2 美しい男
帰ろうと思いバッグを肩にかけ直すと、風が優しく頰を撫でた。あったかい、体温と同じ風。
小春は上着を脱いで手に持った。
もうすぐ夏がやってくる、と夜空を見上げた。
悩んでいる間に、日々を何となく、早く過ぎてしまえと邪険に扱っている間に、夏はきっと過ぎてしまうんだろう。
水の流れる静かな音、時々ちゃぷんと水が跳ねる音。何匹かの虫の声。
草木の青い匂い、神社の古い匂い、コンクリートからの熱っぽい人々の生きた匂い。
息をついてから、小さな石橋を渡る。——と、どこからかチリンと音が聞こえた。
それは、どちらかと言えば鈴というよりも風鈴のような高く余韻の残る音だった。
「逃げたい場所はあるのですか?」
「え?」
明瞭なその声に顔を上げる。
男がまるで小春の帰路を阻むかのように立っていた。
足音ひとつ聞こえず、急に現れたみたいに思えた。
男の前髪は長く、横へ流されており、風が吹くとはらはらと髪が顔にかかった。
そこから覗く目は透き通る青で。それは水族館の、光が降り注ぐ水槽の中の様な透明さを持っていた。
睫毛は銀で、彼が微かに動くたびに、街灯の光のあたり方によって濃い銀色になったり白さが強くなったりした。
黒髪は後ろで一本縛りにされている。
長い羽織はその髪と同じ深い色で、体を隠すように右上の銀装飾でとめられていた。肌は白く、その黒によく映えている。
不思議な雰囲気の男だった。生活感がまるでなく、美しいものだけで、できているような。
「逃げたいなら、私がその願い、叶えて差し上げましょう」
男は落ち着いた静かな声で、小春にそう言った。
ふっ、と顔を上げて微笑を浮かべるその様は同じ人間と思えないほどに美しく、見入ってしまうものがあった。
「……えっ、と」
一歩、後ろへ下がる。
いくら綺麗な人だとしても、初対面でそんなことを言ってくるってどうなんだろう。というか変質者だったらどうしよう。
それに。と小春は男を下から上までじろじろと見てしまう。
——それに、こんな綺麗な男性って、なんていうか、本当に生きているの?存在するものなの?胡散臭くてたまらない。新手の詐欺とかだったらどうしよう。
訝いぶかしげに男を見ると、男はきょとんとした顔をして首をゆっくり傾けた。
またチリンと音が鳴る。艶のある髪がさらっと横へ流れた。
男は「ああ」と声を出して、小春の後ろ——月夜神社へ目を向ける。
「その神社、別世界の入口なんですよ。私、今は案内人みたいなことをやっていますが、昔は『夜の王』なんて呼ばれていて、名を知らない者はいなかったくらいなんですよ。だから決して怪しい者では」
「よるのおう……。」
男の言葉をそのまま口にして、更にじりじりと後退りする。
言っている意味がわからなくて、いや、仮にその言葉に本当に意味があったとしても、貢がされる危ない意味しかないのでは。
詐欺とかじゃなくて、そっちだったか、と思わずバッグをぎゅうっと強く握る。
顔がいいからって、わざわざこんな飲み屋街から離れた住宅街で客寄せしなくても……と、思い、もう一度男を見つめた。
「夜の王」という言葉が強烈すぎて勝手にホストかと思ってしまった、けれど。
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