第2節① 商人と旅人

 ワタシは途方に暮れていました。夜は暗いものですが、深く茂る木々のせいで一層深い闇に包まれていました。


「暖かい……」


 不安をごまかしたかったのでしょう。思いが声に出ていました。たき火の灯りと熱がワタシを支えてくれていなければ震えていたでしょうね。

 日が落ちる前に火を起こせて本当に良かったと思いました。暗闇の中で火を育てるなんて無理だったでしょう。たき火は初めてやりましたからね。やり方を教わっておいて良かった。行商に同行してくれた傭兵ようへいに感謝ですね。

 乾いた枝を放り込むと火の粉が舞い上がりました。それは熱を失い、闇に溶けていきます。

 ワタシも消えてしまいそうな気分になってしまいました。たった一人、誰も訪れないであろう、この森の中でひっそりと消えてしまうのでしょうか?


「いくら急ぎで荷を届けなければならなかったとはいえ、単身で森に踏み入るべきではありませんでしたね」


 落ち込むワタシを励ますように、たき木がパチッと鳴って炎が踊りました。

 火はいい。こんな状況でも多少は落ち着いていられます。揺らぐ炎、爆ぜる音、独特な香り。いいものです。腹の虫さえ鳴らなければ、ですが。音が大きく響くのは肉付きが良すぎるせいでしょうか? 痩せて口ひげを生やせば威厳が漂うかもしれません。父のように。


「父の手帳を信じたのは失敗だったかもしれません」


 二日の移動が、森を通れば一日で行ける。父の残した古い手帳には、そう書かれていました。

 父。ワタシが11歳の時、海で行方不明になった父。国内でしか取引をしていなかった父はなぜ海を越えたのでしょうか? そもそも仲が良かったわけではありませんでしたし、何を考えているかわからない人でした。

考えても仕方がありませんね。答えはでません。もう、父を知るすべは残されていませんから。

 父への思考が止まると、現状への不安が膨らみ始めました。


「それにしても、この森はなんでしょう?」


 何も聞こえません。夜に活動する動物がいないのでしょうか? そしてワタシはどうしたらいいのでしょう? 寝てしまっていいのでしょうか?

 傭兵の言葉を思い出しました。火があれば動物は寄ってこないと。その後、動物はなって笑っていた事も。

 動物以外ってなんでしょう? 夜盗ですかね? 動物がいなさそうなら火を消して野盗を警戒すべきなのでは? しかし火を消すなんて恐ろしくて無理です。絶対に無理です。


 その時、何かが聞こえました。

 これは足音? 耳を澄ますと、靴裏で土を擦る音、枝を踏む音、小石と小石がぶつかる音が聞こえました。それは段々と近づいてきて……夜盗ならどうしましょう? ワタシ、武器になるような物は持ち合わせていません。お金を渡せば見逃してもらえるでしょうか? 最悪でも荷物は守らないといけません。ワタシの薬を待っている人々のためにも。

 決して奪われないように荷を抱きかかえました。ブーツが見え、コートが見え、つば広帽が見えました。旅人でしょうか? 無害そうに見えましたがコートの内側にあるのは短剣です。握りの痛み具合でとても年期が入っているのがうかがえました。


「ワ、ワタシは薬を届けなけばなりません! お金なら差し上げます! 見逃してもらえませんか?」


 ワタシの震える声を聞いた旅人はつば広帽の下で苦笑し、否定するように手を振りました。


「私は夜盗ではない。ただの旅人さ。君は一人かい?」


 信用してもいいのでしょうか? といっても力を持たないワタシは信用するしかありません。


「は、はい。迷ってしまいました」

「それは災難だな。なぜ、この森を通った? 迷いやすいこの森を通る者はほとんどいないのに」

「いつもは街道を使いますが、急ぎでして近道のつもりでした。アナタこそ、なぜこの森を? しかもこんな時間に?」


 今、気付きましたが、この人は灯りも使わずにここまで来ました。旅慣れているに違いありません。


「たまに通るんだ。近いし、ここでやる事もある。まあ、私の話は一先ず置いておくとして、とりあえず火を消そう」

「危険ではありませんか?」

「大丈夫。ここは安全だ。この森に害を成さない限りはね。つまり火は良くないということさ」


 ああ、あんなに苦労して育てた火なのに、あっさり処理してしまいました。たき火がくすぶる音だけを残して闇と静寂が全てを飲み込んでしまうと、世界で一人になってしまったようです。

 これは思った以上に恐ろしい。すぐそこに旅人がいるとわかってはいますがとても孤独を感じました。


「あの、何も見えません。どうしたらいいんでしょう?」

「寝てしまえばいい。安心していいよ。森を抜けるまでは私も一緒にいる」

「そう言われましても、とても眠れそうにありません」


 旅人は「それでは、よく眠れるように魔法をかけてあげよう」と、なにやら荷物をかき回す音を立てています。

 突然、手をつかまれて飛び上がりそうでしたが、気づかれてませんよね?


「大丈夫だから。落ち着いて。これを飲むといい」


 気づかれてましたね。

 渡されたのはコップですか。……この香りは!

 一なめしてみました。ああ、この味わい! この深み!

 次は一口。もう一口。なんて美味い米の酒! おや、もうありませんね。


「悪いけど、おかわりはないんだ」


 残念。差し出したコップを取り上げられてしまいました。


「素晴らしい魔法でした。米の酒ですね。それもかなりの上物。どちらで手に入れたのですか?」

「ちょっと遠出しただけさ。さあ、もう眠るといい。横になって、目を閉じ、耳を澄ますんだ。森の息遣いを感じて」


 言われるまま、横になりました。耳を澄ますと先程まで聞こえなかった、葉の擦れる音、虫が草をかき分ける音、色々なものが聞こえました。おや、遠くでフクロウが鳴いていますね。

 それに優しい土の匂い。深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出します。ワタシの意識は広く、薄く広がり、森と溶け合い、一つになった気がしました。

 胸の上で手を組み、自分の鼓動と森を感じながらする呼吸はとても穏やかなものでした。

 いつの間にか恐怖の森は安らぎの森になっていました――


 木漏れ日で目が覚めました。朝日が差し込む森はなんともいえない美しさです。枝の上にリスがいてワタシを見つめていました。昨夜は物音一つなかったのに、こんなにも近くにいたのですね。

 ワタシが森を怖がっていたように、森もワタシを怖がっていたのかもしれません。


「おはよう。よく眠れたようだね」

「おはようございます。お陰様で良い目覚めです」


 土の上で眠ったのに疲れがすっかり消えていました。これなら軽快に足を動かせるでしょう。


「それは良かった。少し寄り道するけど昼過ぎには森を抜けられるはずだ。それと出発前に、この森の決まりを教えておこう」


 旅人が言うには、火を使ってはならない。森の物を奪ってはならない。森を汚してはならない。しかし水はいただいても良いそうです。

 後片付けを念入りにしてから歩きだしました。もちろん先導は彼です。


「昨夜、火を使いましたが大丈夫でしょうか?」

「すぐ消したし大目に見てもらおう。そうだ、酒を持っているかい? あれば分けて欲しい。昨夜、飲んだ代わりを寄越せって話じゃない。通行料みたいなものさ」

「はい。用意していています」


 取り出そうとすると、今はいい、と止められました。一瞬、彼の表情が変わりました。ええ、間違いないです。ワタシは商人ですから表情を読むのは得意です。


「用意してきたって事は、知ってたみたいだね」

「父はこの森をよく訪れていたそうです。ここについて書かれた手帳が残されていました。しかし大半が失われていて、酒が必要だ、程度しか有益な情報は読み取れませんでした」

「そうか、お父さんの名前は? そういえば名乗っていなかった。私はギル。改めてよろしく」


 足を止め、振り返った彼の手を握りました。力強く握り返してきたその手は、若い見た目とは裏腹の古傷だらけで年期が入った手でした。


「ロバートの子、トレバーと申します。こちらこそよろしくお願いします」

「ロバートは元気かい?」

「いえ、25年程前でしょうか。乗っていた船ごと行方不明になりました。船の残骸が打ち上げられていたので、恐らく、そういう事なんだと思います」

「そうか……そろそろ着くよ」


 父の消息を聞いた彼が寂しそうな顔をしたのを、ワタシは見逃しませんでした。

 まるで、この若い旅人が父を知っているように思えました。

 ふふっ。いくらなんでもありえない話です。

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