第3話 1944年8月20日 東京 本郷
「
・・・。
「鷲津君っ」
風間の張り上げた声に、驚いた顔で振り向いたのは
「ああ、風間くん。お久しぶりです。お達者でおられました・・・?」
ふんわりと語尾が空気に溶けていくような声が返ってきた。
戦争中とはいえ、大学も夏休みである。文系の生徒が学徒出陣に取られてからというもの、只でさえ閑散としていた構内の人影は更にまばらであった。
同い年でも土と汗と血にまみれて戦闘に明け暮れているのもいれば、軍服を着ていても
鷲津は一宮中学にいる頃から天才として知られ、帝大入学後もめきめきとその才能を伸ばし、将来を嘱望される物理学者として
「航空技はどうですか。開発は進んでいます?」
風間の問いに鷲津は、まあ、とあたりさわりのない答えと微笑を返した。
いくら同じ帝大の同期と
だが黙り込んだ鷲津の表情に微かな屈託があるのを風間は見逃さなかった。よほど忙しいのかいつもなら涼やかな鷲津の目が微かに充血している。
「こっちに用事ですか?忙しそうだけど」
風間は質問を変えてみた。
「ええ、ちょっと用があって今日は大学に来ましたけど・・・死ぬほど忙しいですよ」
口籠るように答えた鷲津に向かって、風間は質問を重ねた。
「三木さんはお元気ですか?」
「ああ・・・まあまあかな・・・でも、なぜ?」
「先だってお見かけした時、あんまり元気なさそうでしたからね」
「ああ・・・三木さん、あんなの、受けちゃったからなぁ」
謎のような言葉を呟いた鷲津は、自分の言葉にしまったという表情をすると、乞うような視線を風間に向けた。
「いや、喋りませんよ。だいたい、今の言葉だけじゃ何のことかわからない」
安心させるように風間が言うと鷲津はほっと溜息を吐きだした。
「唇、寒しですよねぇ」
「こんなに東京は暑いんだけどねぇ」
風間の冗談にふふふ、と人のよさそうな笑みを浮かべると鷲津は
「いつか僕は世界一周できるような速さと航続距離を持った飛行機を作ってみたいんですよねぇ。そうしたら、どこかもっと涼しい国へ好きな時に飛んでいけるじゃないですか」
と応じた。戦時とは思えないのんびりとした口調と内容である。
「涼しいだけなら、軽井沢でも北海道でもいいじゃないですか」
風間は苦笑と共にそう返事をしたが、鷲津はうーん、と唸った。
「僕はノルウェーにあるフィヨルドを一度でいいから見たいんですよ。空から、ね。そのために航空科に進むことにしたのです。でも平和じゃないと・・・無理ですよね。いつか平和は来るのかなぁ」
どこまでも夢のような話しぶりについ巻き込まれ
「そのうちにね、来るでしょう。戦争なんて五十年も百年も続くもんじゃない。勝ちつにしろ負けるにしろ・・・」
つい口を滑らした風間は慌てて、
「もちろん我々は戦い抜き、勝たねばならないですけど」
と付け加えた。風間の慌てた口ぶりに一瞬唇の
「ところで風間くんも、やっぱり兵器関連ですか?」
と尋ね返した。風間は小さく頷いた。今この大学に残っている者の殆ど全てが何らかの形で兵器に関わる研究に携わっているのが実態である。
「科学者なんて因果なものですよね。自分の作りたいものなんか全然作れない」
因果という言葉の選択が牟田と同じだったが少年のような雰囲気の鷲津の口から発せられると、妙にしみじみとした響きを伴って聞こえた。
「今の科学者なんて課題を与えられたらあとはそこに向かって進むしかない商売ですよ。農家が毎年春に苗を植えるみたいなものだから・・・。第一科学者が戦争に行かずに済むのは、兵器、
風間の答えにも浮かない顔のまま鷲津はゆっくりと歩を進めていたが、突然
「では、僕はこれから駒場へ寄らなきゃなりませんので。風間くんもお元気で、左様なら」
目を瞬かせ挨拶をするなり、足を急に早め鷲津は駅の方へと去って行った。手元に残してあった配給切符で、まだ開いている喫茶にでも誘いコーヒーでも奢って旧交を暖めようかと考え始めていた風間は呆気にとられたように、その後ろ姿が角に消えるのを見送った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます