9 夜国の城
「俺に何の用だ。取引でもしようってのか?」
どうしよう。声をかける相手を間違えた。どうしよう、どうしよう。
男の腕を振り払おうとしてみるが、びくともしない。
この世界のことを一煌から聞けていなかったせいで、何をどうしたらいいのか全くわからない。もっと聞いておけばよかった。
男は冷たく小春を見下ろしていた。
ーー会社の人のことが、思い出されてしまって。
「わ、私!」
頭の中の彷彿を掻き消すように声を上げた。
男は小春の言葉や行動に敏感になっているようで、一挙一動に神経を研ぎ澄ませているようだった。
小春は男を見据え、今だ、と言葉をぶつける。
「記憶喪失で、自分の名前しかわからないんです!」
この世界のことをよくわかっていないまま下手に何かを話して敵だなんて認識されたら、それこそ一巻の終わりだ。
寝床や働き口を探すなんて夢のまた夢になってしまう。
だから今は、生きるための嘘をつく。
男は小春の言葉を聞くと肩の力を抜いて、掴んでいた手をゆっくりと離した。
「……そう、か」
そして申し訳なさそうな弱々しい表情になり、一度目を伏せた。
……んん?と、小春は首を傾ける。
想像していた反応と違う。
「油断させようとしているのか!」なんて言われたり、驚かれると思っていた。
それなのに男はあっさりと小春の言葉を受け入れているようで。
どうしてだろう。記憶喪失って、確かに言ったよね?
「名前は?」
男はゆっくりと顔を上げて、静かな声でそう聞いた。
その表情には敵意など微塵もなく、さっきまでの態度が嘘のように思えるほどだった。
「時長小春、です」
「小春。この世界では名字?だっけ?そういうのないんだよ。だから、名乗る時は『小春』だけな」
「は、はい……。」
男は俯きがちに小春の首肯を見届けると、「ついてこい」と言ってお城の方へ歩き始めた。
闇に揺れる黒い背中を見つめながら、小春は記憶喪失者としてどうしてこんなにもあっさり認められているんだろう、と考えていた。
別世界の人間は感性というか、感情というか、そういうものが特殊なのだろうか。
現代の日本だったら、驚いて医者に行けと言われるに違いないのに。
不安にも似た違和感を感じながらも今は男についていくしかなく、小春は前を向いた。
「わ、すごい」
自然に溢れる声。お城の全貌が目に入ってきて、あまりの美しさに魅了されてしまう。
白っぽく洋風な外観のお城には、月の光を思わせる明かりが所々に灯っており光の裏ーー影の部分でさえも建築の計算なのではないかと思うほどに、静かに美しく艶のある妖しさを感じる。
バルコニーは大きく広がっており、何人か外に出ているようだった。
塔はいくつかあり、その屋根は蒼く輝いているように見えた。
「ここは夜の国って書いて、夜国。で、あれが夜国の城。前は王様が住んでいたんだけど、まあ、いろいろあって今はいない。代わりに『夜の統率者』と呼ばれるお方が国を治めている」
男は淡々と手慣れた様子で話し始めた。
「……そう、なんですか?」
「ああ。夜国は夜が長いんだ。でもずっと夜ってわけじゃない。朝も来る」
また、違和感。
「……あの、どうして急にいろいろ教えてくれるんですか?」
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