第58話 F

 泣きじゃくる紗有美さんを前に私は泣くことができなかった。

 もちろん話の内容はショックだったが、紗有美さんの気持ちを考えると私が泣くわけにはいかないと思ったのだ。

 静寂のまま時間が過ぎていく。

 目覚まし時計がないこの部屋は秒針の音すらしなくて、私たち2人の呼吸の音と、紗有美さんが時折するしゃっくりの音だけが良く聞こえた。


「ごめんね。こんなこと言っても蒼依を困らせるだけって分かってるのに」


 紗有美さんは顔をあげて私を見つめた。

 モデルかと見紛うようなその端正な顔立ちに涙が浮かんで、私は少しドキッとした。

 ときめきではない、胸の痛みだ。

 きっと、暖さんとお似合いだったに違いない。


「いえ。私、何も知らなかったから、教えてくれて、ありがとうございます…」


 知らなかったんじゃない。

 知ろうとしなかったんだ。


「信じてもらえないかもしれないけど、私ね、蒼依を責めに来たわけじゃないの。暖のことを説得して欲しくて来たんだ。暖に、私が好きだった頃の、夢に向かって真剣だった頃の暖に戻って欲しいの」


 少しだけ冷静さを取り戻した紗有美さんはすっかり冷えた紅茶を一気に飲み干した。

 きっと、紗有美さんは今でも暖さんのことが好きなんだ。


「大きな夢を叶えるには、その代償を払わなくちゃいけない。それだけ、暖は毎日多くのことに耐えてる。あの適当に見える軽い態度も、それの裏返しなの。でも暖だってただの人間で、特別強いわけじゃない、まだ、たかだか24歳の学生なの。誰かが、支えてあげないとダメなの。…でもそれは私じゃない。蒼依なんだよ」


 両手で持ったカップを丁寧にテーブルに置いて、紗有美さんは私をじっと見つめた。

 まっすぐに私を見据える涙で装飾されたその瞳は、私を釘付けにした。


 暖さんを説得するということは、暖さんと、……離れる?

 別に別れるわけじゃない。

 でも、アメリカに行ったら一緒にいられない。

 少なくとも私が卒業するまでの3年間。

 私はまた1人でこの部屋で過ごすの?

 暖さんのいないこの部屋で。

 私が何も言わなければ、暖さんは行かないでくれる?

 そうすれば卒業しても一緒にいられる。

 夢を諦めた暖さんと?


 暖さんと過ごした記憶が蘇ってくる。

 夜遅くまで学校にいる暖さん。

 朝早くから大学に向かう暖さん。

 日曜日ですら研究室に行く暖さん。

 なつめちゃんと笑って散歩する暖さん。

 マグカップに沢山結紮の練習をする暖さん。

 ギターは指を動かす練習に良いと笑った暖さん。

 犬に噛まれた手の傷さえ、嬉しそうに語る暖さん。

 乳熱みたいな牛の像を見てテンションの上がる暖さん。

 手術の練習のために利き手じゃない右手でお箸を持つ暖さん。



「分かりました」


 

 私が好きになったのも紗有美さんと同じ、夢に向かう暖さんだ。

 Yesterdayを追いかけるのはやめた。

 あの時暖さんが最後のコードを変えたみたいに、昨日ばかり見つめていたら先に進めないんだ。

 未来を見つめて、走って走って、走り疲れたら休んだっていい。

 その時は私が一緒に支えてあげるんだ。 

 でも何もしないで夢を諦めるのはダメだ。

 一人で全力で走り続けても同じ場所にしか留まれないなら、先に進もうとするなら、きっと人は誰かに助けられて、さらに全力で走らなくてはいけないんだ。

 私は決めた。

 

 

「私も暖さんに夢を諦めて欲しくないです。説得してみせます」

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