第57話 異常な誘い

 俺が結衣との会話に違和感を感じていたのは結衣が俺の事を榊くんと呼んでいるからだった。


 まさか史桜くんと名前で呼んでいた事を忘れて榊くんと苗字で呼んでいるなんて事はないはずだ。

 俺が結衣を振る前に結衣は俺の事を史桜くんと呼んでいたのにも関わらず、態々呼び方を変えているのには何か考えがあるのだろう。


 結衣を振ってから、結衣はあからさまに俺の事を避けていた。

 俺が結衣に近づくとそれが意図的であろうと意図的でなかろうとある一定の距離を保って仁泉も離れて行くし、避けるどころか目を合わせた記憶すらない。


 そこまで徹底して俺の事を避けていたのに今日この場にやってくる事が出来たのは、俺を榊くんと呼ぶ事を盾にしているからなのかもしれない。


「ごめんごめん、変なこと言って困らせちゃったね」


「いや、大丈夫。ちょっと焦ったけど」

 

 実は今日、俺は水菜からもう一つミッションを託されている。

 結衣と一緒にカフェに行ってこいと言われた時よりも、もう一つのミッションを聞いた時の方が驚きは大きかった。


 元カノと二人でカフェに行くというのも異常ではあるが、そのミッションはそれを上回る異常さなのである。


「……あのさ、今度俺の家来ない?」


 自分で言ってて寒気がする。彼女がいるのに元カノを自宅に呼ぶなんてクズのする事だが、それを今カノからお願いされているのだからもう訳が分からない。

 良い彼女だとは思うが、優しすぎて逆に心配になるわ。


「……え?」


 元カレから自宅に来ないかと誘われれば色々な事が頭を駆け巡るだろう。


 まさかまだ私の事が好きなのか? 好きではなくなったけど体の関係を続けたいのか? とか。

 そもそも体の関係は持っていないのでそんな勘違いをされる心配もないけど。


「あ、ごめんちょっと言葉足らずだったわ。仁泉だけじゃなくて水菜もくる」


 今の俺の誘い方だとあたかも俺が自分の意思で結衣を自宅に誘い、しかも二人しかいないような言い方になっている。

 二人しかいないと勘違いして俺の家に来た結衣が俺の家に水菜も居る事を知ったら修羅場にもなりかねない。まぁ水菜だけじゃなくて史織も居るから安心だけどな。


 というか結衣にはまだ史織の話してなかったな。


 ……まぁいっか。結衣がくる時は史織には自分の部屋に隠れていてもらおう。別に隠す理由もないけど。


「なるほど、それなら良かった……って良くないけど⁉︎ 最初は元カノを自宅に呼ぶただのクソ野郎かと思ったけど、まさか元カノと今カノを同時に楽しむつもり⁉︎ そんなにクズだとは思わなかった‼︎」


「ば、バカ‼︎ そんな訳あるか‼︎ 俺にそんな趣味はない‼︎ 水菜から結衣を誘えって言われたんだよ」


「……なるほどね。真野さんがそう言ってくれてる事は信じるけど、真野さんの考えてる事は分かんないなぁ。元カノを彼氏の自宅に呼ぶなんて、いくら私の元気がないからって普通出来る事じゃないよ」


「それに関しては俺にも分からんよ。でも多分結衣を元気にしたいって言うのは水菜の本心なんだと思う」


「そっか……。本当にお似合いの二人だね」


「いや、水菜は俺と付き合うなんて勿体無いよ。もっと良い人が五万といるっていうのに」


「本当にそんな事ないと思うけどな……。よし、真野さんがそう言ってくれてるならお言葉に甘えて史桜くんの家、行っちゃおっかな」


 水菜は結衣を誘っても断られるかもしれないからどんな手を使ってでも俺の家に連れてきてくれと言っていたが、その不安は杞憂に終わったようだ。


 そして今、俺の家に来る事を了承した結衣がポロッと俺の事を"史桜くん"と呼んだのを俺は聞き逃さなかった。

 その言い間違いは、ただ本当に気を抜いてポロッと言ってしまっただけなのか、それとも俺の家に行く事になって思わず喜んでしまいボロを出してしまったのか。


 どれだけその言葉の裏を考えたところで、俺には結衣の本当の気持ちを知る事は不可能なのである。

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