第5話 かり
長い陰鬱な冬が終わり、草木が生い茂り春の息吹を感じる。空は晴れ渡り心地よい風が吹いている。
五歳になったステファニーは裸足で芝を踏み、空を見上げながら身体を伸ばし後ろに倒れ込む。
芝のベッドに寝ころび、草のにおいをかぎながら青空を見ている。
「お嬢様、はしたないですよ。起き上がってください」
白髪で老齢の男性は腰をかがめてステファニーに手を差し伸べた。
「リアムも一緒に寝っ転がりましょ」
ステファニーは差し伸べられた手を両手で掴み、引っ張って倒そうとした。しかし、五歳の子供の力ではビクともせず、逆に持ち上げられた。
「靴をはいて服の乱れを正してください。三十分後にマナーの授業が始まります」
「むぅ、それまで寝っ転がろうよ。休もうよ」
ステファニーは不満げな表情をしながら手を何度も引っ張った。
「授業が始まるまで休むことには同意します。ただ、芝生に寝るのは淑女のする行為ではありません」
頬をふくらませていたステファニーは急に口元が緩み、満面の笑みを浮かべた。
その笑顔を見た人のほぼ全員がステファニーを可愛らしいと思うだろう。
だが、ステファニーの教育で苦労していたリアムは悪巧みをしている顔だと気付いた。
「お嬢様、今回は何を考え付いたのですか?」
「マナーの授業を行儀良く受けるから、ご褒美がほしいの」
リアムはこめかみを手で押さえ、片手を上げた。
「お嬢様、マナーの授業を受けるのは当然の事です。ご褒美はありません」
「えー、やだやだ。ご褒美が無いなら授業受けない! 絶対に受けない」
リアムは深いため息をして駄々をこねているステファニーを見つめる。こうなったステファニーを止めることは使用人たちでは出来ない。
そのため、リアムは特別な言葉を使った。
「旦那様の許可を得ることが出来ればいいですよ」
「やったぁー! お父様の許可を取ればいいのね! リアム、約束だからね」
ステファニーは飛び上がって喜び、芝生の上を走り回った。
「はしたない行為は止めてください。そもそも何のご褒美が欲しいのですか?」
ステファニーは立ち止まり、母親譲りの蒼い輝きを放つ瞳をリアムに向けた。
「狩りに行きたいの!」
無邪気で愛くるしい笑顔をしているが、リアムにとっては厄介ごとを持ち込んでくる恐ろしい笑顔である。
リアムは空を見上げ、ステファニーが初めて森に行った出来事を思い出していた。
ステファニーが三歳の頃、冬が訪れる前の蓄えに少し不安があるとソフィアがつぶやいた。ステファニーはその言葉を聞き、何とかするから大丈夫と言っていつの間にか屋敷からいなくなっていた。
使用人総出で捜索したが見つからなかった。半日経ち夕方を過ぎた頃、うさぎを三羽持って屋敷に戻ってきた。
ステファニーは笑みを浮かべながらソフィアに蓄えのお肉と言ってうさぎを渡した。
ソフィアはステファニーが無事であることに安堵したのか泣きながら抱き締めていた。
その時、リアムはほんの少し恐怖を感じていた。ステファニーはうさぎを一人で狩り、血抜きと内臓の摘出を的確に行っていたのだ。
いったいどこでそんな技術を学んだのだろうと不思議に思い、ステファニーを凝視した。
手や服は血で染まり、顔にも血がついている。怪我をしている様子はないので、うさぎを狩ったときか解体したときにうさぎの血がついたのだろう。
視線に気付いたのか、ステファニーは目線をリアムに向ける。目が合うと彼女は満面の笑みを浮かべた。
リアムは背筋が凍るような感覚に陥った。血に染まった幼子の笑顔ほど恐ろしいものはないと思った。
優しいソフィアとライリーは備蓄用にうさぎを狩った事を誉めていた。その後、簡単な説教をして危ないことはしないよう忠告した。ステファニーは大きくうなずいて、危ないことはしないと約束をした。
次の日、ステファニーは屋敷から姿を消した……
昨日と同じく森にうさぎを狩りに行っていたのだ。ソフィアは泣き、ライリーは怒ってなぜ約束を破ったのか問いただした。
ステファニーは森で狩りすることは自分にとって危ないことではないので約束を破っていないと平然と言ってのけた。その時、リアムはこの先ステファニーがどのように育つのか考えると末恐ろしくなった。
ライリーは厳しい態度でステファニーに二つの決まり事を言いつけた。その二つとは、森に行くときは許可を得ること、執事のリアムと一緒に森に行くことだった。
この日からリアムの苦労の日々が始まった。
「ねぇリアム! 聞いてるの?」
追想にふけっていたリアムは急に声をかけられ思わず皮肉を言ってしまった。
「いえ、すみません。ステファニーお嬢様が初めて一人で勝手に森に行ったことを思い出していました」
「あ、あのときは子供で……何も考えずに……その……てへっ」
首をかしげて誤魔化そうとするステファニーの姿は可愛いらしさがある。
「お嬢様はまだ子供ですよ。あと、誤魔化す仕草は奥方様のマネですか?」
「お母様から教わったの。大抵の人を誤魔化すことが出来るって」
「はぁ、奥方様は何を考えて……」
リアムはこめかみを手で押さえてあきれたような顔をしていた。
「リアム? 大丈夫?」
「ご心配して頂きありがとうございます。そろそろマナーの授業が始まるので移動しましょう。授業を受けなければ、そもそもご褒美は出ないですからね」
「は~い!」
ステファニーは元気に返事をしてたあとに、服を正して靴を履きなおしている。
親バカといっても過言ではないライリーは森に行くことに許可を出す可能性が高いから事前に準備をしなければいけないなとリアムは予想していた。
その予想は現実のものとなり、三日後に森で狩りをすることになった。
狩りに出る日、晴れた空には綿のような小さな白い雲が浮かんでいる。
リアムは乗馬しながら太陽を見つめ、晴れたことに感謝していた。
狩りのために森に入るには丁度良い日である。深々と根を張る木々が生い茂る森では光が届かない場所も多く、太陽が出ていない日は暗闇が森を支配する。
闇の中で狩りをすることは危険が生じるため、リアムは曇りの日にステファニーを森に連れていきたくなかった。今日が晴れたことを精霊に感謝して森に向かっていた。
「今日は何を狩れるかな? イノシシやクマ、まさか魔獣が出たりして」
ステファニーはリアムの前に座りはしゃいでいる。
「そんなにはしゃいで喋っていると舌を噛みますよ」
「はい……でも楽しみなんだもん」
「ステファニーお嬢様が満足する獲物を狩れるといいですね」
「うん!」
三ヶ月ぶりの狩りに興奮を抑えられないステファニーは期待に胸を膨らませていた。狩りも楽しみだが、本当に楽しみなものはリアムの動きを視る事だった。
リアムは男爵の三男坊として生まれ、若い頃は騎士だった。魔獣討伐の際、部隊が壊滅し恐ろしい魔獣に殺されかけそうになった所をライリーに助けられた。
それ以降、リアムは騎士を辞めてライリーに付き従っている。出逢ってから四十年以上経ち、ライリーは寿命が長いエルフ族のため見た目は全く変わっていないが、リアムは白髪の老紳士になった。
肉体は全盛期を過ぎているが、経験や無駄のない動きが肉体の衰えを補っている。
動きを視るだけでも多くを学ぶことが出来るため、ステファニーはリアムと狩りに森へ行くことが大好きだった。
ステファニーとリアムは馬を降り、木に手綱をくくりつけた。馬から荷物を降ろし森に入る用意をしている。
「ステファニーお嬢様、準備は出来ましたか?」
「うん、準備万全」
ステファニーは枝やトゲで怪我をしないよう丈夫な服、革のロングブーツと手袋と胸当てを着ている。腰に剣帯を巻き、棍棒とナイフ二本と水が入っている革袋を付けている。
「ちゃんと準備できてますね。それでは森に入りましょう」
「おーーー!」
ステファニーは手を振り上げ大きな声で返事をして、意気揚々と森に入っていった。
鬱蒼とした森の中、風に揺られた木々の擦れた音と鳥のさえずりが聞こえてくる。
二人は音を立てず慎重に歩を進めている。斜面に黒く薄い筋が落ち葉の上に続いており、塊粒の繋がった糞が近くで見つかった。
「これ……イノシシのフンでしょ。ついさっきした感じだから……たぶん近くにいるよ」
ステファニーは小声で話し掛け 、リアムは無言で首を縦にふった。
イノシシは神経質で警戒心の強い動物のため、音をたてると逃げてしまう可能性がある。その為、二人は静かに慎重に痕跡を辿っていく。
ステファニーは気配を感じ、足を止めた。前方に地面を掘っているイノシシを見つけ、息を潜める。ゆっくりと音を立てずに右手で棍棒を持ち、左手は小石を掴んでいる。
リアムが腰に下げてる剣の柄を握りしめ、ステファニーを見つめて頷いた。
それが合図となり、ステファニーは飛び出して小石を投げつけた。小さな石ではあるが顔に当たり、イノシシはたてがみを逆立てて口から不快な威嚇音を発した。
ステファニーはイノシシを正面から目を離さず見つめている。呼吸に乱れはなく、無駄な力を抜き自然体で棍棒を構えた。
一拍置いたあと、百三十キロもの巨躯がステファニーに突進する。二十キロにも満たない幼児に直撃すれば、ただごとでは済まない事態になりかねない。
疾風のように突進するイノシシとぶつかる寸前、ステファニーは見事な足さばきで左側に避ける。同時に振り上げた棍棒をイノシシの頭に叩きつけた。
澄んだ高い音が森中に鳴り響く。
強烈な一撃をくらったイノシシは失神して横たわった。ステファニーは剣帯に下げてる長めのナイフを手に取り、棍棒の先に素早く麻糸でナイフをくくりつけている。
失神しているとはいえ、不用意に近づくのは危険だ。その為、出来るだけリーチの長い武器で止めを刺す必要があった。
前脚の少し後ろにある心臓を先端にナイフを巻き付けた棍棒で突き刺した。
突き刺した瞬間、イノシシはビクッと身体を震わせる。ナイフを抜くと傷口から血が勢いよく流れ出し、イノシシは動かなくなった。
武器を構えたままイノシシを見つめているステファニーの背後から拍手の音が聞こえる。
「お見事です。動きにますます磨きがかかってきましたね」
「ありがとー、リアム」
先程までの真剣な顔つきとはうってかわって可愛らしい子供の顔つきになった。
「ねぇねぇ、このイノシシ大きいでしょ!」
「ええ、かなり大きいです。これは食べ応えがありそうですね」
「あぁ、どんな食べ方がいいかなぁ。ステーキもいいけどパイ包みも……いや、肋骨についてるお肉にしゃぶりつくのもいいわ。あそこの部位が一番好きかも……じゅるり」
「……お嬢様」
リアムは食事を思い浮かべてよだれを垂らしているステファニーに呆れ顔をしながら、ハンカチを取り出して彼女のよだれを拭き取った。
「ん……、ありがとー! これから私は内臓取り出すから、リアムはいつものように川を探してね」
「かしこまりました」
リアムが目を閉じると淡く青い光輝く球体が数個現れた。その球体は水の精霊で、川の場所をリアムに教えている。直接話すことは出来ないが心を通じ合うことが出来るため、大まかな川の場所を理解することが出来る。
「川の場所が分かりました。南方に約十五分ほど歩いた場所にあります」
「ありがとう、リアム。やっぱりいいなぁ~、精霊術。早く私も使いたいなぁ」
「ええ、もうすぐ使えるようになりますよ。今しばらくのご辛抱です」
話ながらもステファニーは剣帯に下げていたもう一本の小さめのナイフで内臓を傷つけないよう腹部を切り裂き内臓を取り出している。
「よいしょっと。内臓摘出完了~。リアム、お願いがあるの! イノシシ持てないから川まで持っていって欲しいの」
「ええ、いいですよ。ですが、その前に綺麗にしましょう。手を出して下さい」
リアムが手をかざすと青く光る球体が数個現れ、手から水の塊が二つ発生した。
水の塊の大きさは人の頭ぐらいあり、宙にぷかぷか浮かんでいる。
その一つにステファニーは手を入れて血や汚れを落とした。血がついたナイフ二本も宙に浮いている水で綺麗にしている。
血で色が変わった水の塊はゆっくりと地面に落ちていく。もう一つの綺麗な水の塊にステファニーは再び手を入れて完全に汚れを落とした。
「内臓も処分しないと行けませんね、少々お待ち下さい。」
リアムはそう言うと、膝を突き地面に手をかざした。土色の光る球体が現れ、地面が揺れ動いた。手をかざした場所に五十センチほどの穴が出来ている。その穴にイノシシの内臓を入れて埋めた。
「さて……っと、川に向かいましょうか」
「おー!」
リアムは片手でイノシシの両後ろ足を持ち上げ南方の川に向かい始めた。
ステファニーは獲物を狙うような目でリアムを見ながら後ろをついていく。内臓をとっても百キロ近くあるイノシシを片腕で持ち上げ、足元が良くない森の中を平然と歩くリアムの動きを食い入るように見続けた。
体の重心はどこにあるのか、手足の動かし方はどうしているのか、何処に注意しながら歩いているのかなどの様々な観点でステファニーは動きを見て学んでいた。
後ろから圧を感じているリアムは心の中でお嬢様の悪い癖がまた出てしまっていると呟いた。
ステファニーは人を見つめることが多かった。最初は幼児特有の行為と思われていたが、最近は他の幼児とは異なり殺気すら孕んでいるような視線をすることがある。
特に訓練所や狩りの時に出てくる。
訓練所でライリーが衛兵や騎士見習いに指導している際、椅子に座り一挙手一投足を目に焼き付けるためじっと見つめている。ほとんどライリーを見ているが、筋の良い者がいると視線をその者に移す。
まばたき一つも見逃さない視線は殺気に似てるほどの強い想いが込められていた。その為、見つめられた者は急に動きが鈍くなることが多かった。誰が殺気を放っているのか探そうとする者もいるが、まさか幼児が殺気に似ている視線を送っているとは考えもしないだろう。
リアムは何度も注意をしたが、ステファニーの視線は直ることがなかった。
川辺に着くとステファニーの視線を感じなくなり、リアムはイノシシの足を縄で縛って川に投げ込んだ。手に持っている縄を大きめの石に結び、イノシシが流れないように固定した。
「ん~、イノシシを冷やしてる間に他の獲物を狩りに行ってもいい?」
「これだけ大きいのですからもう十分だと思います。これ以上取ると馬に乗せることが出来なくなってしまいます。キノコや山菜を取りに行きましょう」
「むぅ~、残念」
ステファニーは口を尖らせてふくれっ面をしながら渋々キノコ採集を行った。
三時間ほど経ちキノコや山菜で革袋が一杯になった為、イノシシを川から引き揚げて馬がいる場所に戻った。
馬の鞍の後ろに布を敷いてイノシシを乗せると馬は嫌がるように身体を震わせていなないた。
ステファニーは背伸びをして馬の顔を優しくなでる。
「ごめんね、後で砂糖の大きめの塊あげるから我慢して」
思いが伝わったのか馬は落ち着きを取り戻し、甘えるように鼻をステファニーにすりよせている。
「んふふ。こいつ~、甘えん坊さんなんだから」
ステファニーは愛らしい顔をしながら馬をなで続けている。このままだと小一時間は馬と戯れていそうなため、リアムは後ろからステファニーを持ち上げて馬に乗せた。
「申し訳ございません、お嬢様。もう戻らないと」
「うん、そうだね。夕食の準備に間に合わせたいわ。イノシシ大きいからみんな喜ぶかなぁ?」
「はい。冬の間はずっと保存食で新鮮な肉は久しぶりですからきっと喜ぶと思いますよ」
「だよねぇ~! ふふ、楽しみだなぁ」
ライリーとソフィアの育て方のおかげか、ステファニーは使用人たちを家族同然のように接しており、食事も一緒のテーブルで食べている。
そのため、使用人たちがイノシシの肉を喜んでくれる姿を思い浮かべ、ステファニーは微笑んでいた。
ステファニーが使用人たちを大切にしている想いは皆に伝わっていて、主従関係はあるものの使用人たちはステファニーのことをお転婆で可愛い大切な妹と思っている。
なお、リアムはステファニーを厄介ごと持ってくるやんちゃで可愛い大切な孫と思っていた。
「皆のことを考えて下さるとは……、お嬢様はお優しいですね」
「ん?」
「正直にお伝え致しますが、昔は不安に思っていたのです。幼子であるお嬢様が生き物の命を奪う狩りを平然と行い、慣れた手つきで解体までしているのを見てきましたが……将来どうなってしまうのか不安で……。ですが、お嬢様は先程言ったようにお優しい方になられました。要らぬお世話でした。申し訳ございません」
「……リアム」
ステファニーは少し目を潤ませてリアムを見上げる。
リアムは手綱を片腕で持ち、目の前に座っているステファニーの頭をなでた。
お嬢様がこのまま優しい心を持って育ってほしいと願いながら帰路に就いた。
晩食では使用人たちにも酒が振る舞われ、イノシシ肉に舌鼓を鳴らしながら楽しい一夜が過ぎていった。
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