ。とはいえ、頼んできた人たちはみな立派な軍人だよ。彼らは最初から嘘を吐くつもりなどなかったと、それは断言できる」

風間は牟田の言葉に頷くと加藤を睨んだ。

「加藤、お前は立派なことを言っているつもりだろうがな、僕らは国を守ろうとしている方たちを銃後で支える役割を担っているのだ。だいたいお前はなんだ。批判ばっかりして。戦うでもなしにのうのうと学生生活をしているだけじゃないか。少しでも国の役に立とうとは思わんのか?」

「学問こそ、国を支えるものです。その気持ちに変わりはありません。ですが良心を失った学問を続けていくつもりはありません。どうしてもこの研究を続けていくという事になれば僕は大学をやめます」

「辞めてどうするんだね?」

加藤の言葉に、身を乗り出すようにして牟田が尋ねた。

「辞めれば徴兵猶予は解けます。軍に入って戦うしかありません。それでもあのような兵器を作る側に回るなら、僕はそれを使う側に身を置きます」

そう言うと、加藤は横にあった荷物を手に取り、敬礼をすると居間を後にした。

「おい、待て」

風間が慌てて声を掛けたが加藤は振り向きもしなかった。敦子がさっと立ちあがり加藤の後を追った。風間も続けて立ち上ったが、牟田が

「少しばかり放っておいてやるほうがいい」

と制した。

「どうやら我々も・・・。どこか正気を失っているような気がせんでもない。死が余りに身近になりすぎているのかもしれん。頭を冷やす必要がありそうだ」


「加藤さん」

後ろから聞こえた敦子の声に、足早に牟田邸を後にした加藤は驚いたように振り向いた。細々と家々の灯はついているが灯火管制で道は暗い。敦子の顔もそうと漸く見分けられるほどであったが、鮮やかなレモンイエローのドレスは見間違えようがなかった。

虫の音がしきりとあたりからしている。敦子は息を切らしたまま、何も言わずじっと加藤を見つめていた。

「敦子さん・・・外は危ない。家にお戻りください。そんな恰好では」

敦子ははっとしたように自分の装いに目を落とした。確かにこんな格好で出歩いて見咎められたら言い訳はできない。それでも敦子は縋るようにもう一度加藤に視線を戻した。

「加藤さん、本当に大学を辞めてしまわれるのですか?」

震えるような声が加藤の耳に響いた。

「はい・・・でもせっかくの敦子さんの誕生日を・・・台無しにして申し訳ありませんでした。本当は明日教授に言うつもりだったのですが」

そう言い繕ってみたものの本当のところはつい酒の力で風間に食って掛かってしまったのだ。

加藤は頭をぼそぼそと掻いた。これで敦子と会えなくなってしまうのだ、戦場に行くのだと思うと、自分の短慮が情けなくもある。だが、一方でもやもやとしたままだったそれまでの気持ちが晴れたような、すっきりとした思いがしているのも事実だった。

「でも、なぜですか?加藤さんのお考えは立派だと思います。だからこそ大学に残ってそのお考えを貫かれるのが本当ではないのですか?」

「ありがとうございます。でも勇ましいことを言っても実際のところ今は、僕らは軍に楯突くことはできないのです。楯突けば研究は中断しなければならないどころか、大学を追い出される。だから風間さんの言っていることも一理ありますし・・・。何よりもお父上を責めないでください」

そう言った加藤を濡れるような瞳で見つめていた敦子は目を伏せると、

「でも軍隊に行かれるなんて・・・」

と呟いた。加藤はありったけの力を振り絞って笑みを浮かべた。

「国民皆兵なのですよ。僕ら理工の学生は兵器を作るために徴収を猶予されているのです。だから兵器を作らない学生は兵役につかねばならんのです」

「だからと言って・・・」

敦子は途方に暮れたような眼をした。そんな敦子をまっすぐな視線で見つめ、加藤は強く頷くと語りかけた。敦子を説得するというより自分に言い聞かせるような口調であった。

「あの兵器を作る作らないで僕は反対すべきではなかったのです。そもそも戦争を始めることに僕は反対すべきだったのです。でも、事ここに至った以上、僕は道を選ばねばならない。ならば僕は人を自殺に追い込むような兵器を作るより軍隊に志願する道を選びます」

貴女のような人を守るために、と言いたかった。しかし言葉は羽を失った鳥のように飛び立つことはなかった。黙ったまま自分を見つめて来る加藤の視線に敦子は諦めたように言った。

「そうですか・・・ご決意は固いのですね。でもきっと無事に戻ってきてくださいな。その日まで私、イエス様に祈っておりますから」

「わかりました。有難うございます」

「時にはお便りをくださいね。せっかくお友達になれたのですから」

「はい・・・、だから早く家へお戻りください。ここで見ていますから」

敦子の家の玄関の灯りは彼方に灯っている。それを指し示して加藤は懇願した。

手紙といっても軍からの手紙は家族あてのものを含めて全部検閲される。引っかかってしまえば届くかどうかも心許ない。便りをするのは難しいかもしれない。だが、そんなことを話している間に憲兵にでも見つかったら大ごとだ。

「お元気で、ご機嫌よろしゅう」

名残惜しそうに振り向いてお辞儀をした敦子は俯くと小走りに家に戻っていった。


「今日のことは君たち、忘れたまえ。決して口外してはならないぞ」

風間の叱正に残っていた四人の学生が交互に顔を見合わせ頷いたとき、がらがらと玄関の戸を開ける音がした。敦子が戻ってきたのだ。敦子は居間の入り口で父を見て、一瞬もの言いたげな表情をしたが、そのまま何も言わずに立ち去った。先ほどまでの和やかさはどこへ消えたのか、そのしんとした雰囲気に堪えきれなくなった学生の一人が、

「では僕はそろそろお暇させていただきます」

と立ち上がると、残りの者も、では僕たちも、と次々に席を立った。学生の中では一番年上の加藤の振る舞いに、戸惑いを覚えつつ何か感じることがあったのだろうか、一様に表情は固かった。

「ああ、悪かったね」

牟田の声に被せるように風間がもう一度、厳しい口調で言い放った。

「余計なことを考えるな。今は非常時だ。非常のときに原則論を言っても意味はないのだからね。君たちが余計なことを漏らせば先生にも御迷惑が掛かる」

牟田が制するような仕草を見せたが、立ち上がった学生たちは風間の言葉に、

「分かりました」

と素直に頷き、牟田の妻に礼を述べるとぞろぞろと立ち去った。牟田の妻がお里と共に玄関に見送り、後に残ったのは牟田と風間の二人だった。

「困ったな・・・」

呟いた牟田に向かって、風間が固い表情で

「先生、加藤をあのまま放っておいてよいものでしょうか。万一機密でも漏らされたら先生がお困りになるのでは」

と言ったが、牟田は煩わし気に手を振った。

「加藤君はそんな男ではない。放っておきなさい。困ったのは別のことだ」

「しかし・・・」

風間が言葉を続けようとすると、牟田は厳しく遮った。

「風間君、君は今、まるで憲兵のような顔をしておるぞ」

牟田の言葉に、はっと風間が怯んだ。

「敦子に知られてしまった。加藤君があんな話をしたからといって君も柳に風と受け流してくれればよかったのだよ。酔っている時に理屈は通らん」

牟田はため息を吐いた。

「いずれにしても敦子は自死を赦さんと思うよ。そして自死を招くそんな兵器を作ることに加担した僕も・・・例えそれが国の為だとしてもね。その上、もし君が加藤君を訴えたりすれば敦子がどうするか、そして、その結果がどうなるかよく考えて見たまえ」

牟田は敦子の一本気な性格を子供のころからずっと見てきた。かたくな性格は女の子には似合わないよ、と諭してもなぜか年々その性格は露になっていった。加藤が憲兵にでも捕まりでもすれば敦子は心の裡で父親と風間を生涯許さないであろう。黙った風間に向かって牟田は力なげに言った。

「まあ、過ぎたことは仕方ない。これからのことは後で考えよう」

玄関から戻った妻とお里は、黙って皿やカップなどを台所に運び始めていた。

「少し外に出て頭を冷やしてきます」

風間がそう言って玄関に向かった時、戸を叩く音がした。そのまま風間が出て応対した。


「何、黒木君が?本当なのか?」

風間の声に玄関に出た牟田は、海軍軍令部の使いと名乗る若い少尉の説明を聞いて絶句した。その日の夕方、訓練中の黒木が乗った○六が事故を起こし行方が分からないというのである。

「は、そこで事故の調査、及び今後の開発、生産体制につき関係者と協議いたしたく、至急、大津島おおづしまにお集まり願いたいとのことでございます。明朝、立川から発つ軍用機がございますのでそれで光まで行っていただき、そこからは現地で交通を用意するとのことです」

まだ顔立ちにおさなげな輪郭を残す少尉は、顔に似合わずきびきびと用件を述べた。牟田は脇に立ったままの風間と目を合わせた。風間が頷いた。

「風間君も一緒でよいかね。いろいろと相談せねばならんこともある」

「結構でございます。明朝五時にこちらに車がお迎えに参ります」

「風間君、君、今日はうちに泊まり給え。必要なものは家で整えさせよう」

牟田が張り詰めた声で言うと

「はい」

答えた風間の顔も緊張していた。

「では、よろしくお願いいたします」

敬礼をすると、使いは立ち去った。

「六時か・・・三時間は立っているな」

懐中時計を取り出し時刻を確かめると牟田は呟いた。

「○六の・・・中の空気は二人でどれくらい持つものかね?」

「運用機の設計上は一人の場合六時間程度ですが、試作機は操縦室の隔壁がないのでそれよりは持つはずです」

黒木は訓練生と共に出航し、瀬戸内海の沖合で行方不明になったとのことであった。風間の言う通りであれば訓練用の○六は実戦配備用のそれに比べれば空気が持つようだが、二人いるから空気の消費もそれだけ激しいだろう。果たしてどれほど持つものであろうか。

黒木が遭難したこの兵器が前月、回天と命名されたことをまだこの二人は知らなかった。

初期の開発機種である一一型の回天は通常一人乗りだが訓練時は指導員と訓練生が二人乗る。訓練機の数が少ないため日の残っている間は無理を承知で訓練をしていたようだが、六時となれば夕暮れに間もない。

回天は脱出装置がなく、水中ではハッチが内圧で開かないため緊急時は空気泡を出して居所を知らせ、引き上げてもらうしかない。練習時は僚船がつくため大体の沈んだ位置は分かる筈だが、夕暮れの中では、空気泡を見つけるのは困難であろう。まして陽が沈んでしまえば、探照灯を灯しても見つけるのは奇跡に等しい。

「助かるといいが・・・」

暗い玄関の灯りの下で牟田はぽつりと呟いた。


翌朝、時刻通りにジープが邸へ来て、牟田と風間は車上の人となった。妻は見送りに出たが、いつもならば一緒に見送りに出る敦子の姿はなかった。

燃料の民間供給が途絶えたため、車は殆ど走っておらず、たまに出会う車は軍関係の車か、軍需物資を運ぶトラックである。お陰で立川までは一時間半足らずで着き、滑走路に停まっていた飛行機に二人が乗り込んだのは七時ちょうどであった。

中には操縦士が二人と他に六人の乗組員、それに制服組らしい男たちが乗っており牟田と風間は空いている座席に身を滑り込ませた。

アーチ状の風防からは空が見渡せる。牟田はまだ夏の名残を残す濃青の空を流れていく雲を見遣ってから、懐中時計を取り出し文字盤に目を落とした。白いものの目立ち始めたびんが飛行機のエンジンの振動で僅かに震えている。

「十三時間過ぎたな・・・」

「どちらにしろ、着いた頃には結果は出ているでしょう」

風間が冷静に答えた。

しばしの沈黙があった。どうやら飛行機の乗員もこの二人を乗せる意味を知っているようである。やがて、

「出発します。よろしいですか?」

若い副操縦士が振り返って、丁寧な口調で尋ねた。

「ああ、結構です。この飛行機はなんという飛行機ですか?」

風間が尋ねた。

「一式陸攻でっさ。アメリカさんはベッティと呼んでるらしいですがね」

主操縦士がべらんめぇ調で答えた。

「もう、そろそろベッティばあさんと呼ばれる頃合いですな。あたしゃ千時間もこの飛行機に乗っていますがね、故障は少ないし良い飛行機なんですがなぁ、若いもんの脚がどんどん早くなるもんですからね、ここんところはおいてきぼりを食うばかりで。戦闘機と歩調が合わないんで迷惑がられちまってね。今じゃ攻撃機というよりは輸送機が中心の運用でしてね。これはその輸送機に改造したもんです」

そういいながら、チョークを引くと

「発進しますぜ。前にかがみこんでください」

主操縦士が怒鳴った。双発のプロペラが回りだし、風防ガラスががたがたと鳴った。滑走路上を、次第に速度を上げて走り出した機体はゆっくりと浮き上がった。

二時間の飛行を終えて牟田と風間は光の飛行場に降り立った。一緒に乗っていた制服組は機中ではほとんど口を利くこともなく、機を降りるとさっさと迎えの乗用車に乗り込んで去って行った。

滑走路の脇に使い古したジープが待っているのが見えた。どうもあれらしいぞと言いあいながら牟田と風間が近づいて行くと、

「牟田教授と風間助教であらせられますか」

車の横に直立していた、日に灼けたいかつい顔の運転手が二人に尋ねた。牟田が頷くと、その男は二人が引きずるようにして運んできた荷物を軽々と持ち上げて荷物室に入れた。後部座席によろよろと乗りこんだ二人を目で確かめ運転手は車を出発させた。

「行方不明のお二人は・・・どうなったのですか」

牟田の問いに運転手は短く答えた。

「それについては司令とお話しください」

そっけない答えに牟田と風間は眼を見合わせた。どうも良くないみたいだな、と牟田が目配せをすると、風間が神妙な顔で頷いた。

ジープで港まで行くとそこからは海軍の連絡船で島へと向かう。まだ夏の余韻の濃い瀬戸内海の島々は戦争のことなど知らぬげに静かに波に洗われていたが、大津島に近づくにつれ様々な船が行き交うようになり、慌ただしい様子が手に取るように分かった。船を降り、大津島の訓練所に入ると司令が高台に置かれた壇に直立して作業を俯瞰ふかんしている。その横に仁科が立っていた。どちらも険しい表情で、目が赤い。

仁科が二人に気付き、僅かに表情を和らげて近づいてきた。

牟田が尋ねる前に、

「黒木は駄目でした」

と仁科が静かに言った。

「朝、漸く見つけて引き上げたのですが、僅かに遅かったようです」

「僅かに・・・ですか?」

「黒木と、一緒に逝った樋口が残した手記では六時過ぎまでは息があったようです。あと二・三時間早く見つけられれば命は取り留めたのでしょうが」

「手記があったのですか・・・」

「ええ、黒木も樋口も手記と遺書を残していました。どれも回天に関しての貴重な手記です」

「回天?」

 聞きなれない単語に牟田が視線を上げた。

「ええ、○六の正式呼称です。大森少将が命名してくださいまして、この地に相応しい名前だと、黒木は大変気に入っていたのですが」

回天義挙は維新に際して長州の高杉晋作が起こしたクーデターであり、回天という名は長州にあるこの地に相応ふさわしいと言えないこともない。

「そうですか」

伏せた牟田の目に壇上で直立したまま動かない司令の足元でじゃれている子犬の姿が映った。季節に出遅れた昼顔のつるが壇に這い上がり、一輪の花が子犬の尻尾と絡むようにして風に踊っている。

蝉の声が降るように鳴り響いていた。


海中から引き揚げられた回天は港の近くに打ち上げられた巨大な鮫の死体のような姿で横たわっていた。

そこから運び出された黒木ともう一人、樋口という操縦士の遺体は会議室の隣にある作戦室に白木の棺に入れられてあったが、棺の蓋は閉じられていた。彼らの書いた手記はその部屋の大きな机の上に整理されて置かれていた。紙では足りずに艇内の壁に書かれていたものがあり、それらは丁寧に帳面に写し取られて遺されていた。遺書だけは取り除かれてそれぞれの宛先の者に送られるとのことであった。

呼ばれた者たちはそれら二人が死と戦いながら遺したものを眺めると、手を合わせ粛然と会議室へと入っていった。

会議に呼ばれたものは設計にかかわったもの、製造に関わる呉工廠の者、及び運用に関する軍令部からも数名が参加していた。

「ご参集いただいたのは他でもない、一一型の生産の現状、及び改良型の見込みについてですが、今回の一号的の事故を踏まえて急遽、設計に関わった方々にもご参加いただき今後の運用について合わせてご議論願いたいということです」

仁科が会議の口火を切った。訓練所の長である司令は朝と同様、険しい顔つきで椅子に身を沈め、瞑目している。

「事故の原因は分かったのですか?」

技術廠の設計技師の一人から質問があった。

「まだ調査中ですが、黒木大尉が遺された手記からだいたいの様子は判明しています。昨日は晴天にも拘わらず近辺の海上はやや波が高い状況でした。私も同乗訓練を行ったのですが海上が不安定であったため次に乗り込む予定だった黒木大尉に訓練の中止を進言しました。が、大尉はこの程度の波で訓練を中止しとったらいざと言うときに役に立つか、と仰って出ていかれました。手記を見る限り高波にダウンさせられ急激降下、海中砂地に突き刺さった模様です」

仁科の話は要点を抑えている。

小学校を4年で終え、合格の難しい兵学校に入っただけのことはある。海軍兵学校七十一期、卒業の時の校長は井上成美いのうえしげよしであったが、僅かに卒業式典で井上の姿を遠くから見たにすぎず、その前の草鹿任一くさかじんいち校長の下で教育を受けてきた。楠木正成が掲げたという非理法権天ひりほうけんてんの教えや平泉史学が幅を利かせていた時期の兵学校卒の士官であり、尊王家で生まれ育ち海軍機関学校を卒業した黒木と馬が合った。

その仁科は黒木の死に動揺する様子もなく、あっさりと黒木の死が操縦に起因することを認めた。

質問者はほっとした様子であった。技術や設計、生産の問題でなくいことがはっきりとしたからである。波の高い時にわざわざ僚友の制止を振り切って出航したとすれば運用上の問題で機体の故障ではない。

だが黒木の出航前の発言も理解できないわけではない。戦争は漁ではない。天気が悪い、波が高いと言っても相手は待ってくれるわけではない。それに、波に叩きつけられ砂地に沈むというのは泊地などの浅瀬などでの運用を考える場合には考慮すべき重要な問題である。

「脱出装置をつけるという話があった筈だが・・・訓練時だけでもできないものなのかね」

軍令部から出席した佐官クラスの男が呟いた。仁科はその言葉に頷いた。

「まず、それについては皆さまのご意見をいただきたい。現実的に脱出装置は可能ですか?」

仁科の言葉に技術廠の技官たちは顔を見合わせ、そのうちの一人が口を開いた。

「すでに設計自体はあります。問題は設計装置を設置することで空間が制限されること、重量も増しますので速度、操作性に劣ることですが、訓練用と言うことなら問題はありますまい」

「脱出装置を使用した後はどうなりますか?」

「は?」

「回天は回収可能ですかね?」

「回収は可能でしょうが、艇内に海水が入り込むことは避けられません。再度使用可能にするには、分解して新しく作り直すような形になると思います」

「ふむ」

と仁科は顎に手を当てた。

「どのくらい時間が要りますか?」

「そうですね、三か月ほどいただければ・・・」

技官が苦し気に捻りだした答えに、突然司令が椅子から身を起こした。

「工廠に聞きたい。予定では先月末には一一型百基が納入されるはずだったが、今のところ影も形もない。いったいいつ納入されるのだ」

会議に参加している者の中で牟田を除けば最年長者である副工廠長がメモを見ながら立ち上がった。

「九月半ばに二十基を予定しております。それで・・・」

「遅い、少ない」

司令が斬るように言葉を遮った。

「黒木が遺した手記でも嘆いていた。いったい工廠は何をしておるか、と。黒木が無理して訓練に入ったのも回天の数が足りず、訓練時間が不足することに起因しているのだ」

工廠からやってきた者たちは怯えた目で互いを見交わした。そういう形で責任を問われるとは思っていなかったのである。副工廠長が意を決したように答えた。

「しかし、我々は同時に二二型の試作も命じられているのです。それに一一型は燃料の酸素を安定して作るのが難しいのです」

「以降の生産は?」

「日産二基ないし三基・・・」

副工廠長は黒縁のセルロイド眼鏡を外し、額の汗を拭った。

「皇国の興廃ここにあり、というのになんだ、そのざまは」

司令は怒鳴った。仁科はやんわりと手を振り、その怒りを遮るような仕草をした。不満げではあったが、司令はその仕草を見て再びどっかりと腰を下ろした。

「そんな状況では訓練用に新たな機器を作るというのは・・・どうやら難しいようですね。ですが生産の遅延で訓練に支障が生じているというのも事実です」

と言うと皆を見回した。すべての頭が頷いた。工廠も認めざるを得ないと考えたようである。

「軍令部の方でも二二型への転換に先駆けて一一型の増産に力を入れるように手を貸してくださいませんか」

「伝えましょう」

副工廠長が間髪を置かずに答えた。

二二型は酸素の代わりに過酸化水素と水化ヒドラジンを燃料に使う。爆発を起こしやすい酸素に比べ使いやすいものの、今度は肝心の内燃機関の開発に手間取っていた。

「よろしくお願いします」

仁科は微かに笑むと次いで黒木の手記の要約を幾つかあげ、対策を尋ねた。その中に用便器の設置と言う項目があった。

「工廠の方でご検討願いたい」

「わかりました」

若い担当者が答えながら僅かに笑みをこぼしたのに牟田は気づいた。生産の遅れの回復に比べたら用便器の設置などさして難しくない。思わず気を抜いたのであろう。

だが司令もそれを見逃さなかった。突然、目の前にある机を蹴り立ち上がって軍刀に手を掛けた。

「なんだ、貴様、何がおかしい。軍神が死に行く時に心を煩わせたんだぞ」

蹴り倒した机を押しのけ、軍刀に手を掛けて近寄ってきた司令に、斬られると思ったのか、担当者は腰を抜かすようにして椅子から転げ落ちた。全員が蒼白になる中、仁科がつかつかと司令の脇に寄ると、

「少佐。お気持ちは分かりますが・・・ここはご自重ください」

と穏やかに話しかけた。司令は暫くの間、突き付けた軍刀の前で震えている担当者を睨み付けていたが、すっと視線を外すとそのまま会議室を出ていった。


「だいぶピリピリしていますね」

会議を終え建物から出て共に煙草をくわえるなり風間が牟田に囁いた。

「そうだね、・・・前はあんな人ではなかったんだが」

最初に会った時の司令と印象は全く変わっていた。その時の司令は七三に分けた髪を風に靡かせ、海軍軍人らしく陽に灼けた顔に眩しいほどの白い歯を見せて笑っていた記憶がある。

「やはり死者を出したのが堪えているんでしょうか?」

「それもあるかも知れないが・・・。しかしあの人は戦闘にも参加しているのだ。初めて死者を見たわけではあるまい」

「そうなのですか」

「南方やアリューシャンで戦っているはずだよ。潜水艦の艦長をしていた筈だ」

仁科が近づいてきたのを見ると二人は押し黙って小さく頭を下げた。

「これから黒木中尉と樋口への黙祷もくとうがあります。お二人もご参加ください」

うむ、と頷いた牟田は仁科に

「司令は・・・その・・・だいぶ気が立っていたね」

と小声で尋ねた。

「ああ・・・」

仁科は眼をすがめ二人を見た。

「あの人は意外に繊細なんですよ。事故が起こってからずっと一緒に居たのですが、仁科、海の底で、一人死に行くというのはどんな気持ちなんだろうな、海に沈んでいるというのは恐ろしいことなんだろうな、と呟いておられました。まあ、潜水艦には人がたくさんいるから、多少賑やかなんでしょうが・・・。中尉殿も僕も甲標的乗りでしたからね。その点、度胸はあるのかもしれない。たぶん黒木中尉殿は、死を覚悟しても恬淡てんたんとされておられたと思いますよ。樋口君も中尉殿と一緒だったから少しは心強かったんじゃないかな」

「そんなものですか」

風間は呟いた。

「ええ、それに回天は上の期待が大きいですからね。精神的な負担もかかる。色々と大変なんですよ」

仁科はにっこりと笑った。黒木の死は彼にいささかの動揺を与えていないようであった。。

「それでは・・・一三〇〇に講堂で式があります。食事を用意させますからその後でお集まりください」

そう言うと仁科は踵を返して訓練所へと戻っていった。


棺の中には夏菊の花がいっぱいに敷き詰められていた。白と黄色の小ぶりな菊は若過ぎる死を悼むように二人の若者を包んでいる。

隊員と共に外部から参加した者たちも、順番に遺体に手を合わせた。牟田が見た遺体はまるで眠っているような表情であった。死斑もなく、喉を掻きむしった後もない。本当に窒息死なのかと首を捻るほどであったが、おそらく死化粧を施したのであろう。

全員が着席すると、仁科がまず登壇して経緯の説明をした。その上で、

「皆も承知しているだろうが、直ちに回天に関連する技術・生産関係各位にお集まりいただいて、爾後じごの訓練体制についても相談をした」

そう言うと、後方に座っていた牟田達の方に手をかざした。行動に座っていた訓練生が一斉に牟田達を振り向いた。圧倒されるような数の眼差しに牟田は怯んだ。

「そこで」

仁科の張り上げた声に隊員たちは再び壇上に目を遣った。

「訓練用の艇に安全装置をつけることを検討したが、当面技術的には困難を伴うとの結論である。事故の原因究明は殆ど済んだ。今後このような事故を再発させないために実戦用の回天の製造促進を進めることで平時の訓練機会を増やし、夜間あるいは荒天時の訓練を極力控えるとの方向で結論を得た。戦局厳しい折、一刻も惜しい。従って明日より訓練を再開したい」

「承知」

どこからか太い声が叫んだ。

「安全装置不要」

別の誰かが声を張り上げると拍手が起きた。仁科はゆっくりと手で拍手を制すと、司令に向かって

「では、所長より弔辞を・・・」

と板倉の登壇を促した。司令のそれは弔辞と言うよりも演説のように牟田の耳に響いた。御稜威みいつ楠公精神なんこうせいしん八紘一宇はっこういちう七生報国しちしょうほうこく・・・聞きなれた言葉がありとあらゆるところに散りばめられていた。そして最後に、

「起立。皆、黒木に続け。黙祷」

と叫んだ司令の声に隊員たちは一斉に立ち上がり黙祷した。牟田達も立ち上がりそれに和した。解散して散っていく訓練生の顔はまちまちであったが、高揚したように頬を染めている者たちが多かった。

だが表情を消し、静かな面持ちで去っていく者も何人か混じっていた。死を悟った者はそれが近づいていると次第に能面のような表情になる、牟田はそう聞いたことがある。彼らの背後に死神が張付いているような気がし、牟田は思わず目を逸らした。

翌日の飛行機で厚木まで、そこから自動車で東京まで送るという事だったので、牟田と風間は海軍が手配した呉の旅館で泊まることにした。夕食には東京で滅多に見ることがない新鮮な魚貝の刺身が整えられ、仁科が手を回して用意してくれた日本酒も一升、添えられていた。

「こんなものしかないけぇ。すまんこって」

旅館の親父が恐縮したように運んできた夕食は、だからその言葉と裏腹に豪華なものだった。

「地方の方がよほどうまいものが食えますね」

風間が目を輝かしてそう呟き、さっそく箸をつけた二人だったが、やがて

「黒木君は気の毒だったな」

と牟田がぽつりと零した。

「そうですね・・・あれは・・・なかなかきつい」

そういうと風間は箸を置き、黙って一升瓶から直接湯飲みに酒を注いで牟田へ勧めた。自分の分は手ずから注ぎ、二人で黙祷をささげると風間は重い口調で牟田に尋ねた。

「しかし、我々は何で呼ばれたのでしょうかね。脱出装置の話はむこうから、なし、と言って来たんじゃないですか」

「うむ。僕らはうまく使われたのだろう」

「どういう事ですか?」

酒で眼のふちをほんのりと染めた風間が聞き返した。

「黒木君と仁科君は回天の推進者だったからね、そのうちの一人が訓練中に亡くなったという事で部隊内にも動揺が起こるかも知れん。そこで東京から僕らのような技術者を呼んで形だけでも訓練時には脱出させることができないか、検討する形を取ったのだろうよ。結論は決まっているとはいえ、検討もしないというのでは命を軽んじていると思われかねんからね。同時に、部隊や生産基地にも活を入れる・・・。それは司令の方の役割だったんだろう。黒木君の死を無駄にしまいという、おおかた仁科君あたりの発案だろう」

「はあ・・・」

弔事の時、振り返って自分たちを見つめた兵士たちの束のような視線を思い出し、牟田の指は震えた。いずれの視線も自分に語り掛けて来ず無機的なものだった。

目であり、目でないようにも思えた。思わず牟田の指先が震え黒鯛の薄い刺身が箸の先からすべり落ち、取り皿の醤油が跳ねた。

「加藤君は・・・今頃どうしているんだろうな」

低い声で呟いた牟田の瞼の裏に映っていたのは加藤が去った夜の娘、敦子が向けたまっすぐな眼差しだった。思いつめたような強い意志がその視線からは感じ取られた。

二つの、種類の異なる視線の間で牟田の心は彷徨っていた。

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