第12話 1944年10月21日 フィリピン マバラカット
翌日、敵艦隊の出現の報を
その中でただ一機、久納好孚中尉の乗る零戦だけが戻ることがなかった。
「大和隊の一機が戻らなかったそうです」
翌二十二日レガスビーから戻った敷島隊の面々が集まっている関の部屋に戻ってきた
「誰の機だ?」
「久納分隊長」
簡潔な答えに関の目がすっと細められた。久納、聞いたことのある名前だ。記憶をまさぐった。
久納・・・。そうだ、あいつだ。有馬少将の死に直掩をした奴が確かに久納という名の大尉だった。直掩の癖に自分も突っ込めばよかったなどとほざいたので引っ叩いてやった時の記憶がありありと蘇る。
「戦果は?」
問うだけ無駄である。もし戦果が上がっていたなら今頃、基地は大騒ぎのはずだ。
「分隊長の飛行機は航路を逸れて他の二機は見失ったそうです」
「じゃあ、だめだな」
横になっている永峰が呟いた。安堵の響きが混じっていた。どうせなら特攻の最初の成果は敷島隊であげたいと、ここにいる誰もが思っている。死を目前にしてもそんな意識があることの不思議さに誰も気づいてはいない。
「久納中尉は敵艦をみつけられなかったらレイテまで行っても必ずぶつけるとおっしゃっていたそうだぞ」
腰を下ろしながら中野が言うと
「だが、確かめようがない。確かめようのないことはないことと同じだ」
永峰はぶっきらぼうに答えた。
「不時着か、戦闘で負けたか、あるいは墜落か・・・」
「分隊長は四百位しか乗ってないが、腕はいい筈だ。機体の整備次第だが墜落ということはないだろう」
そう言った関の言葉に
「なら・・・グラマンにでも撃ち落されたんですかね」
永峰が身を起こして答えた。四百と言うのは累積の飛行時間が四百時間という事である。兵学校で鍛えられたものにとっては決して多い時間ではないが、予備学生としては十分多い方である。燃料不足の今、とりわけ内地では飛行訓練を行うにも飛行機も燃料もないので四百もなかなか稼ぎだせる数字ではなかった。
「ですが、士官の中に久納中尉は特攻を
山下の発した言葉に一斉に皆が山下を向いた。どの顔にも驚愕が貼りついている。
「まさか・・・」
永峰が呻いた。
「そんな馬鹿なことがあるか。アメリカさんだけじゃなくて日本まで敵に回すことなんかできるわけがない」
諭すように言った谷に向かって山下は口を尖らせた。
「ですが、久納中尉は再三、直掩を辞退したそうです。直掩機がいると逃げられないからだろうって言っている奴らも・・・」
バタンと椅子の倒れる音がするのと山下が関に壁に首を吊るすように押さえつけられたのは同時だった。
「んな訳なかろう」
血走った目で見据えられた山下は足をばたつかせた。
「やめて下さい、隊長。死んじまう」
駆け寄った中野の前で山下がどさりと音を立てて地面に落ちた。床に這いつくばるようにしてぜいぜいと荒い息をしている。
「あいつは有馬少将の直掩をやったんだ。直掩の辛さを身に染みて知っているんだよ。だから直掩なぞ要らんと言ったんだ」
そう言うと関は扉を思い切り蹴った。重い音がして不承不承と言ったように扉が半分ほど開いた。
「あいつはな、突っ込んだよ。必ずな。戦果があろうとなかろうと突っ込んだことは間違えない」
そう言い捨て出ていった関の後姿を残った者たちは呆然と見送っていた。同じく特攻隊に命じられても爆装零戦に乗る者と掩護機に乗る者の運命は違う。それはあの夜、眠れずに起きていたものたちが
爆装に乗った者は死ねと命じられ、直掩の者たちは生きて戦果を報告することを求められる。死ぬことを求められる者と生きて帰ることを求められる者がチームを組むことの難しさは微妙に隊員たちの間に陰を落とす。
だが、では直掩の者たちは幸運かと言えばそうとも言いきれない。直掩とは僚機が目的を完遂するのを掩護するために相手と直接の戦闘をすることを示す。特攻の場合、掩護と言ってもその目的は自分の同僚が死ぬのを、命を張って確かめるためなのだ。
久納があの時発した言葉はその辛さを言ったのだ、と関は思う。あいつはその意味を実地で確かめされたのだ。
それに直掩を命じられたからと言って一度で済むとは限らない。腕っこきの操縦士なら二度・三度と命じられることになるだろう。次に機に乗り込むときは爆装だっていう事もありえる。爆装と直掩は縄の目の如く対立し、尚も固く結びついていた。
関たちには直掩を拒否する自由は与えられていなかった。直掩する操縦士も残っている者たちの中で腕の立つ者ばかりだ。敵の戦闘機が上がっても何とか自分たちを掩護して、その上基地に戻って来られるだろう。それだけの布陣を引いたのは、自分たちが成功すれば大々的に宣伝に使うためであろうとは、関もうすうす気づいている。
それは関をひどくやるせない気持ちにさせていた。
建物の外で一人、基地の上に浮かぶ雲を眺めながら、ああ、雲のように自由に空に浮かんでみたい、関は切実にそう思った。せめて死ぬときは自由でいたい。
残された者たちは関の部屋で暫く動かなかった。やがて谷が、山下の倒れている場所の近くに跪いて
「大丈夫か、喉?」
と声を掛けた。
「ええ、喉仏にはくらわなかったんで」
言い終えた途端に再び激しく咳き込んだ山下に肩を貸して助け起こした谷は
「隊長、だいぶぴりぴりとしているな。山下、気にするな」
と山下の肩を叩いた。
「でも、おれ・・・叱られてよかったです」
山下の言葉に部屋にいた者たちが皆、
「だって、もし俺が、万一にでも行方不明になって久納中尉のような陰口を叩かれたら・・・」
目を逸らすようにして頷いた中野と黙り込んだ永峰を見て、谷が
「俺たちには腕のいい直掩がついているじゃないか。早く会敵して戦果を見届けさせてやろうぜ」
と明るい声を出した。
敷島隊は翌々日の索敵でも成果を上げることはできなかった。天候不良のために帰投した彼らを見て基地内ではひそひそと噂話が囁かれ始めた。
「関たちは臆病風に吹かれたんじゃないか」
そんな同僚たちの目は敷島隊の隊員たちを更に追い詰めていった。
またも艦隊を見つけることが叶わなかったという報告を受けた玉井は、関をじっと見つめ僅かに頷いた。
「そうか・・・二十五日、栗田艦隊と西村艦隊がレイテ湾に侵入する予定だ。それまでに何とか」
その言葉に頷くと、関は黙ったまま踵を返した。
もはや死ぬことを強要されているというより不運と無能を嘲られている、針の
十月二十五日。
その日の出撃で山下の機は発動機の不調で突撃を見合さざるを得なかった。だがあらたに敷島隊に加わった
「いくぞぉ」
無線から僚機に届いた関の声は激しい雑音の中で、奇妙に高く明るく響いた。隊長機の翼を振る仕草を合図に五つの機影は
敷島隊の直掩機がセブ基地に戻ったのは昼過ぎ、それを視認した守備兵が中島飛行長に報告した時、中島は胃がきりきりと痛んで昼食を取るどころではなかった。
既にその日の十時少し前、菊水隊の二機が敵空母に突入している。直掩機から報告を受けたその事実を一航艦に直接報告しなかった理由は自分でも良くわからない。だが、あえて発信基地のダバオにある六十一航戦に中途半端な形で報告したのは今日こそ敷島隊の戦果が上がるような気がしてならなかったのである。もし、敷島隊が成功したならそれを第一の戦果として報告しようと考えたのは
急いで立ち上がると中島は窓の外を眺めた。零戦の機影はどんどん近づいてくる。それが爆装でないことを見て取ると、思わず手を合わせた。つんのめるようにして止まった三機の直掩機から降り立ったパイロットは転げ出るように地面に降り立つと、基地の建物に向かって走り出した。
スルアン島ノ三〇度三〇浬 中型空母四隻ヲ基幹トスル四隊ノ敵ヲ一〇四五攻撃
戦果 空母一隻二機命中轟沈 空母一隻一機命中火災停止 軽巡一隻命中轟沈
マニラの司令部で中島からの電文に目を通した大西は目を
遅かった・・・。
大西の本能はそう囁いている。
前日「武蔵」を失った本隊からも、機動隊の小沢艦隊からも電信は途絶えていた。
敵艦隊をひきつけるために出動した
大西の本能が囁いた通り、その日の朝、栗田艦隊は
栗田艦隊の戦線離脱を批判する者もあるが、空から一機の掩護もなくただひたすら叩かれまくっている栗田艦隊にも言い分は山ほどあったのであろう。
あと一日早ければ・・・
だが、あいつらは見事に死にどころを見つけ、そして潔く散ったのだ。
「行かせた甲斐があった・・・」
思いが自然に唇から漏れたのを大西は気付かない。
レイテの作戦は失敗だ。守るべき艦隊はこの地から離れるか、或いは海の底に沈んでしまっている。これ以上、特攻を続ける意味はなかろう。
目を瞑った大西の口から出た言葉は、だが、その思いとまるで違う言葉だった。
「これでなんとかなる・・・」
ここで止めれば、死んでいったあいつらの命は何になる?大西の中にとどまった鬼は囁いた。
無駄死にか?
大西の心の基準は人と少し違う。
海軍大学校の受験前日に芸者の態度に怒って殴りつけ、その芸者が地元のやくざに泣きついたせいで受験資格を取り消されたのだが、それを聞いても平然としていたという話は有名である。
中国で同期の
「俺は参謀長でいいからお前が指揮をとれ」
と指揮権をあっさりと譲っている。
軍需省に出向になった時も、航空兵器総局司令の席を陸軍からやってきた二歳年下の遠藤中将にさっさと譲って自分は部長に落ち着いた。
大学出でなかろうと、部長を陸軍出向者に譲ろうと、己の力があれば切り開くことができるという信念、つまらない地位を争うより譲ってしまって逆に恩を売るという政治的思惑、さまざまな思いがあったのかもしれない。
しかし、軍隊とは上下関係が厳しい。上位にいるほど権限が大きく、贅沢もでき、その上安全である。従って、たとえ兵卒から入るものでも上に上がろうと必死になるのが普通であった。大西のそんな態度を兵学校の卒業者たちは怪訝な目で眺めていた。そのうちの何人かは大西の態度が
大西は自らの生死に関しても
横須賀航空隊に入隊し日本の航空機の
日支事変の頃爆撃機に乗っていた大西はつねに編隊の
「どうだった?」
と尋ねた大西は彼が
「恐ろしくてヒヤヒヤしました」
と答えるとにやりとして
「貴様はえらい。おそろしいという自意識がある」
と応じたという。
後にルソン島で待機する特攻隊員を見舞いに行った時、敵の空襲を受け逃げ惑う玉井や副官の門司大尉を、大西は特攻隊員と一緒に
だが、死に恬淡としていた彼にも生死にかける一つの基準があった。
ひとことでいえば、正しく立派に生きること、正しく立派に死ぬこと、である。そして、それを自らの生き方の基準にするばかりでなく、人や国の在り方に重ねた。例え戦死するのでも、立派に死なせてやりたい。国が戦争に勝てぬまでも立派に闘い通すべきである。
それを自ら貫き通そうとするところに大西の死への恬淡さが滲み出る。
そして、それを他人に重ね合わせる時、大西には悲しみが残る。人の死を目前にして大西は人情家になる。
ただ、その大西の考えを受け入れる者もいれば、疑問に思う者もまた多くいることに考えは及ばない。例え及んでいたとしても、いずれ彼らも分かってくれよう、と考える。もちろん、現実はそうではない。
その大西の心は、今、自ら命じた特攻で死んでいった若者たちの死を前に静かに
突如、大西はかっと眼を見開いた。
続けるのだ。一兵たりとも残さずに。その先にしか日本の未来はない。
「これでなんとかなる」
大西の食いしばった唇から噴き出すように発せられた言葉に驚いたように振り向いた副官に大西は電信を手渡し、
「これでなんとかなるぞ」
と声を励ました。だがその時大西からすっぽりと抜け落ちたものがある。
特攻を決めた時、それはいったい何のための特攻であったのか・・・。レイテを奪回するために取った非常の戦術ではなかったのか?
当初戦術として求めた特攻は
「これでなんとかなる」
という言葉が発せられた時、
特攻兵器というものがその時既に秘密裏に陸海双方の軍で研究開発されていたという事実があったにしろ、また国民がその犠牲的精神を讃えたということが特攻の出現に寄与したにしろ、特攻の
そして同時に戦術としての特攻は背後に押しやられ、国家に対する犠牲的精神という、精神論を背景にした特攻戦法が戦場に現出したのである。
大西は戦果を東京に打電させるとすぐに福留中将のいる部屋へ急いだ。
通常戦闘で犠牲を増やすばかりの二航艦と、僅か五機で敵艦三隻を葬った特攻とを比べればさすがに頑固な福留も頷かざるを得ないだろう。そう大西は踏んだ。
だが、福留はそれでも首を縦に振ろうとはしなかった。ただ、それまでと違ってにべもないという様子でもない。心が揺れているのだ、と見た大西はぼそりと呟いた。
「敵に動きを読まれている。台湾の爆撃も司令長官がそこにいると知って爆撃してきおったのだ。だが特攻は・・・、福留、敵に読まれておらんぞ」
一瞬、福留は、何を言っているのかと大西の顔を見たが、その意味することを悟ると一瞬にして朱に顔を染めた。
海軍乙事件というのがある。
甲乙の乙で、甲事件は昭和十八年四月山本五十六連合艦隊司令長官がブーゲンビル上空でアメリカ空軍に撃墜された事件、乙事件は山本五十六の後を継いで司令長官に就任した古賀峯一が翌十九年三月末にミンダナオ島ダバオに向かう途中で低気圧と遭遇し行方不明になった事件を指す。
二代続けて日本は連合艦隊司令長官を戦場に失ったわけだが、乙事件には続きがある。乙事件の際、古賀司令長官を乗せた一号機は行方不明となったが、参謀長の福留が乗っていた二号機は幸運なことに嵐を乗りきってセブ沖の海面に不時着した。泳いでなんとか島にたどり着くことができた福留以下九名は地元のゲリラに捕らえられ、重要書類および暗号書を奪い取られた。米軍と通じていたゲリラはなぜか福留らの命を奪うこともなく、また対価を求めることもなく解放した。
そもそも敵の捕虜になったら死ねと命じていた上官たちがおめおめと戻ってきたことも問題なら、機密書類を奪われたことも大問題であったが、海軍首脳は福留らが捕虜にならず捕縛されただけという奇妙な理屈をつけて福留らを裁判にかけることも
福留に至っては台湾を拠点とする第二航艦の司令に任じられたのである。
その時失われた暗号書や機密書類は実際に連合国側の手で解析されていたが、この時点ではまだ日本側はそれを知ってはいない。しかし、大西の言葉で万一自分の奪われた書類で敵が自分たちの行動を見通しているなら、と福留は考えざるを得なかった。
戦闘に明け暮れているうちにいつの間にか水底へと沈没していたはずの自らへの疑いは大西の言葉でサルベージされてしまった。確かに豊田が台湾に来てすぐ台湾への猛攻が始まり、今福留の行っている攻撃への対応も、敵機の出現が妙に手際良い。
「特攻は暗号にない」
大西の言葉に福留の表情は凍り付いている。三十秒ほどの沈黙の後、福留は頷いた。
大西はいつもの通り主導的立場を取ることに固執しなかった。
「あなたが指揮を取れ。俺は幕僚長でいい」
二人の間に沈黙が支配している。福留の表情は蒼白だったがどうやら決心は固めてくれたようだった。
これで良い・・・。大西は福留の引き攣った蒼白の顔から眼を逸らすと司令官室の窓から見える大空に目を遣った。
万一、東京から特攻を止めよ、との指示が来たら、それは軍令部からでも海軍省からでもあるまい。帝の言葉であろう。その時は、一機、俺が乗って敵艦にぶち当たる。
後は福留が何とかしてくれるだろう。
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