秋茜集う丘 勇魚哭く海(アキアカネツドウオカ イサナナクウミ)

西尾 諒

第1話 1944年8月10日 東京 滝野川

東京帝国大学工学部教授、牟田信一郎むたしんいちろうの邸は滝野川区たきのがわく西カ原、旧古河邸からほど遠からぬ坂道の途中に建っている。

まだ新しい冠木門かぶきもんは日中戦争が始まった7年前、近くの大工の棟梁から、戦火の火蓋ひぶたが切られた以上この先は物資が払底するかもしれませんぜ、と強く勧められて造作ぞうさしたものであった。心配性らしい棟梁の言葉に、そんなことはないだろう、と笑いながらけた牟田であったが、二年の後にその先見の明に驚くことになる。まことに庶民の直観というものは油断のならないものである。


その日の朝、その冠木門の周りを掃除していた牟田の一人娘の敦子は尋常小学校へ向かう子供たちの姿に目を留めるとほうきを休め、

「あら、学校はお休みじゃないのかしら」

背を丸めながら熱心に掃き続けている女中のお里に向かって、そう声を掛けた。ぽっちゃりした体形のお里はもう汗をかいたのか、顔を上げながら額を手の甲で拭うと、

「何やら学校で子供を集めて講話があるそうですよ」

と答えた。

お里は世情に通じている。ときおり主人の目をぬすんでは近所の主婦と世間話を小半時ほどしているからである。そういってもお里は話好きなだけで、仕事はしっかりやる女中である。無駄口を叩くこともなく、門を潜ると今度は玄関から門に続く小径をせっせと掃き始めた。

「そうなの?」

敦子はまだ子供の行く先を見遣っている。

「なんでも、日露の戦で功をあげた偉い軍人さんのお話だそうでございます」

お里は手を休める事なくそう答えた。

親がバリカンで剃ったらしい毛先の揃わぬ毬栗頭いがぐりあたまが揺れながら角を曲がって消えていくのを敦子は見送ると、

「ここら辺の子供たちもだいぶに減ってきたわね。前はずいぶん賑やかだったけど」

ため息交じりに呟いて、再び地面を浄め始めた。

「児童疎開が始まりましたからね」

今度はお里が手を止め、門の内から敦子に向かってにこりと笑いかけた。言いながら袖で額の汗を拭ったので、古じみた黄色の綿の袖に汗染みが丸くついた。

「そうね。でもなぜ疎開なぞさせるのかしら?九州のあたりはずいぶんと空襲がひどいみたいだけど。もしかしたらこの辺りにもまた空襲があるのかしら」

敦子は箒を持ち直すと呟いた。その手の先でさっ、さっ、と軽快な音を立てながら箒の先が美しい線を描いていく。


それまで東京に空襲があったのは、ただ一度だけだった。

アメリカの長距離爆撃機といえども本土や布哇ハワイから東京まで達する航続距離はない。唯一、二年前に遥か太平洋沖の艦船から飛び立った数機のB25が大井、品川、尾久おくを爆撃したことがあるのだが、それ以降空襲が帝都を襲ったことは一度もない。

新型の爆撃機、B29でさえ航続距離は中国国民軍が支配する成都チェンドゥからではせいぜい北九州までが限度で、本州まで届かない。更にB29は離陸までの滑走距離が長いため艦載が不可能である。


「そういえば・・・」

言い差して、お里は洗い古したもんぺの裾がほつれかかっているのに気付いた。顔をしかめ、しきりに触っていたがどうにも繕わなければならないと諦めたのか、さっぱりとした顔になってもんぺをポンポンと叩くと、

「旦那様が仰っておられました。どこかお嬢様のいい疎開先がないものかね、と。私、烏山からすやまの方の生まれでございましょう。あそこらへんはどうかね、って仰るんでございますよ。集団疎開も始まったし、そろそろお嬢様のためにきちんとお探しにならなければならないとか」

言い終えると、探るような視線を敦子に向けた。

お里は子供の頃、那珂川なかがわのほとりで育った。春になると鮎が釣れ、塩焼きにするとほっぺがころげ落ちるほど美味しいんでございますよ、と以前は季節が来るたびに目を輝かせて言っていたものである。ええ、もちろん食べさせて頂いた多摩川の鮎も美味しゅうございましたが、やっぱり鮎だけは那須の方が上でございますと断言して、ならばこちらの鮎を一度食べてみるがいいと二子ふたこにある上等の店で鮎を奢ってやった主人を苦笑させたものである。どうやら鮎はその地、その地で味が微妙に違うらしく、地元の人は地で獲れた鮎を生涯、好むものらしい。

だが敦子はお里の些か無遠慮な視線を気にすることもなく歌うように呟いた。

「変ねぇ。日本が戦争をしているのはフィリピンや支那でしょう?そこでも勝っていると言っているのに・・・」

そうは言ったものの敦子自身、新聞に書いてあるほど戦争が日本に優勢だとは思っていない。戦禍が日本にまで拡がってくる日がやがて来るかもしれないと漠然と予感している。

だいいち、書いてあるほど日本が勝っているなら、なぜ日々の暮らしが苦しいほど経済統制がきつくなっていくのか、理解できない。どうも戦争は政府や新聞が言っているほど単純ではなさそうである。それが証拠に「万一敵が上陸した時に備え」と訓練も始まっている。鎌や竹槍、その他にさすまたやら弓矢やらを使って訓練しているのを見ると大層勇ましいが、いざ戦争となると心許ない。

万が一、とは万ではなく、二つに一つくらいではないのか?だいいち鉄砲で撃たれたらそんなもので歯向かってもいちころではないのだろうか、と敦子でさえ思う。だがみんな分かっていても、口にするものはいない。物いえば唇寒しどころか逮捕されかねないのである。敦子自身、隣組の防火訓練に参加しており、それは空襲を前提としているわけで、疎開を変だと言ったのは強がりであった。

「子供は国の宝でございますからねぇ。集団疎開は予防措置のようでございますよ」

お里はのんびりとした口調で新聞の社説の焼き直しのようなことを言った。

集団疎開が現実の課題になってきたのはここひと月ふた月のことである。

それまでの疎開は田舎に親戚があるような場合、その縁故によってさせるというもので、空襲を避けるためのものであったが、都会より田舎の方が、食糧事情がまだましだという理由もあった。縁故疎開であれば迎え入れる方も知り合いの訳で、粗末に扱うことも少なく、親から多少なりとも金銭などの対価が渡されるのが普通である。しかし集団疎開ともなると受け入れる方も楽でない。人数が多いこともあって正直、唯でさえ満足でない自分たちの食い扶持がめっきりと減る。戦争だから、子どもだからと言ってやすやすと食糧を渡すかというと、そこは土にすがってしぶとく生きてきた農家には現実的な打算が働く。集団疎開で田舎に運ばれた子供たちはやがて疎開をした先で社会の厳しさを思い知らされることになる。


この年の七月、マリアナ諸島が米軍の手に落ちた。

マリアナ諸島からであればB29は東京を空襲することが可能な航続距離を有している。政府はマリアナ諸島が陥落したという事は隠さなかったが、そこから空襲があるだろうとはっきりと告げていない。B29の航続距離など国民に知らせる必要はない。ましてやその爆撃能力など・・・。だが、防空壕を整備せよというお達しと万一の時のためと称しての訓練は俄かに強まった。集団疎開もその一環であった。

国民の士気をくじかぬためにというのは言い訳である。負け戦が続いているのを誤魔化すためなのか、この頃には転進とか戦略的撤退とかなんだかよくわからない言葉が新聞の紙面に増えていった。新聞の造語という訳ではなく新聞は大本営の発表文をほぼそのまま載せているわけで、この期に及んでは書いている方も何が戦略的なのかなどとは軍に敢えて問い質すこともしなければ、書くこともしない。そんなことをすれば、惰弱だとか敗戦主義者だとかのレッテルを貼られ、記事にならぬどころか獄にぶち込まれかねない。

もっとも、敦子には知る由もないが、緒戦の頃マッカーサーがフィリピンから豪州に逃げた際もThis dramatic shift of commandと、転進に似通った表現が向こうの新聞に報じられたわけで、負け戦の時に報じられる政府広報など古今東西、信じるに値しないものである。


「万一のことがございますからでしょう。旦那様はお嬢様のことをそれは大切に思っておられますから」

お里は唇を広げてにっと笑った。そのお里は十三の歳からこの家にやって来て十年間ずっと敦子の面倒を見てきている。

子供の頃の敦子は本当に小さなお人形さんみたいで、お里は旦那様が溺愛するのは無理もないと思った。敦子は白いドレスを好み、家で着ることが屡々しばしばあり、その姿は写真で見る西洋のどんな可愛い人形よりもずっと美しかった。やはり人間は平等ではない、とお里はその時、妙に納得したものである。流れている血が違うのだ。お母さまが京の裕福な織物屋の娘だと聞いたことがある。お嬢様にはきっとその血が色濃く流れていらっしゃるに相違ない。

子供の頃両親が野良で葱や白菜を育てているのを土手に座らせられて毎日見ていたせいかいつまで経っても日焼けが抜けない自分の皮膚と見比べると、陶器のように白いお嬢様の肌は別の素材でできているとしか思えなかった。桜色のふっくらとした唇や濡れたからすの濡れ羽のように艶やかな髪の色。何もかが芸術品のように美しい。

そのお嬢様も、今は自分と同じもんぺ姿で、いたわしく思うけど、それでも尚、お嬢様は十分美しい。

確かあの白のドレスも供出されていったのであるが、いったいドレスなど供出して何になったのであろう?兵隊さんがドレスなど必要な訳はない。だとすると、慰問の時の衣装にでも使われたのだろうか?

「ですけれど、兵隊さんたちが前線で戦っているのに、私たちが逃げるわけにはいかないでしょう?」

心に浮かんだ疑問に気を奪われていたお里は敦子の反論にぼんやりと頷いた。


邸の前を清め終えた二人は、玄関の式台に腰かけるとたすきを外し、汗を拭った。お里は那須のあたりは夏がとりわけようございますよ、川面に涼しい風が吹きます、朝夕はとりわけ気持ちが良いのです、などと盛んに地元を売り込むと、最後に

「風間様もお嬢様のことをたいそう心配なさっておられました」

と付け加えた。

風間とは父の助手で今年には助教になる風間雄一のことである。助手になりたての頃から牟田教授の邸に屡々訪れていたせいで、いつの間にか敦子の結婚相手に擬せられている。

敦子も別に風間のことを嫌っているわけではない。しかし周りからやいのやいの言われると反発も湧き、できれば一度は職業婦人として社会に出てみてから結婚のことをじっくりと考えたいと思うようになっている。敦子は週に四回、近くの工場で機械部品を作る勤労奉仕に参加している。女学校では授業はもう殆ど行われず、今年から勤労奉仕は通年になっている。それが国を守ることに繋がるなら、と思うものの敦子は勉学がちっとも進まないことが不安であった。敦子の将来の希望は医師か看護師である。子供の頃、パスツールやナイチンゲールの伝記を読んで以来、人の命を助ける仕事に就きたいと願った。ナイチンゲールのように従軍看護師になって、国のために戦っている兵隊さんの助けになれば、と今も真剣に考えている。そんな焦りにも似た気持ちが手伝ってか、

「あのお方に心配していただくいわれはありません」

突然手に持っていた箒を三和土たたきに突くように立てかけ、きっぱり言うと、敦子はお里を置いてきぼりにして邸の中へと入っていった。怒った様子のお嬢様に取り残されたお里は、あらあら、と呆れたように呟いてお嬢様の後ろ姿を見送った。

どこからか飛んできたのか、法師蝉ほうしぜみのきにこつんと音を立ててとまり細い胴を震わせて鳴き始めたのをお里はそのままぼんやりと見つめている。

世情がどうであろうと、夏は盛りである

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