ギンガムチェックの女

尾八原ジュージ

ギンガムチェックの女

 私の人生で一番の修羅場といえば、やっぱり高校二年生の春、私の母が死んだときだと思う。正確に言えば、病院で母の遺体を確認した私が家に帰ったら、リビングの隅で、死んだはずの母がこちらに背中を向けて立っているのを見つけたとき、だ。

 死んだ人間が、どういう基準で幽霊になったりならなかったりしてるのかはわからないけれど、少なくとも母に関しては幽霊なんかにならずに、とっとと成仏していた方がしあわせだったと思う。なぜって私が母に向けていた面はあくまで私の一面でしかなかったし、私は結局その取り繕った一面を向けることをやめ、代わりにちょっと遅めの反抗期を母の幽霊にぶつけることになったからだ。


 物心ついた頃から、母はなんていうか「めんどくさい」ひとだった。いつでも自分が一番気にかけてもらえないと駄目で、些細なことが地雷で、すぐに勝手に傷ついて怒り出す。

 たとえば母が私に何か呼びかけたときに、私がたまたま聞こえなくて返事をしなかっただけで突然ビンタされたりとか、母の作った料理を美味しそうに食べなかったからと言って、黙ってギロギロ睨んできたかと思えばいきなり金切り声を上げて罵倒したりだとか、そういう人だった。そんな母の元で育った私が、そこそこ世間で通用するような、まともな人に近い価値観を持っているのは、近くに住んでいた父方の伯母のおかげだと思う。

 私が6歳のときに弟が産まれ、そうすると母はますます不安定になってまだ赤ちゃんの弟にまで当たり散らした。父はもう諦めているようで何も言わない。こんな状況で私は赤ん坊の弟や自分の生活を守らなければならず、おかげで小学校に入る前には、母相手の処世術がすっかり身に着いていた。母が不機嫌になったら、それが理不尽なことでもとにかく謝って謝って、おだてておくのだ。お母さん大好き、お母さんすごいね、お母さんが一番って何度も何度も言っていい気分にさせておけば、ストレスは溜まるけれど、ほどほど平和に過ごすことができた。

 母は家族だけでなく他人に対してもそんな具合の人だったので、普通に働くなどということはできなかった。商業高校を卒業したのち、何年か親戚の会社で雑用ばかりのアルバイトをしていたが、父と結婚してからはそれも辞めて、以来ずっと専業主婦だった。とはいえ家事はほとんど私や伯母がやっており、母は自分の好きなことばかりしていたから専業主婦とも言えない。あえて言うなら、めんどくさいし全然かわいくないペットみたいなものだった。ゴキブリの方がまだマシなくらいだ。

 そんなわけで私の幼少期は母のゴキゲンをとって始まり、とりながら終わったという感じで、高校二年生の春までよくもまぁ一度もブチギレることなく過ごしたものだと自分でも思う。もっとも母はめんどくさいけど単純なひとだったので、地雷のパターンがそこそこ見えやすかったというのはある。


 さて、そんな母が酔っ払い運転の車に轢かれて死んだとき、こんなこと絶対に他人には言えないけども、私は「ああ終わった」と思ってとても嬉しかった。本当にほっとして、悲しくもないのに涙がボロボロ出た。もっとも世間的にはママ大好きな娘で通っていたから、ボロボロ泣いているくらいがちょうどよかった。

 あのめんどくさい女が死んでめでたしめでたし、私の人生はここから始まるんだ、なんて思いながら内心ルンルンで帰宅した私の目に、生前と同じ格好をした母の後姿が飛び込んできたときの衝撃、どうか想像してみてほしい。それはそれはびっくりしたし、そしてひどくがっかりしたものだ。

 それからものすごく腹が立った。まだ私の人生を邪魔するのかと思ったら、それまでに経験したことがないくらいの怒りが湧いた。だから絶対にかまってやらないと決めた。その日から、母の幽霊を無視して過ごす生活が始まった。


 不思議なことに、母の幽霊が見えるのは家族の中では私だけだった。父も弟もあえて黙っているような腹芸ができる性格ではないのに、エアコンのちょっと左下でキャビネットの隣、何もない隅っこに、壁の方を向いて立っている母については何も言わなかった。私にはまるで実体があったころの母と同じように見えるのに、おかしなものだと思った。

 母の幽霊は、生前よく着ていたのと同じ、白地に赤のギンガムチェックの手作りワンピースを身にまとっていた。母の趣味は洋裁で、よく私に洋服を作ってくれたものだ。といってもまったく嬉しくなかった。母はおそろしくセンスのない人で、ふた昔くらい前の型紙を使って古臭いシャツやスカートやワンピースを、点数だけはたくさん縫いあげた。特にギンガムチェックが好きで、家にはいつも同じ模様で色違いの布が、ここは手芸店ですかと思うくらいたくさん置いてあった。

 私はダサい母の服がもちろん大嫌いだったが、着ないと恐ろしく機嫌が悪くなるので仕方なく着ていた。母は弟にも服を作ったが、弟はこれをアッサリと拒否し、母は母でこれを「男の子だから仕方ないわね」とアッサリ受け入れ、私の服ばかり作るようになった。私のワードローブはギンガムチェックばかりになり、いつか大人になったら好きな柄の服を買って着るんだと心に決めた。

 そのギンガムチェックのお手製のワンピースを着て、母の幽霊は四六時中壁ばかり見て立っている。よくもまぁ飽きないなと思っていたが、幽霊なんて人間の常識で考えたらいけないものかもしれない。


 とにかく私は母を無視した。一日も経つと、私には母がものすごく不機嫌になったのがわかった。顔は相変わらず壁の方を向いていて見えないけれど、私くらいあの人を見慣れていれば、後姿でその判断ができる。怒っているなということがわかってからも私は声をかけず、ただチラチラ観察するだけに留めていた。

 来る日も来る日も、母は壁の方を向いて立っているだけだった。こちらを振り向いて物凄い顔で睨むとか、金切り声で罵倒するだとか、そういうことは一切なかった。ただ怒っているオーラを出しながらつっ立っていた。

 生きているときよりはるかにマシだったので、私は安心して母を無視することにした。もちろん母が作った服など二度と着ず、小遣いで自分の好きな服を買って好きに着るようになり、毎日がちょっと楽しくなった。


 その頃に一度、とても驚いたことがあった。それは私が友達の文香ちゃんを家に呼んだときのことだ。

 リビングに足を踏み入れた彼女は、何気なく母が立っている部屋の隅を見て「ひっ」と声を上げた。それから私の肩をトントントンと叩いて、「びっくりしたぁ。ねぇ、あそこに立ってる女の人誰?」と、母をこっそり指さして囁いたのだ。

 私は、私以外にも母が見える人がいたことに驚いたし、父や弟には見えない母が、赤の他人の文香ちゃんには見えたということにも驚いた。彼女に教えてもらった「部屋の隅に立っている人」の容姿はまさしく私が見ている母そのものだったので、とにかく彼女に母が見えるということは確からしいと思った。

 それから私は友達を家に招くことが増えた。母のことが、誰に見えて誰に見えないのか知りたくなったのだ。その結果、割合でいうと見える人は2割くらいで、その場合はかなりはっきり見えるらしいということがわかった。色々呼ぶうちには、私にも見える人の特徴がわかりかけてきた。文香ちゃんもだけど、特別親切というかお人よしというか、そういう人を選んでいるらしい。つまり「どうしたの?」と優しく声をかけてくれそうな人だ。

 呆れた。死んでからも母はかまってちゃんなのだ。父や弟に姿を見せるより、他人に優しくしてもらうことの方が大事なのだ。

 肝心の父と弟といえば、父はお金は稼いできてくれるけれど家では何もせず、弟ときたら子供だから家に金を入れないのは普通のこととして、その上で手伝いなどはやっぱり何もしなかった。そのくせ私のことだけはなめ切ってデカい顔をしており、もう赤ちゃんの頃のかわいい弟は面影すら残っていなかった。父もその態度を咎めることなく、ふたり一緒にデカい顔をして、私と口を利くときはほとんど何か指図するときだけ、という具合で、私たち家族は同じ檻にたまたま入れられた動物がマウントを取り合うような情のなさで生きていた。

 まぁとどのつまり、父も弟も私に甘えていたんだと思う。母がそうするのを見ていて、無意識のうちにそういうものだと思い込んだのだろう。


 一人暮らしは父の許可が出ず、私は地元の大学に進学し、地元の会社に就職して、家事全般をこなしながら働いた。父は相変わらずお金を入れるだけ、弟は名前だけ書けば受かると言われるような高校に進学して馴染めず、引きこもりになって日がな家の中をウロウロし、みるみるうちにブクブクと太った。母は相変わらず壁の方を向いて立ち、私たちは毎日味気のない食事を、母のいるリビングのテーブルで食べた。

 そんな生活をしながら、私はこっそり逃亡の準備を進めていた。元々さほど多くもなかった荷物を少しずつ運び出し、再就職に有利になるよういくつか資格をとった。そして会社を退職した日、私は颯爽と家から逃げ出して、遠方に引っ越した。

 伯母の伝手で見つけた引っ越し先のアパートにはもちろん母はおらず、私は快適な一人暮らしを始めた。自分のためだけにご飯を作り、自分のためだけに部屋を整える生活! すばらしかった。転居先で無事に新しい仕事を見つけることもできた。ようやく本当の人生が始まったと思った私は、実家も父も弟もほったらかして、顔を見るどころか連絡すら一度もしなかった。なにか問題が起こるだろうかと心配したが幸いそんなこともなく、私は実家から切り離されて快適な生活を、およそ3年半過ごした。

 その3年半の間に何があったか知らないが、ある日私の元に、父と弟が同時に亡くなったという知らせが飛び込んできた。無理心中だった。

 片付けのために一度だけ帰った実家のリビングには、まだギンガムチェックのワンピースを着た母が立っており、私は昔よく通りかかった公園の銅像でも見るような気分でそれを眺めた。

 父や弟の法定相続人は私だけだったので、私が実家を相続することになった。さっさと売ってしまいたかったが、無理心中の起こった家はなかなか売れなかった。解体するのにもお金がかかるのに、現金は父と弟の葬儀をあげると、ほとんどと言っていいほど残らなかった。

 そんなわけで実家はその場にそのまま残ることになった。ほったらかしているうちに建物も庭もだんだん荒れて来るし、どうしたもんかと思っていた矢先、タイミングよく道路拡張のために土地を売ってほしいと県から要請があった。私は二つ返事で売却し、実家は取り壊されて道路になった。


 で、母はどうなったかというと、まだ同じ場所に立っている。もうそこは自宅のリビングではなく道路になっているのに、それには拘らないようだ。今その道は小中学生の通学路になっているそうだが、幽霊が出るというので噂になっているらしい。ギンガムチェックのワンピースを着た、髪の長い中年の女が佇んでいる、と。

 いまだに地元にいて、私と連絡をとってくれる文香ちゃんによれば、母は何とも恨みがましい顔をして、今でもそこに立っているという。

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