第5話 1994年8月2日 東京 千代田区 海軍省


その三週間前のことである。海軍省の一室では一人の長身の男が、色褪いろあせた黒革の肘掛チェアに座したまま瞑目していた。

男が着ているのは仕立ての良い背広ではあるが、注意深く見ればよほど着古したのか少し肩のあたりで型が崩れていた。つくろい跡のある袖口から覗く白シャツの折り返しも擦り切れている。それでもなお、男のシルエットは一廉ひとかどの紳士であることをしのばせる毅然としたものであった。

部下を呼び、保留させていた書類を出させてはみたものの、それを前に男は長い間躊躇っている。

黒光りするマホガニーの机の上に無造作に置かれた書類は太い指で幾度ももてあそばれたせいか、しわが幾重にも寄っている。

会見の時であれば帝都にある全紙の新聞記者たちを全部入れることのできるほど広い大臣室は男の他に人影もなく、虚しく空気を掻きまわしているシーリングファンのモーター音が微かに響いている。だが、いつの間にかそのモーター音にコツコツという音が混じっていた。眠たげに閉じられていた眼を開け、それが自分の中指が机を叩いている音だと気付き男は苦笑した。子供の頃にさんざん親に直された癖である。怒った母に竹の定規で叩かれたこともある。

癖は治った筈だがいざという時に、どうやら体の奥底の記憶が呼び戻されるらしい。奇妙なものを見るような目つきで右手の中指を眺めると、男はそれを左手で押さえ込むように覆った。そして、

「しかし・・・井上君の来る前に決裁せねばな。これを見せれば彼は確実に反対するだろう。それに・・・人事局、教育局への通達も早急にせねばならん」

と独り言を呟き、書類を再び手に取ると目を走らせた。

走らせたと言っても僅か三枚の用紙である。

しかし何度読んでも、同じ個所で目が止まってしまう。男は三日後に新しく着任する次官の、気の利かなさげな面構えを思い浮かべた。次官は頼もしい味方である。この件を未決放置することで彼と齟齬そごをきたすようなことがあってはならない。男はそう決めている。だからこそ決裁の書類を出させたのだ。なのに署名の筆はなかなか動かない。


戦争における闘いは一つではない。

この国を滅ぼさないためには今、真正面に対峙している戦争と共に、どうしても屈することのできぬもう一つの闘いがある。それを制せねば・・・。日本は維新前どころか、ゲリラが跋扈ばっこするフィリピンのようになってしまうだろう。国体を護持するどころか、神代かみよから続くすべての伝統はずたずたにされてしまうに違いない。

以前、総理大臣を拝命しながら陸軍の横やりで倒閣の憂き目を見た時、男はその事を痛感した。彼らは国を守るという口実で国を滅ぼしかねぬ。

日独伊防共協定をどうしても実現させようとする陸軍に男は徹底的に反対したのだが、陸軍は大臣、畑俊六はたしゅんろくを辞任させ、新たな大臣を出さぬと通達してきたのである。

結果、男は総理大臣の職をなげうたざるを得なくなった。そして日本は戦争へと突き進んで行ったのである。辞任をするとき、男は取り立てて怒りもしなければ、それを表情に表すこともしなかった。だが、その時平静な表情の裏で休火山の如く男のはらわたは煮えくり返っていた。


現役の将官でなければ軍部大臣が務まらぬという制度は思いのほか有効で日本の政治をあらゆる局面で翻弄し、海軍とてそれを用いて東條内閣を倒したことには違いない。海軍と陸軍はあらゆる面でイニシアティブを握るために裏で闘いを続けていた。そのために時には政治家や皇族と結び、あるいは敵対をする。その思惑の中で政治は常に過激な方向へ動いていった。陸軍は屡々しばしば思いもよらぬ手を用いて海軍を黙らせようと工作を仕掛けてくる。

男にしても一度予備役に退いたのに、海軍大臣として舞い戻るために将官に復命したのだから融通無碍ゆうづうむげそしりを受ける覚悟もある。だが、決心してこの職を引き受けた以上、今度こそはその戦いに負けるわけにはいかなかった。

 寝たふりをしても動くや猫の耳

 総理を辞して麹町の自宅に閑居していた頃、日光に旅をして眠り猫を見た時に男が詠んだ句である。

世間に関わろうとせず、猫のように気ままに生きているようでありながら、男の耳は常に聡く国内情勢や世界情勢を探っていた。戦局の悪化で東條が立ち往生した時、乞われて復帰を果たすことになったが、復帰を乞うた人々の思いが那辺なへんにあるかはともかく、職を引き受けた男の真の目的は終戦への道筋をいかにつけるかという事のみだった。

その自分がこのような書類に署名をする羽目に陥るとは・・・。再び苦笑いを浮かべると、漸く男は筆を執り、かっと目を見開くと

「海軍特修兵令左ノ通改正ス」

で始まる僅か三枚の紙の二枚目、海軍大臣と書かれた墨の下に署名した。この書類もさほど日の立たぬうちに裁可が降りるだろう。要員の確保はすぐに始めねばならん。だが・・・まだ間に合うだろう。陸軍に先んじられることはない。

十六 特攻術 掌特攻兵

と記されている三枚目の紙にもう一度視線を落とし、男は署名の墨が完全に乾くほど長い間、それをじっと見つめていた。

なんとしても間に合うように手配せねばならん。しかし、果たしてそれを成すことが本当に正しいか?

綴じられた紙の上に、

海軍大臣 米内光政

墨痕鮮やかに男の名が記されている。

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