第25話 振りたい理由 

 仁泉は今、坂井でもある俺の目の前で坂井を振るという言葉を言い放った。信じたくはない一言だったが、この距離で今の言葉を聞き間違える訳もないのでそれは紛うことなき事実なのだろう。


 この前のデートは弁当を作ってくれたりクッキーを作ってくれたりと感触は割と良かった。それなのに、急に坂井を振ると言い出した真意は一体なんなのだろうか。


「今の彼氏を振る?」


「うん。振る」


「なんで? 上手く行ってない訳じゃないんだろ?」


 ここで仁泉が、「坂井には飽きた」とか、「よくみたら顔が好みじゃなかった」とかそんな理由で坂井を振ろうとしていると言おうものなら、俺は仁泉を好きではなくなってしまうだろう。


 しかし、あれだけ仲睦まじくデートをしていたとなるとそれ以外の理由が見当たらない。


「うん。むしろ上手く行ってるくらいだね」


「じゃあ今の彼氏と別れる必要なくね?」


「そうだね。別に今の彼氏に悪いところがある訳じゃないしかっこいいし優しいし。それで振るなんて自分でも馬鹿だなぁとは思うんだけどね。ここで私が今の彼氏を振る理由を言うのは卑怯な気がするから……。とりあえず、今の彼氏は振ります」


「……そうか」


 訳が分からない。顔も良くて性格も良くて二人の関係は上手くいっている。それでも仁泉が今の彼氏を、坂井を振りたい理由が見当たらなさ過ぎて辛いんだが……。

 考えられる理由と言えば坂井よりももっと良い男を見つけたとかそんな理由だろうか。それなら理由としては納得出来る。


 俺も仁泉から一度振られてなかったら、仁泉が坂井よりも榊を好きになってくれるって事もあったのかなぁ。いや無理か。うん無理だな。


 今までろくに恋愛なんてしてこなかったが、女心ってのは本当に難しい。これが、女心は秋の空、ってやつか……。秋の空よりコロコロ変わってるだろこれ。


 まぁ坂井が仁泉から振られるってのは悲しい話ではあるが、仁泉の方から坂井を振ってくれるって事はこちらから仁泉を振る必要が無くなるって事だ。そうなれば今まで協力してくれた水菜も喜んでくれるだろうし悪い話ではない。


 坂井の方から仁泉を振るとなれば仁泉を悲しませる事にもなるし、悪い話ではないどころかこれは喜ぶべき状況なのかもしれない。


 ただ、俺の心の中にはモヤモヤとした感情が渦巻いていた。




 俺はこのまま仁泉に振られてしまっていいのだろうか。




 仁泉から振られれば全てが上手く行くのかもしれないが、本当の意味で俺の気持ちが変わった訳ではない。

 悩みに悩み抜いた末、自分で決意して仁泉を振るのであればその後も上手く行くのかもしれないが、仁泉から振られたのでは仁泉に対する俺の気持ちはいつまで経っても消え去らないだろう。


 それに、仁泉から振られる事になれば水菜の期待を裏切ってしまう事にもなるのではないだろうか。

 先程は水菜も喜んでくれると思っていたが、坂井が仁泉の方から振られるという状況は本当に水菜が望んだ事なのだろうか。


 既に一度仁泉を振れなかったのでその時点で水菜の期待を裏切ってはいるのだが、なんとかして自分から仁泉を振るつもりではあった。

 それが結局俺からは何も出来ませんでしたでは水菜も納得出来ないのではないだろうか。


 衝撃の話を仁泉から聞かされた俺は驚きを抑え、平然を装いながらその後も仁泉とのカフェでの会話を楽しんだ。


 カフェから退店し仁泉と別れ家に向かって歩き出した俺は、このままでいいのだろうか、という漠然とした不安を抱えていた。

 足取りは重い。自分でもよくわからない漠然とした不安を抱えたまま、普段よりゆっくりとしたスピードで歩きながら帰宅したのだった。

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