第2話 同日 東京 本郷
「軍令部総長が
牟田教授は言いながら、横を歩く風間の表情を見遣った。風間は三年前に帝大を卒業したが、そのまま大学に籍を置き助手として牟田を手伝っている。学生の殆どが角刈りにしているが、風間は髪を七三に整えている。やや冷酷さを感じさせる細い顎と唇をしているが、柔和な目が表情を和らげている。
牟田には自分の今行っている研究が、果たして学生たちの目にどのように映っているのか気がかりであった。助手とは言え風間は、牟田より遥かに学生の歳に近い。風間の反応が学生の意見に近いと思ってまず間違いなかろう。風間は自分たちの手掛けている兵器が何であるかは知っている。だが学生たちは教えられていない。
「しかし、どうにも学生たちに手伝わせるのは気が進まないな。彼らだって何のための研究かを聞きたいだろうし、その目的が同い年の若者たちを確実に死に追いやるようなものとあっては・・・な」
牟田が言っているのは○六という略称をつけられた兵器のことである。
燃料の酸化剤として空気を使用する従来の魚雷と異なり、純粋酸素を使用する新型魚雷は潜行時に泡を生じる窒素を排出しないため航跡を辿りにくい。その上、推進速度が速く炸薬を大量に搭載できるという長所を有している。
純粋に兵器の革新性と言う観点から見れば、九三式魚雷は零戦と並んで日本が開発した中で、他国の製品を凌駕する性能を持つ画期的な兵器であった。
魚雷は船の最も弱い部分である横腹に当たれば一発で空母や戦艦を沈められるという極めて有効な兵器である。特に酸素魚雷の航跡を見破ることは、よほど接近してでないと不可能なため、気付いた時にはすでにその船の運命は決している。
しかし一方でソナーが発達していない時点での魚雷は命中させるのが難しい、闇夜に烏を撃つような効率の悪い兵器でもあった。そのため潜在力を持ちながら、九三式酸素魚雷は活躍の場が限られた。というより、事実上お蔵入りである。爆発力が大きい魚雷を当てもなく抱えて航行するのは、敵に襲撃された時却って危険なのである。
だが、ソナーやセンサーの代わりを人間が務めればこの魚雷を再び日の当たる場所に出すことが出来るのではないかという考えが海軍の一部で真剣に検討されていた。
それを具現化させるのが〇六と呼ばれている兵器である。
「工学の学生は戦地には行きませんよ、教授。彼らは日本の工業に欠かせない人材ですから」
風間は教授の横顔を見つめると、その発言を
「それはそうだが・・・だからいいっていう訳じゃなかろう。彼らの友人にも戦地にいる者たちがたくさんおる筈だ。勇ましいことを言ってはいるが、彼らだってばかではない。この魚雷の意味することはうすうす悟っているのではないかね」
牟田教授は声を少し
「しかし、なぜ軍はそんな兵器などを考えるのだ?ただでさえ物資は不足しているんだ。回収できない兵器など作っては無駄とは考えないのかね?〇六は、言っちゃ悪いが人を乗せるために余計に資材を使うのだ」
と風間を直視した。だが、風間は恩師の視線に微動もせずに答えた。
「たとえ回収可能でも十の兵器が敵を打ち漏らすくらいなら一の必中の兵器があった方が、無駄が省けると考えているのでしょう。魚雷はいずれにしろ回収ができませんからね」
「だが、命は回収できないぞ」
本来、特攻は特別攻撃のことであり兵士が必ず死ぬという意味でなかった。
戦争が始まった頃に伊16、伊20などの潜水艦に搭載された
日清・日露の戦役の頃は帰還の見込みの少ない戦闘に赴く部隊に決死隊という言葉が用いられたのであるが、敢えてそれを使わずに特攻隊という呼称を選んだのは本来、「決死ではない」という意味を持たせるためであった。牟田教授が最初相談を受けた時にも特攻兵器とは聞かされていたが、その時の理解は「決死」・「必死」の兵器ではなかったのである。
「でも、先生。○六は前線の兵士たちが望んだ兵器なのでしょう?兵士には兵士なりの考え方があるのですよ。命を落とす危険があるならせめて敵を叩いてから死にたい。そう考えても不思議はないじゃないですか」
風間の言葉に牟田は首を振った。
「仁科君もそう言っていたが・・・しかし、当初は脱出装置の評価ということで僕は研究を請けたのだよ」
牟田の専攻は流体力学である。
黒木博司と仁科関雄という二人の海軍軍人が本郷にある帝大の教授の部屋を訪れたのは去年の秋の事だった。依頼されたのは有人魚雷の開発のための助言である。一つは潜望鏡が与える抵抗を極小化する技術の助言、もう一つは乗組員脱出装置が魚雷の航路に影響を与えないようにする技術の評価であった。
最初の問題はともかく、あとの方はなかなか難しいだろうと思いつつ引き受けたが、いっこうに脱出装置の評価用プロトタイプが上がってこない。
どうなっているんだね、と春も終わろうとする頃に仁科がやってきたときに尋ねると、なめし革のように日焼けした
「教授、いやどうもお伝えしていなくて申し訳ありませんでした。脱出装置の件は、もういいことになりました」
「もういいとは・・・どういうことだね?」
人にものを頼んでおいて、もういいことになったというだけでは失礼じゃないか、と牟田の声は尖った。、
「いや、大変申し訳ありません。脱出装置は不要という事で開発の決裁がおりたのです」
「うん?」
牟田は不審気な目で仁科を見つめた。
「では、操縦者はどうするんだい?」
「そのまま、船につっこみます」
平然とそう言った仁科に牟田は唖然とした。
「だが、それでは・・・」
「先生、よくお考え下さい」
仁科は生真面目な表情を作ると落ち着いた口調で話し始めた。
「万一脱出したとしてもそこは敵の泊地ですよ。沈めた船の周りにも敵の船はごろごろいるわけです。そんなところで脱出しても良くて捕虜、普通なら爆発のあおりを食らうか、敵からの射撃で殺されてしまうのが落ちです。それに、良くて捕虜というのは帝国軍人としては言ってはいけない言葉でありまして、我々は捕虜となれば死ねと教えられています。となれば、どっちにしても死しかないわけです」
「そりゃそうかもしれないが・・・」
牟田は言葉を失った。この男は○六が完成したら真っ先に乗ると言っていた。ならば今この男の言っていることは、自分が真っ先に死ぬという宣言に等しい。だが、そんなことを露ほども感じさせない爽やかな口調で仁科は言葉を続けた。
「脱出装置なんて、前線を知らない人のいう事ですよ。むざむざと捕虜になるような仕組みは必要ない、そう決まったのです」
「だが山本元帥のお考えで、甲標的以来、必死の攻撃は許されない筈じゃなかったのか。その山本元帥は、まさに前線で亡くなられたのではないのかね?」
そう言うと仁科は少し考える顔になって、
「確かにおっしゃる通りですね。ですが真珠湾では結局甲標的に乗っていた軍神の方々は皆、お亡くなりになりました。脱出装置があっても使わなかったわけです。成算のない脱装置の開発に時間を取られていたら使えるものも使えなくなってしまいます」
と答えた。
甲標的とは魚雷を艇の舳先に付けた潜水艇で敵の船に接近、魚雷を発射、攻撃する兵器である。
開戦にあたって山本五十六中将は操縦者の生還の見込みの極めて少ない甲標的の採用を渋ったが、脱出可能、是非とも使用したいという現場の声を汲んで五艘の甲標的を出撃させた。真珠湾で突撃し亡くなった九人は九軍神として称えられ、戦果としては敵戦艦一隻を沈没させたとされている。
真珠湾攻撃の成功はむろん航空機によるもので、甲標的自体の成果は限定的であったが、甲標的の乗組員の献身的な行為はむしろ航空機による爆撃成功よりも深く国民に
「100%死ぬか、99%死ぬかの違いです。その1%のために国を保てるか否かが掛かれば、その1%は
言い切った仁科中尉に、前線の現場ではそう考えているのか、と頷きながらも、
「しかし、それを黒木さんは部下に命じるのかね?」
と牟田は反問した。
「いえ、先生。黒木と私は真っ先に出撃いたします。したがって命令することはありません」
仁科の口調にためらいはなかった。
「ただ、先生、この話は今のところ機密です。先生だからお話をしたので、他に漏らさないでいただきたい」
仁科の言葉にうむ、と牟田は頷いた。
余りにはっきりとした仁科の口調に呑まれてそれ以上牟田は話を続けなかったが、あとで考えるほど1%を捨象すると断言した仁科の言葉が
仁科のその言葉は仁科たち自身にとっては正にその通りなのかもしれぬが、そう考えない者たちもまた数多くいるのではないか?
もし自分が若く、国のために死ねと言われたらあの仁科のようにきっぱりと1%を捨象などできるものなのだろうか?そして99%の向こうにある死は、果たして国を守れるものなのだろうか?
「ところでお嬢さんの疎開先は決まったのですか?」
考えに沈んで自然と歩調が遅くなっていた牟田に合わせてゆっくりと歩いていた風間が尋ねた。
「軍や政府の上層部では早々に家族の行き先を決めて引越しを始めている人たちもいるようですよ」
「そうなのか?」
牟田は歩を止め風間に尋ね返した。娘の疎開は牟田にとって、開発している兵器と同じくらい重要な問題であった。ええ、と答えた風間は鉄道省に就職した法科卒の友人から聞いたという話を牟田にした。
「彼らには鉄道の距離制限など関係がないですし、旅行証明もすぐ発行してもらえる。決めればすぐにでも動けるのでしょうが。一般では旅行証明は警察でだいぶ滞留して大変なようですよ」
次第に強まっていた国民の移動に関する制限は次第に厳しくなり、ついにこの年、100キロ以上の移動に関しては警察署からの旅行証明書が必要だと改訂されている。
「お嬢さんに早めに疎開していただいて、身辺はなるべく身軽にされた方がよろしいですよ。先生が軍の機密に触れていることが知られたら、家族にも妙な手が伸びないとも限りません。ただでさえソビエトに援助を受けた共産党の分子が
風間は風間で敦子のことを心配しているのだろう、と牟田は思った。敦子が疎開すれば会えなくなるだろうが、戦地に赴く兵隊の中には妻と結婚したその日にしか会えず、そのまま戦死する者さえいるのだ。
「まあ、その心配はなかろうが・・・むしろ僕としては娘に今やっている研究を知られるのが困る。娘はキリスト教の教育を受けていたからね。我々が開発している兵器のことなど知ったら悪魔の所業だなどと言い出しかねない」
「そうでしたね。敦子さんは教団に所属しておられるのですか?」
「教団には入っておらんが・・・だが今でも聖書はときおり読んでおるようだ」
戦争が始まってから各宗派を統一し結成された日本基督教団はその成立の隠れた目的に、教徒が戦争反対を掲げ逸脱した行為を取らないように相互監視を行うことがある。それを敏感に察したのか、敦子は教団には入らないと両親に告げた。
キリスト教が戦争そのものを否定しているのか・・・牟田にはどうもよくわからない。敦子がキリスト教を信仰するようになったのはもっぱら叔母の影響で、牟田自身にはキリスト教に関する知識は乏しい。
十字軍を考えればそうでもないのかもしれぬ。今の戦争で戦っている相手国にもキリスト教の国はたくさんある。
だが娘から話を聞いている限り、少なくとも特攻はその教義と相容れないように思えた。キリスト教は自死を赦さぬのだという。特攻が自死かと言われれば、そう単純なものでもないような気もするが、詰まるところ自ら死を選ぶことに変わりはない。
「それにしても国の将来を担う若者たちが死なざるを得ない兵器などを、僕のようなおいぼれが作るというのは、いったい何の
力無げに呟いた牟田を一瞥したが、その問いに風間は答えることはなかった。
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