ブラッド・ナイフ・シスターズ

砂山鉄史

テーマ『血』

 ドロりとした赤い夕焼けを私はひとりでぼんやりと眺めている。

 彼女は来ない。そのことだけははっきりと分かっている。なのに、私はずっと一人で待ち続けている。


 どうしてこんなことになったのだろう。考えても仕方のないことをさっきから何度も繰り返し考える。それは、引いては返す波音のようにいつまでも繰り返される。

 

 もう、行ってしまおうか。

 何度もそう考えたけれど、縛り付けられたように足が動かない。

 彼女がここに来ることは決してないと分かっているのに、どうしても動くことができないのだ。


 ティーカップの中で崩れる角砂糖みたいに、太陽が西の水平線に向かって溶けていく。昼の名残が少しずつ失われていく。その中で、いっとき、世界が血の色に染まる。


 血の色。生命の色。あの時、私達のうえに注がれたもの――。


 溜め息をつきながら、砂の上に座り込む。両膝を両腕で抱え、そのまま横に倒れる。ママのお腹で眠る赤ちゃんみたいな姿勢。産まれた時のように大きな声で泣きたかったけれど、出てくるのは溜め息だけ。体のどこかに穴が空いて、そこから空気が漏れているようだった。もしかすると、あの赤い夕焼けはその穴から溢れた私の体液で塗れているのかもしれない。そんな馬鹿げたことを考える。


 何度目か分からない溜め息をつく。こんなことはやめにしたい。立ち上がって、帰りたい。帰る場所は私の半身と一緒に永遠に喪われた。それでも、帰りたいと願う。なのに、この場所から離れることができない。私は矛盾している。まるで、心がふたつある。


 ふたつ。そう、ふたつだ。彼女と約束をしたのだ。もう一度、ふたつからひとつになると。

 なのに私は――。


 ※


 ふたりきりの小さな部屋が私達の世界だった。

 その部屋は四方をコンクリートに囲まれている。家具も最低限のものしかないあまりにも殺風景な部屋。

 部屋の隅に置かれたふたり用のベッドで寝そべりながら□□□が言った。


「こんな世界さ、私と■■■なら、きっとメチャクチャに壊せると思うの」


 私は本気とも冗談ともつかない□□□の発言に戸惑いを隠すことができない。

 彼女はいつも突拍子のないことを言って私を困らせる。

 私の反応を見て楽しんでいるのだ。いつだって、会話のイニシアチブを取るのは彼女の方だった。


 □□□はほんの一瞬だけ私よりも先にこの世界に産まれ落ちた。

 その一瞬の差が時間の経過とともに拡がり、いつのまにか私と彼女の間に埋められない溝を作っていた。


「私達の住むこの世界は、もう、終わりなんだって。どうにか延命させようとしているけれど、何の意味もないんだって。みんな意味がないって理解しているのに、やり始めてしまったことだから、誰にも止めることができないんだって。本当に馬鹿馬鹿しいよね……」


 歌うように、蔑むように、□□□は言う。

 真っ白なシーツのうえに、プラチナ色の髪が液体のように広がっている。腰まである長く美しい髪。私のものよりもはるかに強い煌きを放つ髪だ。私はその髪を指に絡めるのが好きだった。


 □□□の声は、小鳥が囀るような耳に心地よい声だった。どう頑張っても、私にあんな綺麗な声を出すことはできない。

 彼女と同じ遺伝情報を持つ存在のはずなのに、あらゆる面で私は□□□に劣っていた。

 

 私はベッドにあがることもできない。コンクリートの床でこうして膝を抱えるだけの存在だ。


「ねぇ、ふたりで研究所ここから逃げだそう。お父さんとお母さんは怒るだろうけど、気にする必要はないよ。仕事とはいえ、血の繋がった娘達を実験台モルモットにしてるんだもの。これはね、罰なの。子供を愛さない親への、子供からの罰。あはは、素敵じゃない? 私と■■■で、お父さんとお母さんを罰するなんて。何だか、悪い子になったみたい!」


 それは、両親の言葉に黙って従うことしかできない私からは、決して出てこない考えだった。


「□□□はママとパパのことが嫌いになったの?」

「大っ嫌いよ! あんな人達!!」


 □□□の顔が醜く歪む。私は鏡に映った己の顔を見るような気になった。あの表情を見ている時だけ、私は彼女と双子の姉妹だと納得することができた。


「ねぇ、一緒にナイフをつくろうよ。ふたりでナイフを創って、お父さんとお母さんの心臓を抉り出しちゃおう」


 □□□が陶然とした表情を浮かべながら言う。

 彼女は想像の中で流れる両親の血の匂いに酔っているのだろうか……。


「ナイフなんて、どうやって……?」


 ナイフをつくる。姉の発言が何を意味するのか私には理解できなかった。

 少なくとも、私達の家族が暮らすこの研究所では、子供の手の届く範囲にそんな物騒なものは置いてなかった。ハサミですら大人の許可なしでは使えないぐらいだ。


「もう、■■■は馬鹿ね。言ったでしょ。ふたりでナイフを創るって」


 □□□は桜色の小さな唇をとがらせ、呆れたような表情になる。理解力の足りないわたしを咎めるような顔だった。

 姉の態度に私の心はザワザワと波打った。


「私達の【力】を使えば、それが可能なの!」


 □□□は満面の笑顔を浮かべながら言う。


 私達の【力】――。

 それは、私と□□□がこの薄暗い地下の研究所に閉じ込めらている理由だった。そして、□□□がママとパパに憎しみを向ける原因になったもの。


「そんなことをしたら、ママとパパが――それに、研究所の人達も許してくれないわ!」

「それがどうかしたの? どうせ、研究所の人達も全員殺すんだから関係ないよ」


 顔色ひとつ変えずにそう言い放つ姉に私の背筋が凍る。


「あいつらも同罪だよ。いつもニコニコとしてるけど、胸の中では私とあなたを実験用のネズミか化け物ぐらいにしか思ってないもの。■■■にもるんでしょ?」


 □□□の指摘は正しかった。

 彼女ほど強力ではないにせよ、私の中にも【力】は存在していた。

 その【力】が教えてくれた。

 普段は心の中に隠された秘密の言葉を。人々の嘘偽りのない本心を。

 私に開けないのは【力】で鍵をかけた□□□の心の窓ぐらいだった。


「仕方ないじゃない……。それがあの人達の仕事なんだから……。この世界を救うために必要なことなんでしょ?」

「知らないわよ、そんなこと! ■■■は、理由があれば何をしても許されると思ってるの? 大義名分があれば、自分の人生を台無しにされても我慢できるの? そんな酷い仕打ちに自分の両親が協力してるんだよ!? 私は耐えられないよ!!」


 ベッドから飛び起きた□□□が、白銀の髪を振り乱しながら叫ぶ。

 この世界で【力】を宿して生まれたことを意味する、煌めく髪を振り乱しながら、叫ぶ。


「私の【力】だけじゃ、無から有を創りあげることはできない。でも、■■■が協力してくれたら、私達の【力】をあわせれば、それが可能なの。お父さんとお母さんがそう話しているのを


 □□□がベッドからおりて、私の手を取る。

 ルビー色のキラキラと輝く瞳が私のことを見つめている。まるで、血の色みたいだなと私は思う。もし、本当にナイフを創れたら、抉り取ってみたいなと思う。私の瞳の色はあんなに綺麗じゃないから、箱の中にしまって大切に取っておきたいなと思う。彼女は全部持っているのだから、ひとつぐらい私がもらっても、きっと許してくれるだろう。


「お父さんとお母さんは、私にことにまだ気付いてない。今なら、誰にも邪魔されず、目障りな連中を皆殺しにできるの! ねぇ、■■■。ふたりで、悪い子になって、世界に復讐をしよう。私達をこんな暗くて狭い場所に閉じ込めて、苦い薬とつらい実験で苦しめる酷いヤツらに復讐をしよう。ふたりでならきっとできるよ」

「わ、私は……」

「いいでしょ? あなたの【力】を貸して……。私ね、もう全部、嫌になっちゃったの……」


 一瞬、□□□の顔が生きることに倦んだ老婆のように見えた。ああ、この顔を私は知ってる。鏡に映った私の顔。もうひとりの私が目の前に居る……。手を伸ばせば鏡の向こうに行けるのだろうか。ここではないもうひとつの世界に。そこでは、姉のようになれるのだろうか。


「こんな世界、ふたりで早く終わりにしちゃおうよ。そうしたら、昔、記録映像アーカイブで見た【海】って場所に行こう。温かな陽の光を浴びながら、一緒にそこで泳ぐの。最高のアイデアでしょ?」

「【海】……」


 私は小さな声で呟く。

 それは、私達の生から永遠に奪われた沢山のモノのひとつだった。


「ナイフが必要なの。世界を切り刻むためのとても鋭いナイフが。世界を血の色で真っ赤に染めるためのナイフが。それは、私の【力】だけじゃ創れない。もうひとりの □□□わたしである、 ■■■あなたと【力】を合わせないと創れないの。もともとひとつだった大きな【力】があった。その割れた一片があなたなの。私達はここでもう一度ひとつになるんだよ」


 世界を切り刻み、血の色で染めるためのナイフ。

 それは、私達がここから飛び出すための力。

 この、薄暗い地面の底に隠された研究所から、陽の当たる場所に飛び出すための――。


 私に、そんなモノを創る【力】があると?

 姉の出涸らしでしかない私に。彼女に全部奪われたこの私に?


「ねぇ、いいでしょ? 一緒になって悪いことしよ?」


 □□□が蠱惑的な微笑みを浮かべる。

 それは、いつか記録映像アーカイブで見た、名前も知らない肉食獣の表情かおに似ていた。獲物を捕食する獣の表情に。

 

 ああ――。


「うん。いいよ、もう一度ひとつになって、とびっきりの悪いことしよ」


 私は気が付くとそう答えていた。

 その言葉に□□□は満足げに頷いた。


「手を」


 言われるままに、私は□□□の手を握る。じっとりとした感触が伝わってきた。

 冷たいコンクリートの床に膝をつけ、□□□と向き合う。

 手を強く握ったまま身を寄せ合い、互いの額をそっと合わせる。鼻がぶつかって、少し痛かった。


 私達は想像する。

 世界を殺すためのナイフの姿を。

 私達は創造する。

 子供を愛さない大人を罰し、私達を苦しめるこのろくでもない世界に復讐するためのナイフを――。


「生まれるわ」


 □□□がおごそかな声で言う。

 それと同時に、頭上から温かなものがこぼれてきた。

 ポタポタ、ポタポタと音をたてながら零れる、体温のように生温かいそれは――。


「目を開けて」


 □□□がささやく。

 私は目を開ける。目の前に真っ赤に染まった□□□が居る。

 頭上から注がれる赤い液体を浴びた□□□が。

 私も同じように赤い液体を浴びている。

 鉄のようなにおいをさせるその赤い液体は血液だった。

 私達は全身に血を浴びて、真っ赤に染まっていた。

 まるで、産まれたばかりの赤ちゃんみたいに。


 ああああ。

 ああああああああああ――!!


 これは、新しく世界に産まれ直した私の産声だ。

 全身に力がみなぎり、再誕の歓喜と興奮に体が打ち震えていた。


 私は頭上を見あげる。

 そこには、小さなナイフが浮かんでいた。その刃から真っ赤な血がとめどなくあふれ続けていた。

 アレが私達の生み落としたモノ……。


 私は立ちあがり、背伸びをして、ナイフの柄を取る。

 それは、まるで、私のために創られたように、しっかりと掌に馴染んだ。


 □□□がきょとんとした表情を浮かべている。驚くほど幼く、あどけない表情だった。彼女も、たった今、世界に産まれ直したのだろうか?


 私は、赤ちゃんのような表情を浮かべる姉に、ニッコリと笑ってみせる。思考が恐ろしくクリアだった。自分が何をするべきなのかはっきりと理解した。


「□□□。私は、私を苦しめてきた世界に復讐するわ。そして、全てを取り戻す」


 私はそう言うと、赤く染まった□□□の体に、血塗れのナイフを深々と突き刺した。

 彼女は私の世界だった。鏡に映った決して辿り着けないもうひとつの世界だった。私からあらゆる可能性を奪った大好きで大嫌いな世界だった。


 ゴポォ――。


 □□□が溺れるような声をあげる。その口から、真っ青な血があふれた。


 ※


 私は□□□の亡骸を置き去りにして、地下深くの研究所からエレベーターで地上に出た。

 両親と研究所の職員達が私を取り押さえようとしたけれど、世界を殺すナイフを手にした私の前ではまったく無力だった。


 生まれて初めて大地を踏みしめた。陽の光が眩しかった。緑の匂いが鼻をくすぐった。風が優しくほおを撫でた。少しだけ、ほんの少しだけ心地よいと感じたけれど、それで終わりだった。


 半身である姉を殺したことで、私の中から何か大切なモノが永遠に喪われ、虚しさだけが残った。□□□を殺せば、奪われたモノを取り戻せると思ったのに。結局、復讐は無意味だった。終わりかけの世界を無理矢理存続させるための力を求めて、子供を実験台モルモットにした両親と研究所の職員達のことをわらえなかった。何かを理解したと感じたけれど、あれはきっと錯覚だったのだろう。精神と肉体の高揚はすでに失われていた。

 

 私は【海】と呼ばれる場所に向かって歩き続けた。

 道すがらナイフを振り、あらゆるものを切り裂き、血に染めた。

【海】に着く頃には、世界はもう終わっていた。私は姉の望み通り、ろくでもない終わりかけの世界に引導を渡してやったのだ。

【力】を使っても人々の秘密の声が届くことはなかった。


 役目を終えたナイフを【海】向かって投げ捨てた。

 ナイフは放物線を描く赤い軌跡になり、トプンと音を鳴らし【海】の底に沈んでいった。

 そして、私は、こうやって、来るはずのない姉を待ちながら、砂の上で丸くなっている。再誕を繰り返す赤ちゃんのように。真っ赤な夕陽を全身に浴びながら。

 私は何度も産まれ直し、そのたびに血塗れになって同じ失敗を重ねるのだろうか。


 もうじき、夜がやって来る。

 それは、魂を底冷えさせるものになるだろう。

 それは、□□□が吐き出した血のように蒼ざめたものになるだろう。


 私は潮騒に耳を傾けながら、その訪れをまんじりともせずに待っている。

 その冷たく蒼ざめた夜の中でなら、失われた半身と再会できるかもしれないと、わずかに期待しながら。その期待に裏切られると理解しながら。



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