3 逃げ、たい




「わかっていない顔してますねえ。困ったな。でも断られるわけにはいかないんですよね」



 一歩、小春に近づいた男はふわっと髪を揺らして、余裕な笑みを浮かべる。足音が全くしなかった。



 今宵は闇夜。道端にある心許ない街灯の光がぼんやりと神社に届いている程度だった。



それなのに男の黒髪も羽織も、その闇より遥かに深い。穴が空いているようにも見えたし、逆に闇が溢れているのでは、と、ぞっとした。


 とんっと背中に鳥居があたる。逃げ場がなくなった。




——ああ。と、小春は男から目が離せない。




——この人、ホストでも詐欺師でも、ない。と、唐突に理解した。





「願い事、あるんでしょう?私には貴方が必要で貴方にとっても私は必要だ」





男は目の前で小春に笑いかけ、囁き声で惑わすように言った。頭に浮かぶのはどうしてか、「悪魔の囁き声」という言葉。


 またチリンと鈴の音が聞こえた。





 銀の揺れるピアスが黒髪の中で光っていた。それは月夜神社の神紋をかたどっていて、それと一緒に小さな星も揺れている。


動くたびに揺れてぶつかり、チリンと音が鳴っていた。



「私の願いを貴方が叶え、貴方の願いを私が叶える、という意味です。悪い話ではないと思いますが?」


男との距離が近い。それは小春がピアスの形をわかってしまうほどに。

隙が全くない、表情だった。どこを見ても綻びのような部分を見つけられない。


「貴方は一体……。」


するりと唇から落ちていく。その声は怯え、震えていた。



「私は一煌いっこうと申します。貴方がこの世界から逃げるお手伝いを」



「わ、私の願い、どうして知っているの?」


息が一瞬、止まった。



「どうして、って。ねえ?」



 と、一煌は再び小春の後ろ——祠へ目を向けた。

つられて小春も後ろを向くと、幕がそよそよと風に揺れている。



水の流れる静かな音が聞こえる。幾らかの沈黙が流れた。




「神様?」



 小春はハッとして口元を右手で押さえ、勢いよく一煌を見る。

疑う余地もなく、パッと浮かんだ、けれど妙に確信のある答え。



一煌は何歩か後ろへ下がり小春と距離を取ると、愉しそうに笑って微かに頷いた。



「私の申し出を断れば、貴方には日常が待っている。そういう幸せもあるでしょう。でも、貴方はどうして願っているんでしたっけ?逃げたい。でも一人じゃ、できないんでしょう?」



 遠くで外にいる誰かの笑い声が響いた。



 小春は顔を顰しかめ口を開きかけたが、言葉が出てこなくて力を抜いた。



一煌は微笑を崩さず、けれど深い底みたいな目で見透かすように小春を見つめる。


 俯くと、履き潰したハイヒールが目に入った。黒が砂や埃で白っぽくなってしまっている。



「わ、私は、一人じゃ怖くて逃げられないから、だから、願って、いて」



 か細い声なのに、静かな場所だからよく響いた。

声が震える。けれどその震えは、目の前の人物がわからないという怖さからではなく、自分の壁と向き合う怖さだった。



「誰だって、怖いですよ。逃げるのだって勇気がいりますから。逃げることができれば一人でも二人でも別にいいんじゃないでしょうか。そこには体裁ていさいも何もないんですし」



 声の起伏もなく、気遣っている様子もなく、本心でそう言っているようだった。半ば興味がなさそうにも見える。


一煌は自分のピアスを両手で弄りながら小春を一瞥しただけだったからだ。

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