第1章 雪を待つ③
「櫛と椿油を借りられる?」
「机の二番目の引き出しの中よ」
それだけ言って、柊木まりあはゆっくり目を閉じた。もう人形ごっこは始まっているようで、椅子から動く気は一切なさそうだった。
わたしはひとの机の引き出しの中を見ることにほんのり罪悪感を覚えつつ、二番目の引き出しをそっと開け、整頓されたその中から、百合の模様の入ったつげの櫛と椿油の瓶を取り出す。
「髪を触っても?」
「訊く必要ないわ。わたしはいま、あなたの人形なのだから」
柊木まりあの背後から、そっと、長くてまっすぐな髪に触れた。ひとの髪にこうして触れるなんて、一体何年ぶりだろう。なめらかで癖のない髪は、指でひと束掬い取ると、するすると簡単にこぼれ落ちる。
改めて梳く必要もなさそうな美しい髪に、小刻みに震えそうになる手に気づかないふりをしながら、椿油を染み込ませたつげの櫛を通していく。梳くたびに髪は艶を増し、より上質な絹に近づいていくような感じがした。人形の化繊の髪とは、どうしたって違う。猫っ毛でふわふわの、わたしの髪とも全く違う。
気持ちが、持っていかれそうだった。艶やかで長い髪に引き寄せられて、わたしの知らないところへ。それがふいに恐ろしくなって、意識をここに引き留めておくために、口を開いた。
「柊木さん」
「あなた、お人形に話しかける趣味がおありなのね」
「……ええ、まあ」
「まりあで結構よ」
「まりあさん、どうして人形になりたいの?」
柊木まりあの肩がほんの少しだけ、ぴくりと動いたような気がした。
「人形はね、愛されるしかないから」
「愛されたいの?」
意外だった。柊木まりあは、周囲から当然愛されている存在だと思っていたから。わたしは高等部三年になるいままで同じクラスになったことが一度もなかったし部活や委員会などでの接点もなかったから、もちろん本当のところはどうなのかわからない。けれど、美しく優秀で家柄も良いとなれば――多少のやっかみはあるかもしれないけれど――この学校では特に羨望のまなざしで見られる。実際、柊木まりあの良い噂を耳にすることはあっても、悪い噂を聞いたことはほとんどない。
「愛されたいかどうか、なんて」
いま気づいた、と言うかのように柊木まりあは答えた。
「考えたこともなかったわ」
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