第6話 1944年8月21日 神奈川 横須賀追浜


追浜にある航空技術廠の廠内しょうないには多くの工員が行きっていた。大半は歳が行って戦場におもむけない男や若い女である。若い男と言えば、海軍の技術佐官か技術尉官で数はそう多くない。だが、そうした少数の将校・尉官たちがこの施設を取り仕切っている。

吹き抜けの天井の高い建物の中は夏でも意外と涼しい。鷲津は片隅にある机の上に昨日大学から借りだした書籍を置くと頬杖ほおづえをついて窓の外を眺めていた。だが束の間の休息は、

「鷲津君、昨日はどこに行っていたんだ?」

という声に破られた。叱正しっせいの声に振り返ってみると、きつい目で自分を睨んでいるのは直属上司の三木忠直みきただなおであった。

「三木さん・・・。昨日は帝大へ資料を取りに行っていました。三木さんも了解くださったじゃないですか」

あ、と三木は目をひるませ、

「そうだったな・・・忘れていた」

と肩を落としたが、かろうじて態勢を立て直すと、

「行先表示くらいしておけ」

と命じた。

「すいませんでした」

上司の肩は疲れ切っていて張りを欠き、目はれぼったい。髭だけはきちんと剃っているみたいだが、髭の剃り跡が青白く、頬にはかさかさになった皮脂が浮いている。着ている服も皺だらけだ。昨日も多分徹夜だったのだろう。

鷲津は立ち上がると名残惜し気にもう一度ちらりと窓の外を眺めた。ゆがんだ窓ガラスは歴代の工員たちの吐き出した煙草の煙でアンバー色に染まっていて、それが三木の顔色を一層悪く見せているようだった。

その三木は先ほどの勘違いから気を取り直したかのように声を張り、

「大田さんが来ている。君も一緒に来たまえ。和田さんと山中さんが呼んでいる」

と言うなり、鷲津に背を向けた。

「はあ」

頼りなげな返事と共に鷲津は三木の後を追った。鷲津が追いつくと、

「で、どうだった?探していた資料は見つかったか?」

前を向いたまま三木は尋ねた。

「はい」

鷲津が帝大に赴いて探していたのは新しい兵器に搭載するロケットに関する資料であった。航空技とはいえロケットに関する資料は少ない。全く研究していなかったわけではないが、それよりも何よりも目の前に積み上げられた飛行機の設計書の山に追われていた。帝大に探しに行ったのは今次の開発に関連する、ロケットの推進装置についてのドイツ語の文献である。

部屋に入ると廠長しょうちょうの和田操が小さな体をソファの中に埋め眉の間をこすっており、その横に山中が疲れた顔を俯けて座っていた。

彼ら正面に愛想のよい笑い顔を絶やさない年の頃三十くらいの男が背筋をやけにぴんと伸ばして座っている。その顔色が他の男たちに比べると妙に輝いている。この時期顔色が良くなるほどの栄養を摂れているわけはないが、気分の高揚が気力を満たしているに違いない。

男は特務大尉の大田正一おおたしょういちであった。三木と鷲津が入ってくると、大田は立ち上がって深々と頭を下げた。その動きは軍人と言うより、戦前に新橋で良く見かけたバーの客引きのように見えた。

「いかがですか、進捗状況は」

甲高い声で大田は入ってきた三木にさっそく尋ねた。

「だいたい思い通りに進んでいますよ。エンジンが不要ですし、きゃくも要らないですからね。ロケットの部分に多少工夫が必要ですが、資材も剛性はともかく耐久性は一段も二段も落としても良いので、木材を活用できます。但しサイズがどうしても大きくなりそのため若干翼面荷重が大きいことが心配ですが、これはなんとかなりそうです」

三木の答えに、大田は酔客が、「じゃ、少し寄って行くか」と答えた時の客引きの表情になった。びるような笑みが表情に貼りついている。

「それは良かった。このところ軍令部からひどく煽られているんですよ。採用の時はあんなに渋っていた癖にいざとなると煽ってくる。お偉方というのはまことに勝手なものですね」

愚痴を言っているように聞こえるが、自分の案が軍令部に取り入れられたとあって得意気な様子は隠しようもない。和田は、こほんと咳を一つすると謹厳な表情を崩すことなく、

「フィリピンの海戦にどうしても使いたいらしい。あちらではだいぶ苦労しているようだ」

と言うとそこに集められた皆を見回した。大田が和田の言葉に何度も頷いている。その様子は鷲津の目に、昔どこかで見たことのある粗雑な作りのカラクリ人形のように映った。そのカラクリ人形が、

「その通りでございます。敵さんはなんといっても物量が豊富だ。こっちは知恵と精神で戦わなければならんですからね」

そういうと、蟀谷こめかみのあたりで人差し指をくるくると回して見せた。ますますカラクリ人形に見えてくる。

「で、最初の機体はいつ頃できあがりますかね?それに合わせて軍令部では部隊を一つこしらえるということらしいのですが」

「そうですか・・・どうだ、鷲津君?」

振り向いた三木に向かって鷲津は答えた。

「再来月の頭頃にはなんとかなるでしょう」

「素晴らしい。僅か二か月で何とかして頂けるとは・・・」

大田の顔が輝いた。

「さすが天下の航空技ですな」

「大丈夫かね、大風呂敷と言うのでは困るよ。ただでさえ航空技の仕事は凝りすぎて、予定より遅れ気味だと苦情が出ているからね」

三木の上司である山中が心配そうな顔で口を挟んだ。

「今度の機体にはさほど凝るところはありません。心配ないと思いますよ。大田さんとも散々議論させていただきましたが推力については、圧搾あっさく空気はやめて火薬にすることにしましたので」

三木の答えに大田はぴょこんと立ち上がった。

「さっそくこのことを上層部に伝えましょう。一式陸攻の方の改造も手配しなければなりませんからね。機体の設計者をこちらに寄越してかまいませんか?」

「ああ、結構ですよ」

三木の答えを聞くなり背を向けた大田に、和田が声を掛けた。

「大田少尉。先ほど申し上げたように、あれは必ず制空権を確保した状態での運用をするように申し伝えてください。一式陸攻は爆撃機としては立派な飛行機だが、今となっては、脚は遅いし機体設計が危険だ。主翼に弾が一発でも当たったら一巻の終わりになる」

「分かっております。必ず伝えます」

大田は答えると、敬礼してそそくさと立ち去った。大田が立ち去ると、その背中を食い入るような眼で見ていた山中が、じゃあ、僕はこれでと言って席を立った。三木と鷲津も和田に礼をして立ち去った。

一人残った和田はまぶたの裏に一式陸攻の姿を思い浮かべた。あらゆる航空機に精通したこの男はそのスペックをそらんじることさえできる。一式陸攻は三木たちが開発している兵器の母機に擬されている三菱製陸上爆撃機である。

新兵器の荷重2.2トンを支えうる飛行機は数少ない。一式陸攻はほとんど唯一の選択肢だった。だが和田の言う通り陸上爆撃機としては優れていても、一式陸攻の動きは決して機敏ではない。空中における戦闘能力は弱く、常に戦闘機に擁護されることを前提として運用されねばならぬ。

その上、一式陸攻は運行距離を稼ぐため、主翼に燃料を入れるタンクが組み込まれている。普通の飛行機であれば、翼に被弾してもすぐにどうという事はないが、一式陸攻の場合はたちまち炎上爆破してしまう。

もともとパイロットを志していたが事故のため諦めて技術士官となった和田には飛行機の運用に特別の思い入れがあった。

「銀河が使えると良かったんだが・・・」

銀河は航空技術廠の山中・三木のコンビが設計した一式陸攻の後継機である。本来、一式陸攻の後継機は中島飛行機製「連山れんざん」であり、8人の乗員を前提とする陸上爆撃機である。その系譜から外れている定員三名の急降下爆撃機「銀河」を一式陸攻の後継機と呼ばない者たちもいる。

だが現実的には爆撃機と戦闘機の特長を併せ持った銀河の方が現在のような局面では使いやすい。アメリカ本土を爆撃するというなら連山のような本格的陸爆機が必要であろうが、そんな局面が今後やってくるようには和田には思えなかった。それに、連山は資材不足でいずれ開発を中断せざるを得ない。銀河こそエース機となるだろう。

とは言うものの、その銀河は生産開始一年以上が経つというのに主力エンジンの不良率が高く、未だに生産が需要に追いついていなかった。設計は航空技術廠で生産工場は中島製作所である。中島製作所の生産力は、設計生産が一貫して行われた一式陸攻を製造した三菱に比べると劣っているようだ。

そうなるといざ新兵器が量産された場合、ストックがある一式陸攻と組み合わせた方が心強い。それに新兵器の爆弾の大きさはあらかじめ1200キロと決められていた。空母級の艦を仕留めるためには500キロでは心もとないという理由である。1200キロの爆弾を擁する兵器を搭載するには銀河のディメンジョンはゆとりがない。銀河の応用は断念せざるを得なかった。

「どうもちぐはぐだな」

和田は呟いた。

それにしても、まさかこの兵器が育つとは思ってもいなかった。後輩の菅原英雄が持ってきたのを深く考えもせずに航空本部に紹介したのがいつの間にか、現実となっている。しかし・・・まさか必死の兵器が通るとは・・・。

首を一つ振ると、昔に比べてだいぶ太ってしまったが戦闘機の操縦士を目指した小柄な体を軽く揺すり和田は機敏に自らの席へと戻っていった。まるで小さな熊のような軽やかな動きである。


鷲津たちが設計している新兵器は、マルダイと呼ばれている。マルは兵器を指し示す略号で、ダイは提案者である大田の「大」の字を取ったものである。のちに「桜花おうか」と呼ばれることになるこの新兵器はロケットエンジンを積んだ空の魚雷のようなものである。

だが・・・、誘導装置の代わりに人間が一人乗り込むというしろものであった。

「本当にあの人、マルダイに真っ先に乗り込むつもりですかね?」

廠長室から戻る途上で、鷲津は三木に尋ねた。

「まさか嘘はくまい。痩せても枯れても軍人ならそのくらいの節操は持ち合わせているだろう。軍令部でもその覚悟を聞いてマルダイの採用が決まったという話だ」

「どうですかね、あの人、他の軍人さんたちみたいな毅然さは欠片もありませんし・・・。そもそもあの人、飛行操縦士ではないみたいですよ」

そうなのか?

三木は立ち止まると眼で鷲津に尋ねた。

「ええ、噂を聞いて調べたんですけどどうやら本当のことです。あの人確かに飛行機には乗っているけど、偵察要員らしいです」

それを聞いた三木は苦渋の表情を浮かべた。

「しかし・・・いざとなればパイロットでなくても突入可能だ」

呟いた声はどこか言い訳めいた響きを帯びた。

「でも訓練は必要でしょう?操縦士でさえ訓練を積まねばならないのですよ」

鷲津は公式の会議でも未だにパイロットという敵性語を使い続けている三木を危ぶむような眼で見た。比較的開放的で、万事鷹揚ばんじおうような海軍でも、戦争が長引くにつれ敵性語である英語を使うことをとがめる風潮が少しずつ強くなりつつある。公式の会議では英語を使うと必ず誰かが睨んで来る。だから、わざわざ操縦士と態々言い換えてみたのだが三木はそれにさえ気づいていないようだった。

「うーん、それはそうだがなぁ」

空を仰いで三木は答えた。特攻のための訓練というのが三木にはどうもしっくりこない。死ぬための訓練なぞ聞いたことがないのだ。三木は疲れを湛えた茫洋とした目で航空廠の高い天井を見上げた。

航空技術廠の中でも特攻機の設計に反対する者たちがいる。それを開発者自身が乗ると覚悟を決めているのだからやってみようよ、と抑えてきたのだが、俺はどうやら嘘を吐かされていたみたいだ。そもそも自分が真っ先に乗るから、と言うような理由に乗って自殺兵器のようなものを開発したのは果たして正しかったのだろうか?

しかし、事ここに至っては引き返すことはできない。三木は我知らず深いため息を漏らした。そのため息を耳聡みみさとく聞きつけて、鷲津は

「三木さん、昨日も徹夜でしょう?少し休んだ方が良いですよ。着替えもなさったら」

心配気に労りの声を掛けた。それを聞いて三木は俯いて自分の身なりを確かめると羞じるように小声で応じた。

「ここは戦地以上に月月火水木金金だからなぁ。戦地じゃ、戦闘の時は生死をかけているが、それ以外は案外のんびりとしたところもあるらしいよ。それに比べるとここは毎日戦争だな。風洞実験が終わったら、君の言う通り少し仮眠を取らせてもらうか」

軍といっても航空技術廠はどこか民間の工場の雰囲気が拭えない。そしてたとえ対象が何であれ、二人とも開発そのものは嫌いではなかった。ロケットを使うというのも新味がある。

「そうですね。ところでロケットのことですが、今後のことを考えるとどうしてもタービンを検討しなければならないと考えているんです」

巌谷いわたに君が命を賭して資料をドイツから持ち帰ってくれたんだからなぁ。その技術は使いたいものだが・・・。で、先だっての疑問は解決したのかい?」

「永野さんと検討中です。大体のところは解けたんですが・・・」

「実用化までもっていくのはなかなか大変だぞ。当面はカンピーニー式の方が現実的かもしれん」

初風はつかぜの流用ですか?うーん・・・それはどうですかねぇ」

予備学生でも出征すれば娑婆しゃばっ気もたちまち抜けるが、技術将校は学生気分がなかなか抜けきらない。大学の実験室における助教と学生のような口調で話しあいながら、二人は実験装置のある方角へ去っていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る