第90話 初めての雰囲気

 みんなが帰宅し、家のリビングには俺と史織、そして水菜の三人が残った。


「すまんな。みんな帰ってるのに残ってもらって」


「いや、別に全然大丈夫です」


 全然大丈夫、という割には水菜からいつもの人懐っこさというか、子供っぽさのようなものが感じられない。

 それどころか、いつもニコニコしている表情の水菜の顔が引き攣っているようにすら見える。


 水菜の雰囲気に違和感を感じながらも、違和感の理由を分からずどうすることもできず水菜との会話を続けた。


「史桜くん、私自分の部屋に戻ってるね」


「おう。結衣が寝てるだろうから静かに上がってってくれ」


 俺と水菜に気を遣った史織は俺のお願いにコクっと頷いた後で二階へと上がって行った。

 そしてリビングには俺と水菜が二人きりになるが、史織がいた時よりも部屋の雰囲気は重苦しく感じる。


 何も考えずに史織が二階に上がっていく事に対して返事をしたが、正直史織にはリビングに残っていてほしかったと思ってしまうほどにリビングの雰囲気は重苦しい。


「結衣がさ、謝っておいてくれって言ってたんだよ。意図的ではないとはいえお姫様抱っこされるなんて水菜ちゃんに申し訳ないって」


「そ、そうなんですか。別に私は気にしてませんし、もちろん怒ったりもしてませんから安心してくださいって言っておいてください」


 水菜の話す内容は結衣を気遣うものだったがやはり先程から俺が感じている違和感は間違いではないようで、水菜は言葉を詰まらせながら俺にそう返答した。

 気にしてないとは言いながらも俺が結衣をお姫様抱っこしたのを気にしているのだろうか。

 これまでの雰囲気とは異なる雰囲気の水菜が何を考えているのか正確に理解する事は難しいが、原因があるとすればやはり結衣のことだろう。


「水菜。ごめん」


「なんで謝るんですか。先輩は何も悪くないですし、むしろ結衣先輩を助けたんですから。誇って良いくらいですよ」


 結衣のことで怒っているのだとしたら、俺にできる事は素直に謝る事だと考え謝罪をしたのだが、水菜は俺は悪くないと言った。

 だとしたら、何が原因で水菜の雰囲気が違うのか訳がわからないし、どうするべきなのかもなにも分からない。


「そ、それじゃあもう私帰りますね」


 --もう帰る? 確かに伝える事は伝えたが、せっかく二人になったのだからもう少し会話を続けても良いのではないか? いつもの水菜ならこんな急に帰るとは言い出さないはずだ。


「え? もう帰るのか? まだもうちょっといても……」


「いえ、これ以上いると結衣先輩の迷惑にもなりますし大丈夫です。本当に帰りますから」


「で、でも……」


「いえ。帰ります。お邪魔しました」


「え、ちょ……」


 俺の方に背中を向ける水菜の手を掴もうとして、手が届くところにいたというのに俺は水菜の手を掴まなかった。


 そして水菜は小走りで俺の家を出て行った。 


 恋愛経験のない俺には今水菜が何を考えているのか、どれだけ考えても理解することができない。


 水菜もいなくなり、一気に静まりかえってしまったリビングで、俺はどうすることもなくただ立ち尽くすことしかできなかった。

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