第16話 1944年10月30日  東京 海軍省


海軍省は千代田区霞が関の煉瓦れんが建てのビル一棟をまるまる占拠している。その二階に、一つ部屋を隔てて大臣室と次官室がある。

新大臣・新次官が就任してからというもの、平生へいぜいはどちらの扉も開け放たれていたのだが、その日の午後、珍しく大臣の部屋の扉は閉ざされていた。

井上成美いのうえしげよし海軍省次官は締め切ってある扉の前で首を傾げると、日焼けした腕でドアをノックした。日焼けしたと言っても袖から覗く腕の部分だけで手の甲は白い。江田島の兵学校で校長を務めていた時に白手袋をめ続けていた名残である。

「入り給え」

中からバリトンの声が響いた。

「失礼します」

井上が部屋に入ると米内海軍大臣は背を向けて窓の外を見ていた。

麻生あそう君。君、少し席を外してくれないか」

米内が言うと、若い秘書官がさっと立ち上がり米内と井上に黙礼をして部屋を出ていった。米内はそれを確かめるように振り向いたが、立っている井上の姿を認めると再び窓の外に視線を転じた。

「次官。きみ、昨日の新聞を読んだかね」

背を向けたまま米内が話しかけてくるのは珍しいことだった。

「特攻の記事ですか?」

記事が特攻を大々的に報じたのは最初の戦果が確認された日から四日後、十月二十九日の日曜日のことである。

井上は新聞を手にした時のことをまざまざと思い出した。

神鷲しんしゅうの忠烈、萬世ばんせいに燦たり」

太字の見出しの下に、所属と共に五名の隊員の名前が記され、隊長の関行夫の写真が載せられていた。海軍航空隊の軍人らしい、負けん気の強い顔が新聞の一面から自分を睨みつけてきたように思え、井上は思わず手から新聞紙を取り落としかけた。

気を取り直して目を通すとそこには幾つかの伏字ふせじがあるものの、連合艦隊長官布告文がそのまま掲載されており、その横に「両頬に静かな微笑」とか、「日一日寡黙に輝き増す瞳」などといかにも軍令部発表らしい美辞麗句びじれいくがちりばめられている。

敷島隊による護衛空母セントロー号の撃沈は、確かに黒星続きの海軍にとって多少なりとも留飲を下げるものであった。だがダバオ水鳥事件・台湾沖海戦の誇大戦果報告、それが起因となった捷一号作戦の失敗と立て続けに脆さを露呈した前線の状況に井上は頭を痛めていた。

西村艦隊は司令を含めて全滅、小沢艦隊も殆ど全滅し空母はもはや一隻も残っていない。レイテ奪還を目指していた栗田艦隊は新鋭戦艦の武蔵を失い、今敗走のさなかである。特攻に沸き返る一部の軍人と国民に井上は苦々しい思いを抱いてさえいた。戦局はますます悪化している。もはや海軍の保有する艦の保有数では艦隊と呼ぶことさえ難しい。空母は一隻もなくなったのだがそもそも空母に搭載させる艦上機が殆どないのが実情である。航空機のない空母は無用の長物で、航空機のない艦隊は敵機の格好の目標物でしかない。

だが艦上機を備えた空母を持たずば・・・。

たとえ戦艦「大和」が富士山より高い砲撃を撃ちまくろうとも、蜂の群れのように湧き出てくる敵機や、イルカの群れのように統率のとれた潜水艦の攻撃にさらされ、いずれ沈没は免れない・・・。それが分からぬか?


特攻の布告については海軍内での取り扱いで多少もめた。通常の戦死と同じ扱いにせねば前線で戦う他の兵士の士気をくじくだろうという議論も強く、井上はそちらにくみしたのであるが、大臣のところにもっていくと、

「事実はきちんと述べるように布告せよ。特攻であることもだ。但し、麗々しくする必要はない」

との命であった。海軍省による特攻の布告は二十八日土曜日に、軍艦マーチ抜き、「海行かば」の粛々たる演奏とともに淡々と報じたのである。軍令部が新聞各社に特攻の成功を大きく報じるように指示し、従来の方針通り勇ましいニュースを流したのと対照的であった。

だが特攻の成功は初期的には収支はトントン、長期化すればむしろマイナスだ。当初は、遂にここまで来たかと気を引き締める兵士もいるだろうが、特攻が常態化すれば士気はどんどん落ちていくだろう。高揚は一瞬であり、身近になっていく自らの死を直視し続けていくことはどんなに精神力の強い人間にとっても難しい。兵士を弾丸のように消耗すれば、おかしいと内心考え始める兵士が出てくることも想像に難くない。恐怖に耐えかねた人間は脱走を試みるか、恐怖にさらされ続けるより死を願うだろう。

井上には米内がこのまま特攻を続けるのを認めることはないだろうと踏んでいた。大臣がそのようなことを理解していないわけがない。

だが米内と特攻について話したのは布告の件の時だけである。どうも大臣はそのことについて自分と話すことを避けている様子で、井上はその事を奇異に思っていた。

「そうだ」

「ずいぶんと麗々しく記事を書いてある。想像以上です。国威発揚こくいはつようの効果はあるようですがね・・・」

「それが、国民が抱く思いなのだろうね・・・」

米内は呟いた。

大本営発表が欺瞞に満ちていると国民はうすうす気付き始めている。それでも戦果が上がったと聞けば喜び勇む。妙な話であるがそれが実態だった。フィリピンは間もなく陥落を余儀なくされるだろう。転進というあいまいな言葉と共に・・・。

井上は思っていたままを米内に述べた。

「戦術としてやむ得なかったのかもしれませんが、あれは地獄の扉を開いたようなものです」

続けようとした井上を遮るように米内が

「君を呼んだのはそのことだよ」

と振り向くと、

「まあ、腰かけたまえ」

と椅子を指した。その眼差しに深い憂いが浮かんでいる。井上が黙って腰かけると、米内も静かに大臣の椅子に座った。

「君には、特攻に反対せんでほしいのだ。むろん賛成しろと強要はしない」

井上は唖然あぜんとした。まさか米内がそんなことを言い出すとは思っていなかったのだ。米内が特攻兵器を承認したことは承知していたが、前海軍大臣のお荷物だよ、使わずに済めば越したことはない、と言った米内の言葉を鵜呑みにしていたのである。

「お言葉ですが九死しても一生を残すというのがわが海軍の伝統ではないですか。緒戦はやむをえまいとしても継続すれば海軍はいずれ潰れますぞ」

井上は唾を飛ばし激しく言い募った。

「わかっている」

米内は頷いた。

「だが、君にはほかにやって貰うべきことがある。特攻をうんぬんしてそれを君が果たせなくなることの方が困るのだ。君が反対だという事はこの米内が胸の内に確かにしまっておこう」

次官に就任して早々、あらゆる報告を検討した結果として、井上はこの戦を早く終えねばならぬと結論付け、そのために一人の男に命じて終戦の研究を始めた。そのことは米内と及川だけに了解を取っている。

米内は井上がその事を申し出た時、にやりと笑って頷いた。まるで自分がそう言いだすことを予期していたような笑いだった、と井上は思っている。嵌められたのかもしれないが、そういうことなら喜んで嵌められてやろうと考えた。

だが敗戦とは言わぬが、終戦をもくろんでいるというだけで陸軍や海軍の一部から命を狙われることは確実である。ここで更に特攻反対を唱えれば、腰抜け次官とあざけられるだけではすむまい。次官を首にせよと圧力もかかるだろう。

下手をすればお前の命はない。しかし、命を散らす前にやれべきことがあるだろう・・・。

大臣はそうおっしゃっているのだろうか?

井上がめまぐるしく考えていると、米内はぽつりと言った。

「今朝、参内さんだいしてきた。主上しゅじょうからは大変なお叱りをいただいた。そこまでせねばならぬか、とね。だが同時に前線の兵士はよくやったと仰られた」

「そうでしたか・・・」

米内が天皇の全幅の信頼を受けているのは、誇大に戦果を報告せず、現状を糊塗しないことだけではなく天皇の気持ちに常に寄り添っているからであった。赤心せきしんの忠誠と言うのはこのことを言うのであろうな、と井上はかねてより思っている。

よくやったと言われた以上、止めるわけにもいかないのだろう、井上はそう理解した。それよりも早く終戦に向けて進めてくれと言うのが米内の意思なのだ。そのためには特攻の件でつまずくな、という事なのだ。米内の胸の内では特攻を止める事よりも優先度が高いものがあるという事は確かだ。

「わかりました。一刻も早く終戦の研究を進めます」

「頼む」

米内は深々と頭を下げた。さすがに井上も驚いて、いえいえ、と制するように手を振ると、

「ですが、兵を見殺しにする風潮が海軍に感染しないようにせぬと・・・。陸軍上層部においては兵が死ぬほど国体が護持されると勘違いしているものも現実におります」

海軍もインパールの悲惨な撤退は把握していたが、その戦いについて陸軍内でそうした趣旨の発言が出たと聞いている。米内は頷いたが、

「だが今は戦時だ。戦時だから非常のことも考えねばならない。国体の護持はわが国においては政治に欠かすことのできないものなのだよ。そうしたイクストリームな意見も、あながち否定すれば国体の護持そのものを否定すると受け取られるのだ」

と諭すように言った。

「とはいえ国体を護るために必死であっても人柱となれ、などという国に対してね・・・」

米内は訥々と続けた。

「敵の中にも早めに和平を唱えるものも出るかもしれん。だが、さもなければ厚生大臣の広瀬君が言うように、彼の国はまるごと日本と日本人を消すしかないと考えるかもしれぬ。国を守るためにというならばともかく、今次の戦争はこちらから拳を振り上げたわけだからね。だが・・・」

日本と日本人を消す?さらりと米内が口にした言葉に目を見張って見つめた井上に向かって、米内は、あ、いや、と首を振った。

「言葉のあやだ。だが黄禍論おうかろんというのは現実に唱えられたし、今もなお存在している」

黄禍論は今、日本が手を結んでいるドイツのヴィルヘルム二世がかつて唱え始めたものだ。それが形を変えアメリカでは排日移民法という形で政治化している。とりわけ日本を脅威としてとらえ始めたアメリカでは黄禍というより「日禍」とさえ言ってよい。それが極端になれば、行きつく論としてそんなことを考える人も出てくるだろう、と米内は言った。一方で、日本は国体の護持というまるで噛み合わない話をせざるを得ん・・・。

「国体の護持と一言でいうが、いろいろな考え方があるようだ。皇統が維持されればよいとか、今の主上がそのまま帝としてあらせられるべきだとか、いや精神としての日本人の在り方は一切捨ててはならんとか・・・それぞれの考えで守るべきものも変わってくる」

「大臣は・・・どうお考えなのですか?」

井上の問いに米内は暫く考えると、口を開いた。

「僕はね、陛下のお気持ち次第だと考えているのだ。陛下が最後の一兵まで戦え、それこそが国体の護持に必要だとおっしゃるならそうして差し上げたい。だが、陛下はそう考えておられないんじゃないか、と思っておる。だからこそ戦争の終え方を研究しておかねばならん」

「ですが、特攻などを続けたら、連合国側の感情がますます悪化するのではありませんか?」

井上の言葉に米内は微かに頷いた。

「それも考えざるを得ない。だが、やむを得ん。肉を斬らせて骨を断つ・・・という事もある」

米内の言葉の意味を捉えかねた井上が、口を開こうとすると米内は、まあまあと笑みを浮かべ、

「まあ、僕も金魚大臣とか、ぐづ政とか悪口を言われようが暫く我慢するよ。君も我慢してくれたまえ。文句があったらこの米内がいつでも聴こう」

と手で制した。生煮えの気持ちのまま、大臣室の扉を閉め、辞そうとした井上に向かって

「開け放しておいていいよ・・・それと麻生君を呼んでくれ」

と米内は声を掛けた。話しづらいことを言い終えた時のさっぱりとした口調だった。井上は麻生に米内の言葉を伝え、次官室に戻ったがすぐに自分の秘書官に、

「ちょっと高木君のところに行ってくるよ」

と言うと将官とは思えぬ素早い足取りで階段を降りていった。


高木惣吉たかぎそうきち少将は変わった経歴の男である。

家が貧しかったため、中学も出ないまま東京に出て製本所の工員として働き始めたのだが、そのあまりに単調な生活に飽き足らなくなり通信制で中学卒業資格を取って物理学校に入り、その後海軍兵学校に転じた。成績が優秀であったため海軍大学校に進むことを許され、在学中には首席にもなっている。

兵学校を出た以上、体は頑健な筈なのだがどこかで無理がたたったのだろう、肺と胃を患い、前線に出るのはおろか乗船歴も殆どない。

他の凛々りりしい海軍の将官に比べ自分の容貌にも経歴にもコンプレックスを覚えている高木だったが、持ち前の頭脳と明るさで海軍や陸軍に限らず、政界・経済界にも知己が多い。ブレーントラストという組織を作り、シーメンス事件で失脚した加藤友三郎以来海軍に根強くはびこる政治アレルギーを克服しようと努めているのもこの男である。高木こそは海軍の隠された頭脳だと井上は評価していた。

次官に就任すると教育局長であった高木に特命を与え、終戦の研究をさせるために教育局長を免じたのは井上の裁量であった。海軍内では、高木は失言が過ぎて左遷されたと思っている者も少なくない。

高木の扉はいつも閉められていて、不在の時は鍵がかけられている。扉をノックして、

「井上だ」

と言うと、中から高木が扉を開けた。何か作業に没頭していたのであろう、いつもは海軍士官らしく整えている髪はかきむしったように乱れていた。

「どうなさったのですか?突然」

いや、と言いながら扉を閉じると井上はさっき会ったばかりの米内との会談の内容をざっと高木に話した。話を聞きながら何度か頷いていた高木は、話をし終え、どうかね、と尋ねた井上に向かって

「ふーむ」

と長い吐息をついた。

「実は鉾田から妙な飛行機がフィリピンに向かったという話を聞いたんです」

「・・・・第四航空軍か」

ええ、と高木は頷いた。第四航空軍と言えば、富岡が差配を振るっている部隊である。井上は苦い顔をした。東條の側近として横暴に振舞っていた富岡を好きな海軍士官などいない。

「必死の兵器というのを今年、東條と嶋田さんの間で作ることが合意されたらしいのは井上さんもご承知でしょう」

「ああ」

震洋しんようという名の爆載ボート、桜花と呼ばれる爆装式のグライダー、そのほか幾つかの必死の兵器が自分の就任前に海軍内で承認されていたことは後で知った。米内がそれを「新兵器」と呼んでいるのも承知している。

「陸軍は飛行機に爆弾を固定したものを作ったらしいですよ。それで艦船攻撃を行う、その為だとも」

「・・・」

なるほど、陸軍の考えそうなことだ、と井上は思った。もし陸軍が先に特攻に成功していたならば海上防衛を主務とする海軍は何をやっているのかという声が国民から上がるのは間違えないであろう。

「鉾田から飛び立ったのはそれだというのかね」

「おそらく」

高木は頷いた。

「大西さんは陸軍の動きを察したのでしょう。あの人は陸軍の一部や政財界にも顔が広い。もっとも面子めんつはどちらかというとゲテモノ食いの感がありますけどね」

「なるほど・・・ね」

「陸軍にイニシアティブを取られたら、いかに自分でも海軍内の跳ねっ返りをおさえることはできない、そう大臣はお考えになったのではありませんかね。新兵器はまだ準備段階みたいですし」

「大臣は嶋田さんのケツを拭く覚悟だというのか・・・」

はい、と頷いた高木は

「米内さんの敵はアメリカだけじゃない、陸軍や軍令部の一部、それどころか海軍省内にもいますからね。特殊兵器は陸軍の思惑で東條・嶋田で決めたもので海軍主導で決めた話ではない。ですが海軍内に賛成者が多いのも事実です」

「・・・だが、最初に特攻を始めたことで海軍や大臣に傷がつきはしないかい?」

井上は眉を顰めた。

「今の様子では心配ないでしょう。それにあの様子だと大西さんは軍令部や連合艦隊にも事前に話をつけている筈です。次官や私は蚊帳の外におかれているようですが、それも米内さんの配慮ではないですかね。僕らは知らん方が良い、そこは自分に任せておけと」

うーん、と唸ると井上は

「連合国はどうでるかね・・・?」

と呟いた、

「分かりかねますがね。もちろんプラスにはならないでしょうが、大きなマイナスにはならないかもしれない。前線はともかく、統合本部は消耗戦と考えているでしょうから前線はともかく敵さんの司令部は我が国の消耗度が増すくらいに考えているかもしれません。アングロサクソンはその点冷徹ですよ」

ふーむ、と長い吐息をついたのは、今度は井上の番だった。

「おい、こりゃあ、海軍大臣なんてお釈迦しゃか様じゃないと務まらんな」

「井上さんもいずれ覚悟する必要がありますよ」

高木がにやりと笑うと井上は激しく手を振った。

「僕にお釈迦様は務まらん。せいぜい閻魔えんま様が良いところだよ。次官になるのだって政治の時は上を向いていていいと米内さんが言ったからだ」

高木は首を捻った。

「お釈迦様と閻魔様はどう違いますか?」

「閻魔様は裁くだけだ。お釈迦様は許さねばならん。僕にはそこら辺の具合がよくわからん」

なるほどね、と苦笑いを浮かべた高木は、ところで、と口調を改めた。

「敷島隊の隊長だった関大尉は井上さんの時の生徒ですか?」

新聞からこっちを覗くような眼で見ていた気の強そうな青年尉官の顔を井上は思い出した。

「いや、彼は七十期だと聞いた。僕が最初に担当したのは七十一期だから、草鹿君の時の卒業生だろう」

草鹿任一くさかじんいちは井上と同じ海軍兵学校の三十七期、今は南東方面艦隊司令長官としてラバウルで苦戦を強いられている。

「そうですか・・・」

「関君がどうかしたのかね」

「いや、特に。ただどうも実際のところは敷島隊の前に特攻に成功した隊があるらしいんですよ」

「そうなのか?」

軍令部からの提案で特攻翌日の二十六日に第一航艦司令に宛てた機密電では兵の士気、国民の戦意に重大な関りがあるので特攻の度にその氏名、所属部隊を明らかにしてほしいと要請した。どうもその機密電がやけに手回しよく用意されていたのは特攻を行うことにつき軍令部に話が通っていたのであろう。

井上自身もそれに了承したのだが・・・その手回しの良さから考えるとその前に何らかの筋書きができあがっていたとしても不思議ではない。

「といっても僅か二時間程度ですけどね。現場の混乱で順序が乱れたのかもしれませんが、意図的かもしれない。飛行長が敷島隊の突撃は一航艦の司令に、別の突撃はダバオの61航空戦隊に報せたためにてれこになったと聞いてます。飛び立ったダバオに気を遣ったのではないか、と言ってますがあそこは設営整備の隊です。どちらも一航艦配下ですからね。その説明はちょっと疑わしい。大西さんの判断なのか、その下の判断なのか良くわかりませんが」

「兵学校を一番にしたいという事か、それとも士官も突っ込むのだから予備学生や下士官も続け、ということか・・・」

「両方でしょうね。そう考えるとやはり意図的のような気がしないでもありません」

しかし、と高木は呟いた。

「関という人も気の毒ですね。スケープゴートのようなもんだ。まあ、特攻一号という事で名はとどろくのでしょうが」

「特攻の一号ははくがつくのかね・・・」

と呟いた井上であったが、まあ、あれだけ大々的に報じられたのだから箔がつくといえばそうに違いあるまい、と思い直した。

だがもし、さっきの高木の話が本当なら、本来特攻一号とされるべき者たちは兵学校卒の士官でなかったゆえに一号と認められなかったことになる。関も気の毒だが、考えようによってはその者たちも気の毒だ。たしかに士官が先頭に立って特攻をしたと言えば下士官や兵たちも納得するのかもしれないが、そのために順序がゆがめられたとわかったら逆効果になるかもしれない。特攻を否定しながらも井上にはその位の計算はすぐにつく。

「台湾に敵がやって来る前に終戦に持ち込みたいですね。特攻なんぞ日本の中でやり始めるのをこの目で見たくない」

高木がぼそりと呟くと、

「豊田さんに持ちこたえてもらうしかないなぁ。その間に終戦に持ち込むことが出来れば・・・」

井上は応じた。豊田副武とよだそえむが司令官を務める連合艦隊ももはや、連合とは名ばかりで残っているのは戦艦六、巡洋艦九しかない。

「井上さんは豊田司令官を買っているようですね」

高木は目を上げて井上をまっすぐに見つめた。

「豊田さんは開戦反対派だったからな。仏印への戦線拡大も僕と一緒に最後まで反対をしたんだ」

「あの人は陸軍大嫌いですからね」

高木の言い方にどこかとげを感じ、井上は目で高木に尋ねた。

「僕にはあの人は一本通った筋がないような気がする。流されやすいと思いますよ。陸軍嫌いというだけで、一本通った筋がない。大臣も心から信頼はしていないんじゃないかな」

「そうか?」

「西国大名ですからね・・・」

「西国大名?」

「僕が勝手に名付けたんです。陸軍はもとより海軍にしてもやたら九州出身の人が上にいるじゃないですか。長州や四国あたりを足せば、将官のかなりの数が西国大名たちですよ」

「君だってそうだろう」

高木は熊本の人吉ひとよしの出身だったはずだ。

「僕は大名じゃないですから・・・。西国の農民ですよ。だからかなぁ、却って反発を覚えるんですよね。確か豊田さんは大分ですよね」

そう言えば井上は海軍大学校を出たばかりの頃、とある九州出身の将校に出身を聞かれたことがある。宮城と答えるとその士官は嘲るように、

「じゃあ、せいぜい少佐どまりだな」

とからかって来たので、少佐結構、と吐き捨てるように答えたことを思い出した。

とはいえ、井上が尊敬する海軍の大将は、山本権兵衛やまもとごんべえ加藤友三郎かとうともさぶろうの僅か二人で山本は鹿児島、加藤は広島の出身である。井上自身は出身地にはそれほど拘ってはいない。黙りこくった井上をちらりと見遣ると高木は、

「米内さんは麻生君を時々からかってますよ。梅津、阿南、豊田はみんな大分の生まれだ。お前も大分だろう、どうも信用ならないなとか言ってね」

と付け加えた。

「ふうむ、そうかね」

米内の生まれは明治十三年、日清戦争が始まるのが明治二十七年だから子供の頃は「日本」というより「盛岡藩」の殻がついたまま育ったのかもしれない。井上は日清戦争が始まった頃は五歳であったから、「お国」といえば日本と教えられて育った世代である。

「気付きませんでしたか?米内さんは西国大名を要所にはおかないんですよ。要所におくのは奥羽越列藩同盟おううえつれっぱんどうめいですね」

「ん?」

「米内さん自身は盛岡、亡くなった山本さんは長岡、井上さんは仙台。及川さんも長岡生まれの盛岡育ちでしょう」

なるほど、と思ったが明治維新での奥羽越列藩同盟は賊軍、敗軍ではないか。

「同盟も今度は負けるわけにはいきませんでしょう」

からかうような口調の高木を井上はきっと睨んだ。

「勝ち負けを国内でやっているわけじゃない。国がどうなるか、だよ」

そう言えば、大臣は及川古志郎を軍令総長に任ずるとき、自分と同じ盛岡中学の出身であることをだいぶ気にしていたようであった。九州出身の人々と違った意味で、大臣も出身地を気にしていたというのは本当であろう。

「冗談はともかく、終戦を優先させよと言う大臣のお言葉はごもっともです。僕も政府の要人に働きかけていますがもうひと踏ん張りしてみましょう。前線とは違った意味でここも戦争ですからね。これから原口さんと約束を取るつもりです」

うむ、と井上は頷いた。

「米内さんは敵さんに一泡ふかしてから終戦に持ち込みたいんだ。それは陛下のお考えでもあるようだが、一泡ふかせば戦争を継続したがる輩が出てくるのは必至だ。どうも一貫性に欠ける。あれではどうあっても戦争を続けたいって話にしかならん。そこが米内さんの考えの困ったところなのだが・・・。しかし我々は、どんなことがあっても終戦に持ち込まなければならないよ。頑張ってくれ」

そう言い残して井上は部屋を出ていった。後に残された高木は、微笑と共に井上の明るい眸を思い浮かべた。表裏のない人だ。

大臣の米内は表裏がないというより表裏のよくわからない人だが、自分には井上のようにはっきりと表裏がない方が分かりやすい。

海軍の幹部には偉丈夫が多い。偉丈夫でなければ候補生を産み出す兵学校や大学校をくぐりぬけるのが難しいことを高木は身をもって知っている。そんな中で小柄な体格の井上は異色であり、くりくりとした目をしたすばしこい小動物のように見えた。

もっとも小動物とは言ってもかなり獰猛どうもうではあるが・・・。

その上、しわい。工作費を要請すると、分かったといいつつも明らかに渋い表情になり、渡すときも実に惜しそうにする。井上が金を工面する相手は米内の秘書官の麻生からで、井上も金を引き出すとき実に嫌な思いをしているのであろう。嫌な思いというのは金を引き出すことにあるのではなく、内密に半ば恫喝どうかつしているような気持ちで金を出させるからである。まさか終戦工作の為と言って次官が金を引き出せるわけにはいかない。

陸軍が工作をする時の金額は桁が一つと言わず、二つも違っているので高木としてはやりにくいが、その吝嗇りんしょくぶりが却って清々しいと思う。嶋田繁太郎は陸軍の金に節操を売ったような気がするが、その点井上さんも大臣も殊更に欲がない。與亜院こうあいん総裁を兼ねた時、軍の力を背景に出先機関が搾取さくしゅするのを見て見ぬふりをする代わりに懐を肥やしたととかく噂のある東條なんぞとはそこが違う。東條には阿片の取引でも儲けたという噂もあるくらいだ。

まあ、金がなくともこちらには義があるさ、と高木は呟くと、苦笑いのまま一つ大きなため息をつき、再び、終戦工作案へと没頭していった。


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