4 神様



 小春は拍子抜けしてしまった。


もっと強い言葉をかけられると思っていたのに。なんだ、と肩の力が自然と抜けていく。


自分にとって重要なこと。それは必ずしも他人にとって重要とは限らない。所詮、他人事だし。




「一煌、さん。私、一緒に逃げたい。逃してくれるなら、もう、何でもいいや」



小春はへらり、と笑った。



私だって、と小春は思う。私だって、全然知らない人にだから「逃げたい」なんて言えるんだ。

他人事だと思ってくれる人にだからこそ言えることだってある。



小春の言葉を聞くと一煌は手を止めて顔を上げ、目を細めた。




目の前の男が本当に神様だとして。——信じられるわけがない。と、その表情をぼんやりと見つめる。

今まで妖怪や幽霊だって見たことがないし、不思議な体験だって一度もしたことがない。それが突然今日、神様に出会うなんて。信じられるものか。




でも、小春にとってこの出来事は日常を食い破る「大事なこと」だった。

毎日、毎日、繰り返し。昨日も今日も同じような毎日で、もう日にちの感覚もなくなっていた。




もう何でもいいから、私をどうにかしてほしい。

小春はずっと、最近はずっと、そんなことを思いながら生きていた。


それは苦痛の塊でしかないもの。生きている、と胸を張って言えない。



「契約成立ですね。では、行きましょう、夜国に!」



そんな小春の心中も知らずに一煌は表情を一気に明るくさせ、弾んだ声を出す。



「あ。それから、私のことは一煌と呼び捨てに。さん付けや様付けはいい加減、飽きましたから」


と、思ったら急に萎んだ声になり一煌は小さく息を吐き出して伏せ目になった。

掌てのひらの中にあるピアスをいじっている。



暫くすると、チェーンの先に小さな星がついている方だけを器用に取り出し、指で摘んで小春に見せた。



「このピアスには私の魔力が込めてあります。これがあれば私と連絡がとれるので、大切にしてくださいね」



「くれるんですか?ありがとうございます。でも、あの、一煌さ……一煌は私と一緒にいてくれるんじゃ……。」



 一煌は小春に向かって手を伸ばし、手の甲で周りの髪をよけながら指先で左耳に触れた。

何かを思い出しているような目。何を思っているのか、小春には全くわからなかった。


「……いいえ。私は襲われ、力を失いました。私は夜国という国の出身ですが、もうあの世界では体を成すことさえも難しい。私の力の欠片が様々な国に封印されているんですよ。だから貴方の、小春の世界で今見せているこの姿も仮なんです。私は一刻も早く力を取り戻して故郷に帰り、悪者に支配された夜国を取り戻したい」



「一煌の願いは、その欠片を集めて故郷に戻ること?」



「ええ。なので、私の願いを叶えてくれたら私も小春の願いを叶えましょう。ですが、小春の方が何倍も大変だ。私の願いは難しいものですから」



 しゃらん、と音がして一煌が小春の耳に星のピアスを近づけると、じんわりと心地のよい温かさが耳朶に広がっていく。



 一煌の表情は強張っていた。寂しそうな苦しそうな表情で、口角が思うように上がらない様子だった。




「だから、私の願いを叶えてくれたらもう一つ、小春の願いを叶えます。何がいいか、考えておいてください」


俯いてからゆっくりと顔を上げ、まっすぐ小春を見つめる。


 柔らかい囁き声と共に手は離れていった。

今にも泣き出してしまうんじゃないかって顔をして、一煌は笑っていた。



「本当に神様なの?神様もそんな顔、するの?」



弱々しくて、壊れてしまいそうなその表情に手を伸ばす。一煌は一度、目を伏せた。

小春の手は宙で行き場をなくし動きを止めて。その手はゆっくりと下ろされる。


一煌は背中で揺れていた黒髪を撫で前へ持ってくると、その銀色の睫毛を上げて小春を目に映した。



「そのピアスは肌身離さずつけておくように」


「えっ、あの、私ピアス空いてな、」


「魔法の塊のようなピアスなので、そういうの関係ないんですよ」


 一煌は神紋だけになったピアスを自分の耳に付け直した。


 そういうものなのか、と小春は星のピアスに触れる。

温かさが消えて、その感触は普通のピアスと何ら変わりないように思えた。



一煌の表情も声も戻っていて、けれど小春の胸の端っこにはチリチリと寂しさのような、ただの違和感のような、何かが残っていた。


あまり触れてほしくない部分なんだろうな。小春はそれ以上、一煌に介入するのをやめた。


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