最終節⑪ 旅人と旅人

 街道を進むと未開拓の平原が一面の麦畑になった。収穫間近の麦穂が風になびいて波ができる。

 村に帰って来たのは何年振りだろう? 百四十、いや百と三十八年か。あの頃はここまで畑はなかった。息子に見送られたのはまだまだ先、そう考えると村は随分大きくなったようだ。

 ん? 百三十八年?


「あ!」思わず声がでた。

「どうしたの? 急に大きな声をあげて」


 隣を歩くミナが首を傾げていた。

 革ズボンにブーツ、つば広帽の姿は未だに見慣れない。


「今年でちょうど二百歳だ」


 随分と歳をとり、たくさんの道を歩いて、迷って、多く人と出会って、別れてきた。

 そう思いをはせていたが、彼女は全く興味がなさそうだった。


「そう。まだそれだけなのね。感慨に浸るには三百年ほど足りないわ」

「ミナと一緒にしないでくれ。そもそも何年ぐらい生きているんだ?」


 体は妻のものだか、話しているのは妻ではない。呪い師だ。呼ぶのに不便だから元の名を聞いたが好きに呼べと言うので、そのままミナと呼んでいる。


「女性に年齢を聞くものじゃないわ」


 予想を超える返され方だった。

 一緒に旅をして数週間。初めは得たいの知れない呪い師だったのに随分と人らしくなった。妻が生き返ったかと思う時があるほどに。


「そんな話し方だったか?」

「違うわね。私も人としての経験が足りなかったのよ、多分ね。歩いて、食べて、働いて、汗をかく。あの子にやらせるだけではなく、自分もするべきだった。人を知るには人として生きるのが一番の近道だとようやくわかったわ」


 あの子、とは復元しようとしていたミナになれなかった心の事だ。彼女の心は人と係わって育ったらしい。


「それで、人として旅をしてどうだ? 悪くないだろう?」

「非効率ね」


 ミナは立ち止まり、大きく伸びをして額の汗をぬぐった。その顔には疲れが見える。


「それよりも、まだつかないの? 疲れたわ。歩くのがこんなにもつらいなんて思いもしなかった。私にこんな思いをさせるなんて本当にひどい人ね」

「くっくっ、私は君に振り回されて世界中を歩いたんだ。このぐらい構わないだろう? ほら、もう少しだ」

「はいはい。歩くわ。それがギルの望みなのだから。それに、あなたの隣はまんざらでもないし」


 よほど暑かったのだろう。彼女は大きな赤い本を使ってあおぎ始めた。


「そんな雑な扱いしてもいいのか? そっちが本体だろう?」

「構わないわ。何をしたところで傷一つ付かないから」

「あの聖剣でも?」

「あの聖剣でもよ」


 旅の途中、彼女は色々と教えてくれた。

 はるか昔、彼女は肉体を滅ぼされ本に封じられたらしい。何を言っているのかさっぱりだったが、それは今も変わらない。

 彼女は強くあおぎ、肩にかかる黒髪が舞い踊った。


「そういえばジェフには悪い事をしたわね。抱きしめて髪をなでてあげれば良かった」


 水車小屋まで来た時、呪い師はギシギシと音を立てて回る水車を眺めていた。

 あの時、この場所で、ジェフは私のために怒ってくれた。父としてあれほどうれしかった事はない。

 その息子をあしらい、気絶させた本人から憂う言葉が聞けるとは思わなかった。


「本心か?」

「本心よ。私はミナの記憶とあの子の心をあわせ持っているの。記憶とは過去の情報だけじゃない。その時々の思いも含まれている。心の記録と言ってもいいわ。だから記憶を元にミナの心を復元しようとした……」


 また難しい話が始まった。正直なところ彼女の話には興味がない。どうせ理解できないだろうから。

 半分聞き流していたら冷ややかににらまれた。人とは思いない呪い師の目だ。しかし、そのあとに続く言葉が私を困惑させた。


「ちゃんと聞いてなかったでしょ。ギルはいつもそう。ジェフが宿ったって言った時に聞き流されたのだって忘れてないわよ」


 そんな記憶まであるのか。まだ二十歳になっていなかった頃の話だ。


「謝ったじゃないか。頼むから忘れてくれ」

「駄目よ。私は根に持つの。それに……」

「それに?」

「そういった小さな記憶全てが大切な思い出なのよ」


 懐かしむような顔をさせているのはミナだろうか?

 その先は、口を開くこともなく黙々と足を動かした。家はすぐそこだ。

 そのはずだった。


「ここなの? ただの畑ね」

「ああ」


 家に帰ってきたつもりだったが、そこは畑の一部になっていた。家族で囲んでいたテーブルがあった場所も、ジェフが産まれた部屋も、農具をしまっていた小屋も、どこもかしこも麦で埋め尽くされていた。

 家ぐらいは残っていると思ったが、そうそう都合よくいかないらしい。


「また道を間違えたの?」

「いや」

「誰かに聞いてみる? そういえば、あなた、家名は?」

「ただの農夫にあるわけないだろう」


 家名があれば手掛かりが得られるかもしれないと言うことか。しかし、ないものは仕方がない。


「家もない、探す手掛かりもない、手詰まりなら私たちの旅はここで終わり。それでいい?」


 麦穂に触れていた呪い師は私に向き直った。

 これで終わりにしていいのか? 忘れている事がないか、激流のようだった数日間を思い出す。

 始まりは籠を抱えた彼女とぶつかった日だ。呪い師は言った。記憶の欠片からミナの心の復元を試みてると。つなぎ合わせた記憶から生まれた心に体を使わせていると。

 理解を超えていたが、ミナが生き返るかもしれない、と言われたら信じるしかなかった。

 しかし、戦いの場となった礼拝室で、先輩とカールが見守る中で呪い師は言った。


 あの夜、荒れた礼拝室で、ヴァルターとの戦いの後だ。


『失敗したわ。生まれた心はミナではなかった。その上、あの子の心とミナの記憶は私の中に混ざった。元に戻す事も再び試す事もできない』

『言っている意味がわからない』

『結果だけ言うわ。私は失敗し、あなたの妻はよみがえらない』

『冗談、だろう? 今まで、散々振り回されてきたが、うそだけは言わなかったじゃないか』


 呪い師は淡々と言葉を並べる。それが事実だと理解できても認めたくなかった。


『見積りが甘かったとしか言いようがないわね』

『ふざけるな! ミナが生き返る! また隣で笑ってくれる! 希望を持たせたのはお前だ!』

『そうよ。その希望を踏みにじっているのも私ね』


 怒りに任せて剣を突きつけた。切っ先を目前にしても呪い師は動じることもなく踏み出してきた。その額に剣が触れる。

 心が暗く冷えていくのがわかった。戦争で勝つのが最善と信じていた頃のように。ためらいもなく命を刈り取っていた頃のように。


『構わないわ。やりなさい。刺せばミナの体は死に、私は体を失う』

『ギル! 駄目だ! 奥さんなんだろ! それだけはやっちゃ駄目だ!』


 カールが声を張り上げ、詰め寄ろとするが、ブルーノは肩をつかみ、それを阻んだ。


『止せ。それはギルが決める事。我らが口出ししてよい事ではない』

『だけど! 道を間違ったら教えてやるのが友達だろ! 伯爵はギルが道を踏み外してもいいのかよ!』


 ブルーノの言う通りだ。私が決める。私が殺す。そして自分も殺せばいい。簡単な話だ。さっさと終わらせよう。私たちはとっくに死んでいるべきだ。

 それなのに、邪魔をするようにブルーノは大声で笑い始めた。


『ハーハッハッハ! すまぬ。あまりにも愉快でな。ギル、聞いたか? 我輩の十分の一も生きていない若者から教えを受けたぞ。うむ、カールが正しい。先ほどの発言は撤回する』

『黙れ!』


 勝手に話を進めるな! 邪魔をするな!

 呪い師は動かない。やるなら今だ。

 なのにブルーノの声がまとわりつく。


『友よ、一つだけ伝えておこう。はるか昔、塔の地下で引きこもっておった我輩を救った事、テレーザを助けた事、感謝しておる。おかげで我輩は幸せであるぞ』

『……なんだ、それは? それで私を止めたつもりか?』

『我輩の素直な言葉だ。受け取るがいい。それにな……』


 ブルーノはニヤリと笑った。


『我輩が止めずとも、勝手に止めるであろう。貴様はそういう男よ』


 とんだ勘違いだ。剣を引き、突き入れようとした時、束頭が見えた。片面には金床とユリの花、もう一面にはつば広帽。この剣を手にした時クレイグは言った。人を救う聖剣になるか、悪名高き魔剣になるか、それともガラクタになるかは私次第だと。

 クレイグの剣だからヴァルターに勝てた。聖剣を相手にしても折れずに支えてくれた剣を汚すわけにはいかない。


『ギル!』


 カールがまた叫んだ。私を止めようと必死になっている。強い心のまま立派な男になった。そのカールを支えたのはクリスタ。クリスタは祖母アメリーの志を受け継ぎ、アメリーその傍らには執事のレオがいた。レオは言った。世界には私が必要だと。とんでもない。世界に救われたのは私だ。

 目を閉じ、大きく息を吐いて、剣を下した。

 もう殺す気はない。心が折れたわけでもない。清々しいとは言いがたいが、受け入れられそうな気がした。

 一部始終沈黙を貫いていたヴァルターが忌々しそうに口を開いた。


『後悔しますよ』

『いいや、これでいい』

『なぜ? 今やらなければ永遠にあなたの目的は成就したいでしょう』

『もうその目的に意味はない。それに……』


 理解できないといったヴァルターに笑ってやった。


『怒りに溺れて大切なものを見落とすのはごめんだ』

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