第3話 1944年8月20日  東京 本郷

鷲津わしづ君」

・・・。

「鷲津君っ」

風間の張り上げた声に、驚いた顔で振り向いたのは白皙はくせきの青年であった。歩いている最中でさえ、鳴く鳥の姿を探すがごとく宙を彷徨さまっていた夢見がちな視線はどこかまだ少年じみているが、実は帝大で風間と同期の男で、歳はもう二十四の筈である。

「ああ、風間くん。お久しぶりです。お達者でおられました・・・?」

ふんわりと語尾が空気に溶けていくような声が返ってきた。

戦争中とはいえ、大学も夏休みである。文系の生徒が学徒出陣に取られてからというもの、只でさえ閑散としていた構内の人影は更にまばらであった。銀杏いちょうの木はいつもの年と変わらず枝をのびのびと張り、扇子のような形の木の葉がモザイク模様の美しい木陰を地面に作っているが、その中をうつむきがちに歩く人々の姿は一様にうらぶれて景気が悪い。そんな中を真白の海軍二種軍装を着てふわふわと歩いて行く、いや、どちらかと言えば軍服に操られているような鷲津の姿はひどく目だっていた。

同い年でも土と汗と血にまみれて戦闘に明け暮れているのもいれば、軍服を着ていても蜉蝣かげろうのような雰囲気をした男もいるんだ。この男は前線になど行ったら使い物にならず、あっというまにいじめ殺されてしまうに違いあるまい、と思いながら、風間は並んで歩き始めた旧知の友人の横顔を眺めた。

鷲津は一宮中学にいる頃から天才として知られ、帝大入学後もめきめきとその才能を伸ばし、将来を嘱望される物理学者として航空技術廠こうくうぎじゅつしょうに迎え入れられた。航空技術廠は横須賀よこすか追浜おっぱまにある海軍航空機の開発拠点である。最新の風洞装置も備えたこの施設に鷲津は請われて入所し、すぐに尉官となっている。だからいざ軍隊に入れば、本人にはその気はないだろうが、いくらでもいじめることのできる側にいる。

「航空技はどうですか。開発は進んでいます?」

風間の問いに鷲津は、まあ、とあたりさわりのない答えと微笑を返した。

いくら同じ帝大の同期といえども鷲津が軍事機密に係る事項は一切口にできないことは風間も承知の上である。航空技は、そのものが軍事機密の塊のようなものである。問い掛けは単なる挨拶のようなものだ。

だが黙り込んだ鷲津の表情に微かな屈託があるのを風間は見逃さなかった。よほど忙しいのかいつもなら涼やかな鷲津の目が微かに充血している。

「こっちに用事ですか?忙しそうだけど」

風間は質問を変えてみた。

「ええ、ちょっと用があって今日は大学に来ましたけど・・・死ぬほど忙しいですよ」

口籠るように答えた鷲津に向かって、風間は質問を重ねた。

「三木さんはお元気ですか?」

「ああ・・・まあまあかな・・・でも、なぜ?」

三木忠直みきただなお海軍技術少佐は船舶技術を帝大で学んだ、風間の先輩である。先だってその姿を大学で見かけたばかりだった。その時の三木が、いま鷲津が見せているのと同じ屈託ある表情だったのをふと思い出したのである。

「先だってお見かけした時、あんまり元気なさそうでしたからね」

「ああ・・・三木さん、あんなの、受けちゃったからなぁ」

謎のような言葉を呟いた鷲津は、自分の言葉にしまったという表情をすると、乞うような視線を風間に向けた。

「いや、喋りませんよ。だいたい、今の言葉だけじゃ何のことかわからない」

安心させるように風間が言うと鷲津はほっと溜息を吐きだした。

「唇、寒しですよねぇ」

「こんなに東京は暑いんだけどねぇ」

風間の冗談にふふふ、と人のよさそうな笑みを浮かべると鷲津は

「いつか僕は世界一周できるような速さと航続距離を持った飛行機を作ってみたいんですよねぇ。そうしたら、どこかもっと涼しい国へ好きな時に飛んでいけるじゃないですか」

と応じた。戦時とは思えないのんびりとした口調と内容である。

「涼しいだけなら、軽井沢でも北海道でもいいじゃないですか」

風間は苦笑と共にそう返事をしたが、鷲津はうーん、と唸った。

「僕はノルウェーにあるフィヨルドを一度でいいから見たいんですよ。空から、ね。そのために航空科に進むことにしたのです。でも平和じゃないと・・・無理ですよね。いつか平和は来るのかなぁ」

どこまでも夢のような話しぶりについ巻き込まれ

「そのうちにね、来るでしょう。戦争なんて五十年も百年も続くもんじゃない。勝ちつにしろ負けるにしろ・・・」

つい口を滑らした風間は慌てて、

「もちろん我々は戦い抜き、勝たねばならないですけど」

と付け加えた。風間の慌てた口ぶりに一瞬唇のに笑みを浮かべると、鷲津は真面目な顔に戻って

「ところで風間くんも、やっぱり兵器関連ですか?」

と尋ね返した。風間は小さく頷いた。今この大学に残っている者の殆ど全てが何らかの形で兵器に関わる研究に携わっているのが実態である。

「科学者なんて因果なものですよね。自分の作りたいものなんか全然作れない」

因果という言葉の選択が牟田と同じだったが少年のような雰囲気の鷲津の口から発せられると、妙にしみじみとした響きを伴って聞こえた。

「今の科学者なんて課題を与えられたらあとはそこに向かって進むしかない商売ですよ。農家が毎年春に苗を植えるみたいなものだから・・・。第一科学者が戦争に行かずに済むのは、兵器、殖産しょくさんのどちらかを担うからです。いちいち悩んでもしょうがないじゃないですか」

風間の答えにも浮かない顔のまま鷲津はゆっくりと歩を進めていたが、突然

「では、僕はこれから駒場へ寄らなきゃなりませんので。風間くんもお元気で、左様なら」

目を瞬かせ挨拶をするなり、足を急に早め鷲津は駅の方へと去って行った。手元に残してあった配給切符で、まだ開いている喫茶にでも誘いコーヒーでも奢って旧交を暖めようかと考え始めていた風間は呆気にとられたように、その後ろ姿が角に消えるのを見送った。

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