20 嘘



「小春様はどうして逃げてきたのですか?」


びくり、と体が震えてしまった。それは伊琉が怖いからではなく、唐突に小春が恥ずかしいと、自分の弱みだと、情けないと思っている部分に触れたからだ。


伊琉は小春から離れ、月へと近づいていく。ゆっくりと手を伸ばし、まるで月に触れるかのように窓に触れた。


「逃げた理由というのは、もう新しい世界では関係ないと思うでしょう。けれど、それは目を背けているだけにすぎない。必ずもう一度、壁にあたります。だからこそ、僕は今ここで『言いたくないなら言わなくてもいい』なんて優しいことは言いません。許してくださいね」


「どう、して」


どうして、そんなこと言うんだろう。やっとの思いで逃げられたのに。前の世界での苦しみが貴方たちにわかるはずが——。



唐突に、友達の顔が浮かんだ。心配そうな顔をして口を動かして、最後に息を吐き出しながら苦しそうな顔をする。そして「小春」と優しい声で名前を呼んで。



「だからって、一人でその逃げた理由について立ち向かわなくてもいいんです。だから今ここで話してほしい」


——逃げた理由は、ちゃんと言えるその時まで考えておきます。

そう言ってはぐらかして、曖昧にすればよかったのに。どうしても、言葉が飲み込めなかった。



「どうしてですか?壁にあたる?それは本当に?それって全部、私が悪いってことじゃないですか。私が周りから受けた傷なんてお構いなしに、全部私が悪いって言ってるように聞こえます」



気持ち悪い塊が胸のところに現れて、それはどんどんお腹の底へ溜まっていく。体が重い。頭も重くて俯いてしまう。


どうしてこんなにも責められないといけないのか、わからなかった。ただ、嫌な世界から逃げたかっただけなのに。



——誰だって、怖いですよ。逃げるのだって勇気がいりますから。



彷彿される一煌の声。一煌はわかってくれたのに。


「小春?」と困惑した声を出し、来駕の手が小春の背中にそっと触れる。その刹那、伊琉が「小春様」と強く鋭い声を出した。



「元いた世界の記憶保持者ということで間違いありませんね?」



「あっ」


その強い言葉に、体がぐらついてしまう。立っているのがやっとだった。


しまった、と今更口元を押さえても仕方がないのに。血の気が引いていく。記憶を持たないのに、逃げた理由を言えるなんておかしいことは誰でもわかる。

いるのがやっとだった。



「逃げた理由を聞くと来訪者は皆様、覚えていませんと仰られます。ですが、この世界でも同じことを繰り返し、また逃げたいと思う人が大方ですが。逃げてきた、ということはわかっているので、そこでいつも道がわかれるのですよ。立ち向かって逃げずに戦うか、もう一度逃げるか。——小春様、そんなに怯えた顔をしないでください」



 体の力が抜けてしまい、来駕に支えられてしまう。その時に見た来駕の表情は強張り瞳が揺らぎ、状況を把握できていないようだった。



「記憶、あるのか……?」



か細く微かに震えた声は罪悪感に苛まれるのに十分すぎるものだった。



「来駕、小春様を責めるのは良くないよ。案内人の不注意なんでしょ、多分。それか何か意味があることなのかな。それは僕たちにはわからないけど、小春様にはそういう試練が与えられたってだけだよ。来駕のその様子だと、記憶がないって言っちゃったのかな。新しい世界に来て混乱して話を合わせちゃったんでしょ。ね。来駕、ちゃんと目を離さないように。守ってあげてね」



「……御意」



「小春様、逃げてきた理由、今度お会いした時にはぜひお聞かせくださいね。それから、」



 部屋を出る直前、伊琉は体を傾け月と共に、美しい弧を描いた微笑を浮かべてそう言った。「——来駕を、貴方の言葉と行動で傷つけたことをお忘れなきよう」



誰かを傷つけることは、こんなにも、簡単だ。



「……この嘘は、仕方のない嘘だよな」


「……来駕、あの、」



腰を支えてくれている来駕から離れ、動揺が隠せない自分の心臓の音を感じながら顔を上げる。来駕は俯きがちになっており、その目は前髪で隠れてしまっていた。無気力にも似た冷たさが来駕を取り巻いているように見えた。



「嘘をつかないで生きていける人間なんていないよな。わかってるよ、大丈夫だ」



「……!らいっ、」



ひゅっとの喉を通る息が、鳴る。上手く名前を呼べなかった。


まさかそんな顔をして笑うなんて、思ってもいなかったんだ。眉を下げて傷ついた顔をして、それでも口元に笑みを作って、目は恐怖に揺れて弱々しく縮こまって。



来駕の口にした「大丈夫」はきっと自分に言い聞かせるものだった。


小春は、わからない、と心の中で呟く。私は何のために嘘をついたんだっけ。一煌のためだ。でもそれは一煌に頼まれてそう言えと言われたわけじゃない。状況判断だ。自分の身を守るためには必要だった。間違ってない。


でも、じゃあ間違っていなかったのなら何故、目の前のこの人にこんな顔をさせているの……?


小春はきゅっと唇を噛んだ。



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