第2話 生

 髭を生やした男は気が遠くなるほどの長い期間、深い闇の中を漂っている。そこはまるで光の届かない海の底のようだった。


 しかし、そこには恐怖も不安も感じることがなく、むしろ 心地よいと感じることができる空間である。

 その空間の中で、髭を生やした男はヴァルハラに導いてくれるヴァルキュリアを今か今かと待ち続けていた。


 ヴァルハラ。それは北欧神話に出てくる主神オーディンのまばゆく光輝いている宮殿である。

 屋根は黄金の盾で、壁は槍で出来ている。戦場で勇猛果敢に戦い、そして死んだ英雄のみがヴァルキュリアによってヴァルハラに導かれる。

 導かれた英雄達はエインヘリャルと呼ばれ、世界の終末の日であるラグナロクにおいて神々と共に戦うため、日々訓練をしている。朝から夕方まで、ヴァルハラの庭で互いに殺し会うほどの激しい戦闘を行う。

 戦闘で死んだエインヘリャルは夜までには生き返り、傷ついたエインヘリャルも傷を癒し万全の状態になる。

 夜になると肉を喰らい、ヤギの乳から出る蜜酒を飲み、盛大な宴会を毎日開く。

 

 北欧の戦士にとって、戦場で臆病な振る舞いをせず、死をも恐れず勇敢に戦い、ヴァルハラに迎えられることが最高の名誉であった。


 御多分に洩れず髭を生やした男もヴァルハラに迎え入れられることを願っていた。ウェセックス王国の兵士達との戦いでは恐れず勇猛果敢に戦い抜いた自負があり、自分がエインヘリャルになれないはずがないと思っている。

 

 なかなかヴァルキュリアが迎えに来ないのは、仲間達が勇敢にウェセックス王国の兵士達と戦い、勇姿を神々に示して全員がエインヘリャルに選ばれた為、ヴァルキュリアが忙しいのだろう。男は暗闇の中で漂いながら、そう考えていた。


 深い闇が支配している空間の中では、声を出そうとしても声が出ず、身体を動かそうとしても思うように動かせずにいた。


 しばらくすると、暗闇の中に一筋の光が差し込むようになる。その光は強いものではなく、ぼんやりとした柔らかな明るさである 。

 また、微かではあるが話し声のような音が聞こえる。時には何かを叩くような音が一定間隔で鳴り響き、僅かな振動が伝わってくる。

 

 髭を生やした男は笑みを浮かべ、想いを馳せる。

 遠くから聞こえる話し声は神々の声であり、鳴り響く音はエインヘリャルが訓練で戦っている音だろう。そして柔らかく温かな光はヴァルハラが放つ光なのだろう。ついに、ついにオレはヴァルハラに行ける。この瞬間をどんなに待ち望んだ事だろう。そのように考え、髭を生やした男は歓喜に沸いていた。

 

 だが、いくら待とうがヴァルキュリアは髭を生やした男を迎えに来なかった。

 髭を生やした男はしびれを切らし、光が放たれている方に近付こうとする。

 しかし、身体が中々動かず、光の中に何があるか見ることすら出来なかった。何度も試してるうちに、光が遠ざかり、音も消えていく。


 その後、同じことが繰り返された。光と音が共に訪れ、闇と静寂を残して去っていく。

 これが何度も何度も何度も……


 それでも髭を生やした男の心が折れる事はなかった。いつか、いつの日か必ずヴァルハラに導かれると信じて待ち続けていた。

 

 ある時、急に周りの音が激しくなった。まるで雷鳴が轟く荒波の中にいると思えるほど、大きな音が響き渡っている。

 髭を生やした男は、近くで雷神トールがミョルニルを振り回し、雷が落ちて凄まじい轟音が鳴り響いているのだろうと考え、軍神トールが暴れている姿を思い浮かべていた。


 すると突然、身体が引っ張られた。あまりにも急なことで何が起きているかわからず、髭を生やした男は困惑し、ついに不安を持ち始めた。


 身体が引っ張られている……まさか、今度こそ本当にヴァルハラに行けるのか……

 それなら何故ヴァルキュリアの姿が見えないのか……

 身体が引っ張られている先に、いったい何があるのだろうか……

 本当にそこはヴァルハラなのか、そもそもここはどこなんだ……


 そのように考えているうちに、身体がより強く引っ張られていった。

 身体が向かう先から温かい光が漏れ出している。近付くにつれ光の輝きが増していき、目を開けられないほど強い光が髭を生やした男の身体を包み込んだ。


 ついに、髭を生やした男は今までいた静寂と暗闇の空間から抜け出せた。


 ここがどこなのか確認しようとするが、あまりにもまぶしい光の為、眼を開けることが出来なかった。

 髭を生やした男は思いっきり空気を吸い込み、ありったけの力をこめて叫んだ。


《ここはどこだ、ヴァルハラなのか? まぶしくて周りが見えない! 誰かいないのか、返事をしてくれ》


 そのように髭を生やした男は叫んだつもりだったが、口から発せられた言葉は違っていた。


「おぎゃああああぁ! おぎゃああああ! おぎゃあああああぁ」


 恰幅の良い年配の女性が、元気よく泣いている赤ちゃんを持ち上げ、へその緒を切っている。

 大量の汗をかき、金色の髪が顔に張り付いている綺麗な女性は愛に満ち溢れた表情で赤ちゃんを見つめ、年配の女性から赤ちゃんを受け取った。

 金髪の女性は赤ちゃんに何か話しかけている。

 

 だが、赤ちゃんにその言葉は伝わっていない。赤ちゃんにとって、それどころではなかった。

 

 そう、髭を生やした男は赤ちゃんに生まれ変わったのだ。

 

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